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対談・永遠と現実の交錯
河野典生
田村仁
 
◎私のインド◎
河野・・・田村さんとの初めての出会いは、じつはインドのベナレス(バラナシ)でしたが、調べてみると、あれは一九七八年二月ですね。
田村・・・そうでしたか。河野さんの『明日こそ鳥は羽ばたく』という、ジャズと民族音楽の交流をテーマにした小説の後記には、七三年十二月から七四年一月にかけてと、同年四月の再取材とありましたが、その時が最初のインドでしょうか。
河野・・・その通りです。最初は特別の目的を決めない、ちょっと歳を食ったヒッピーのような旅で、改めて雨季直前の暑くなる時期に、ネパールまで足を延ばし、中篇集『わが大地のうた』とか『チャイ売りの声』を書いたりしてから、七五年にあの長篇をまとめたんです。
田村・・・あの小説には、インドの反政府運動の青年などもでてくるのですが、七三年十二月といえば、じつは私は戦争取材でカンボジアに出かけていた頃です。まだポル・ポトが全権掌握する前でしてね。
河野・・・そうでしたか。しかしインドは、もっと早く、たしか第二次インド・パキスタン戦争直前の、混沌の時期だったでしょう。
田村・・・そうです。しかし私のインドとの関わりは、じつはみずから進んでというわけじゃないです。七一年三月に東パキスタンからのバングラディシュ独立宣言というのが出たわけですが、まだ完全独立というわけではなく、地下運動をやっている青年を、東京である人から紹介されたのです。パキスタンと対立するインドが、彼らをバックアップしている政治状況を、じつは全く私自身は知らなかったわけなのですが、亡命政府のアワミ連盟の人間を紹介するので、何とかすぐにカルカッタまで、飛んでくれないだろうかと。とにかく現地を取材して日本のメディアに発表し、運動に役立たせてくれないかと。当時私は、東南アジアの取材を中心にしていましたが、そのことに関連して、写真家としての今後について、いろいろ迷いがありましたし、相手の熱意にもほだされまして、七一年の雨季の頃に、初めてカルカッタに降り立ったのです。
河野・・・状況ももちろんですが、非常に苛酷な季節ですよね。
田村・・・そうです。賄賂が目的かもしれませんが、税関でフィルムや機材をいきなりボンド(保税倉庫入り)されましてね。連日、情報省や内務省通いです。亡命政府の紹介状が利いたのか、十日ほどでやっと取り戻すことができました。東パキスタンの独立運動の取材は約三カ月間やり、『毎日グラフ』や『世界』などに、発表していました。
河野・・・『毎日グラフ』ですか。拝見した記憶があります。
田村・・・ニュース性が第一なので、帰国して入稿というわけにはいかない。カルカッタで一番優秀な現像所ということで紹介されたが、フィルムはキズだらけで高温現像のため、乳剤は溶けるわでひどい目にあいました。その後は取材先で知り合ったインド人の写真家の暗室を借り、自分で現像をしました。取材した写真はコメントをつけ日本行きのスチュワーデスに”運び屋”役を頼みました。その後私の写真は亡命政府から通信社を通じ、世界各国に配信されました。後になって、バングラディシュの独立に尽力してくれたという理由で、先方に感謝もされたのですが、じつをいうと、私には毛頭、政治的動機はなかったのです。
河野・・・東南アジアでやっていた仕事で、迷いがあったとおっしゃいましたが、どういう種類の仕事ですか。
田村・・・考えてみればそれも結局、自分自身の積極的な意志で始めたわけではなくて、当時はスタジオを中心にしたコマーシャル的な仕事をしていましだが、ある一流商社関連の仕事で、東南アジア四、五カ国を回って日本から進出した企業の工場生産する自動車や電化製品の生産ラインなどを撮ってくれという依頼が入ったわけです。その頃の日本の商社というのは、支店長以外は、ひとつのアパートを借りて住んでいました。私もそこに転がり込んで、仕事をしていたわけなのですが、日本の商社員はみな威張りくさってましてね。使用人を殴ったりで、反日感情はものすごかった。かつて親父たちの世代が、中国大陸で行ったことがオーバーラップしてきましてね。当時はまだ若く正義感の強い時でしたから帰国早々スタジオをたたんで、出版社関係の仕事を始めました。その年から毎年アジア取材が始まるわけです。
河野つまり、それからフリーの立場で七一年のバングラディシュ、七三年のカンボジア取材、たびたびのインド行きと、つながっていくわけなんですね。
田村・・・そうです。当時はアジア関係の出版物に限りがあり、情報が全くない時代でした。
河野・・・想像はつきます。それに田村さんは、あたり前の人間の表情とか、民衆の生活の様相などにむしろ興味があったんですよね。
田村・・・そうなのかもしれませんね。結局はあの時の商社の仕事によって、アジアヘの興味のきっかけができたし、インドでの政治がらみの仕事も、後の目で見れば同様のきっかけだったといえるでしょう。重い機材を背に一日中歩き通しの肉体労働者のようなものですし、経済的にも苦しい時期は続きましたが、結局しばらくはコマーシャル写真で稼いだ金を食いつぶしながらアジア取材を続けていたことになります。
河野・・・しかし、インドでのフリーの仕事というのは、慣れるまでは大変でしょうね。
田村・・・体力的な苦労というより、多人種、多言語の土地ですし、カースト、宗教の問題など、人間関係が疲れます。でもそれが魅力でもありますから、やっかいです。
 
◎ベナレスでの三人の出会い◎
田村・・・六〇年代の頃から、われわれの行き始めた七〇年代にかけては、ベトナム反戦という理由もあって、ネパールと並んでアフガンもヒッピーのメッカでしたね。カトマンズ=ロンドン間の定期バスなんかもあったりして。
河野・・・アジア・ハイウエー・バスというやつ。カブールはその“途中駅”で、ほかの安い国際バスなんかも、ソ連侵攻の七九年の直前まで、どうやらあったようですからね。しかしその後のタリバーンの時代を経ても、民衆は何も本質的には、変わっていなかった気がしますね。大量の武器弾薬を使って、アメリカは一気にアフガンを解放してやったつもりでしょうが、いわゆるアメリカナイズとは無縁の、かつての雰囲気の復活を見ると、子供時代ではありましたが、私のような戦争直後の日本を記憶している者には、ちょっと尊敬してしまうような、感嘆の思いがじつはあります。少し脱線しましたので、ここで田村さんと初めて出会ったベナレスのことに話を戻すと、ちょうど大きな祭りに出会って、極彩色のサラスヴァティの飾り物をそれぞれ河まで運びながら、赤い粉をぶっかけ合う、大群衆に暗くなるまで、完全にもみくちゃになり、改めてその翌日にガンガーガンジス河の早朝の沐浴風景を見るために、河岸に出て行ってみた。それがあの時だったわけです。
田村・・・ジャズ・ピアニストの山下洋輔さんと、一緒にいきなり現れましたが、あれはどういういきさつですか。
河野・・・じつは、さっき話に出た『明日こそ鳥は羽ばたく』という小説は、ジャズ演奏の専門知識とか、いろいろと彼に教わったのです。あの本の扉には“ジャズと自由は手をたずさえて行く”という、ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクの言葉がエピグラフとして付いています。日本人のやっていたジャズというのは、戦前の例の『上海バンスキング』で描かれたような時代も、米軍基地などで仕事を得た彼らの急激な復活に始まる戦後しばらくの黄金期も、基本的には楽しく明るいエンターテイメントだったわけです。もともとアフリカから連れて来られた連中の子孫が、南北戦争後に、南軍の軍楽隊が二束三文で放出した楽器を手に入れ、ヨーロッパ民謡などを演奏した、奇妙に浮き浮き魅力的な、混血音楽のブラスバンド、そいつがジャズの誕生であり、白人たちがそれを基に、ぐっと洗練されたかたちの、たとえばスイング・ジャズとして完成した。そいつがまあジャズの歴史の定説というわけですが、そこにある即興の要素をどんどん拡大するかたちで、一部の黒人ミュージシャンが、五〇年代に入ったあたりで、いうならば反抗的な、精神性の強いジャズを始めた。それがビ・バップというスタイルで、アルト・サックスのチャーリー・パーカー、さっきのセロニアス・モンク、彼らがその立役者ですが、そういうたぐいのレコードを掛ける、いわゆるモダンジャズ喫茶が、日本で見る間に増殖したのが六〇年代に入ってからです。いうならばそのアート性や反抗性ゆえに、じつは黒人差別のあるアメリカ本国よりも、日本やヨーロッパの若い世代に、その手のジャズは強く支持されて行ったわけです。まだ二十代半ばだった、小説を書き始めたばかりの私もご多分にもれずその一人でしてね。当時の山下洋輔は、音楽大学に通いながら、プロとして活動も始めた天才ジャズ・ピアニストであったわけです。私が彼を”発見”したのは、日本最初のジャズ専門のライブハウスとして、まもなく開店することになる新宿ピットインという店だったのですが、彼自身はさらに過激な、フリージャズといわれた究極の即興ジャズに突き進んで行ったさなかでしたね。学生運動たけなわだった六〇年代終わり頃には、封鎖中の早大の教室に大隈講堂のグランドピアノを運び込ませて、無料コンサートを強行したり、あまりに激しい演奏のために、しばしばピアノの弦を切ったり、ペダルを踏み抜いたりしたために、公共ホールのピアノなどの貸し出しを拒否されたりする、まさしく過激派のピアニストでした。しかし、じっさい彼と話してみると、ジェントルで知的な青年であって、それゆえに少数ながら強力なファンや支持者を、じりじりと殖やして行ったわけです。現在彼はご存知のように、鋭さの要素は失わないまま、成熟していったミュージシャンとして、文字通り世界的な存在ですが、特に八八年以来のアフリカ系アメリカ人のドラム奏者とヨーロッパ系のべーシストと組む“山下洋輔ニューヨーク・トリオ”の活動は、混血音楽ジャズとしては最も理想的なかたちのユニットですね。話を元に戻すと、あの七八年当時は、ドイツ人大物プロデュサーと組んで、東西ドイツにまたがったりするヨーロッパ・ツァーを始めて三年目でしたが、相変わらずあちらのメディアなどでは“カミカゼ・ジャズ”などといわれていまして、さっきの田村さんの話のように、彼なりの転換期を模索していた頃だったでしょう。
田村・・・河野さんのあの小説で、インドという土地に興味を持った。つまりそれも、そのことと全く関係ないわけじゃないのですね。
河野・・・たぶん、そうだと思いますね。シタール奏者の巨匠ラヴィ・シャンカールなどの高級インド音楽には、独特の即興の要素があって、もともと関心はあったのでしょうし・・・シャンカールはビートルズの、ショージ・ハリスンもグルと仰いだりしたわけですが・・・サックスの大物ジョン・コルトレーンも、直接その即興法について教えを請い、新作レコードを聴いたシャンカールから、あんな粗野な音楽を私は教えたわけじゃないと、叱られたという実際のエピソードとかね。特にインド人のジャズについての話とか、道端で聴こえる素朴な音楽、そういう小説の中の描写に、彼はいたく興味を示してくれたわけです。
田村・・・旅先で日本人に会うと、河野さんのインドをテーマにした小説の話がよく出ていました。ところでインドのジャズというと、一般のインド人とは全く縁が薄いでしょう。
河野・・・そうですね。まあインドの音楽というと、例のムガール王朝の流れを汲む、精妙なシタールとタブラ中心の音楽・・・南インドのヒンドゥ寺院とかの祭りで聴ける管楽器も入った元気でにぎやかな音楽・・・そして道端で簡単な笛とか、よれよれの行者が弾いたりする竹をしなわせる一弦楽器、大道芸人の蛇笛とか歌とかのいわゆる民衆の音楽の、だいたい三つに分かれますね。しかし、インドでは映画産業が盛んでしょう。その大部分はミュージカルで、活劇とかロマンスが合体した大娯楽大作ですよね。したがってインドのジャズ・ミュージシャンも、映画のスタジオで稼ぐことが多いそうです。小説では設定を変えましたが、中級ホテルジャンパスでのピアニストも、クラシック・ピアノから始めたアッパー・クラスの出身ですが、映画の仕事もずいぶんやった。そういうふうに、いっていました。その時彼がやっていたのは、じつはデューク・エリントンのナンバー『A列車で行こう』でしてね。もちろんそれは私にとって、まさしく未知との遭遇でした。まあ、団体客がやってくると、時には『スキヤキ』をやってみたり、なにやらスラブ風の音楽をスインギーにやったりするわけですが、インドでのジャズということ自体全く予測してなかったので、非常に印象が強かったわけです。ホテル近くのコンノート広場へ歩いて行くと、小さな胴にボール紙を張った、竹製のヴァイオリンのおもちゃのようなやつで、盛んに何か弾きながら、そいつを売りつけようとする、よれよれのランニングシャツの子供がいる。よく聴いてみるとそれは『ドナウ河のさざ波』の最初のメロディの、明らかにインド風に変型したやつの繰り返しなんです。当時のインドのヒット映画に、そのシュトラウスのメロディが盛んにテーマ音楽として使われたやつがあったことは、後に分ったことなんですが、音楽の伝わり方、混ざり方は、じつに面白いと思ったし、カーストのあるインドの土地で、全く別次元の存在のように、それぞれの場所で演奏される、それぞれ無関係な音楽の現場に、本来混血音楽である、ジャズをやるミュージシャンが、むろん何らかの理由があって、次々と遭遇して行き、彼らとセッションを試みる。そのストーリー自体がテーマとなる。そういう小説はどうだろうかと考え始めたわけなんです。
田村・・・インドのジャズのルーツは、宗主国だったイギリス経由だそうですよね。
河野・・・その点は私の推測ですがね。つまりデューク・エリントンという人物も、新しいジャズをフルバンドのかたちで、確立した巨匠であって、これはもちろん実話ですが、彼の初めてのロンドンでのコンサートでは、カップを使って音を変える、トランペットのワーワー・ミュートを、お客は単なるコミックと思って、ゲラゲラ笑ったりしたわけです。ところがその時、当時の皇太子から、突然の使いがやって来て、王宮での演奏会をぜひやってくれというわけです。後にアメリカ人のシンプソン夫人と結婚して、王位を捨ててしまったりする、まあちょっと変わり者の彼は、強烈なジャズファンだったらしいですね。そのことが巷の評判となって、エリントンの実験的ジャズも、イギリスでは本国以上に、高い評価を受けることになったのですが、それは大不況時代のアメリカで、その手のレコードの発売が、ほとんどストップしてしまった頃でも、イギリス向けの製作だけは、続いていたというくらいだそうです。
田村・・・なるほど、それなら山下さんが、興味を持つのもわかりますね。







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