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対談・丸裸で生きている人々
北村皆雄
野町和嘉
 
◎ヤクに依存する高地の生活◎
北村・・・ヒマラヤを挟んで南側はモンスーンの影響を受ける湿潤地帯で、北側は乾燥地帯です。北側、青蔵高原のチベット文化圏は、平均海抜四五〇〇メートルと世界一高い高原です。過酷な環境で生きる人たちの生活やチベット仏教を中心とする精神世界について語り合いたいと思います。野町さんはどういう形でチベットヘ入っていったのですか。
野町・・・きっかけは毛沢東に率いられた紅軍の長征のルートをたどったことです。最初に行ったのが一九八八年です。長征とは、人民解放軍の前身である中国労農紅軍が、一九三四年に行った大撤退行ですが、華南のあたりにあった解放区から、国民党に大攻勢をかけられ逃げ出すわけですね。最終的には延安まで一二〇〇〇キロの行軍をするわけです。四川省の大雪山を越えてチベットに入り、アバ高原の大草原を縦走して北に向かっていきます。二、三万人もの大軍がどのように行軍したかというと、チベットには大きなお寺が各地にありますが、そこを占拠して休息をとりながら行軍を続けた。あるいは長征史に残る重要な会議がそこで行われた。ところが、それら壮大であったはずの寺がひとつもないんです。文革やそれ以前の、中国の支配が始まった時点で壊されてしまった。いくつかは再建されていますが、なんで寺はなくなってしまったのか疑問に思いました。チベットの歴史を知る前に現実を見てしまった。チベットに入るきっかけとしては極めて変則的ですね。
北村・・・青蔵高原に連なる大草原を見た時に、漢民族でイメージする中国世界とまったく違っているという印象を受けたのでしょうか。
野町・・・それは衝撃的でしたね。成都は“蜀犬日に吠える”の譬えがあるくらい毎日霧が出て曇っているところですね。そこから一日走っただけで、標高三〇〇〇メートル、ピーカンに晴れ渡った大草原に着いてしまった。馬に乗ったチベット人たちが豪快に駆けてゆく。谷間にへばりついた貧乏たらしい漢族農民とはスケールが違う。チベットと中国の境界線はここにあったのかと納得しました。
北村・・・いまの中国チベット自治区は非常に狭い範囲となっています。かつてのチベット文化圏は、四川省、甘粛省、青海省を含んで、今の自治区より倍ほどあった巨大な地域だったのですが、四川省側から入ってチベットに触れたということですね。
野町・・・その後チベット全域を回りますが、東チベットというところは、ヒマラヤに遮られているわけではないので雨もそうとう降りますし非常に豊かです。家畜も多いです。それまでのチベットのイメージとは全く違う。
北村・・・長征で通過した四川省の西北部は、黄河が一八○度大湾曲するところで、一帯が湿地で豊かな牧草地になっているんですよね。そうした地域から乾燥したチベットの世界に入ったのはいつ頃ですか。
野町・・・カイラスに行ったのが初めてです。天安門の翌年ですから一九九〇年です。カトマンズからいきなり五〇〇〇メートルの峠を越えて。荒涼とした大地がどこまでも広がっていた。ひどい高山病にかかりました。
北村・・・あの時は一緒でしたが、一挙にチベット高原の心臓部、海抜四五〇〇メートルの所に行ったのですからね。
 チベットでは、ラサの町の高度が三六〇〇メートル、第二の都市シガツェが三八○○メートル、チベット最大の仏塔で有名なギャンツェの町が四〇〇〇メートルと、西に行くに従って高くなっていきます。それより高くなるに従い町も小さくなり、やがて遊牧民の世界になっていく。私の行ったチベットでは、定住している最高地の村は海抜四八○○メートルでした。その辺りが人間の生きるぎりぎりの高さで、五〇〇〇メートルを越すと暮らしていけない。実際南米の鉱山では、五〇〇〇メートル越したところに村を作り暮らし始めたら、みな病気になってしまった。
 しかし、チベット高原では、夏は遊牧民が五〇〇〇メートルを超えて暮らしています。遊牧民の写真を野町さんはいろいろ撮られていますが、その生活にふれてどう思われましたか。
野町・・・高度で言うと、青海省とチベット自治区の境であるタングラ峠は五二〇〇メートルあるんです。そこを十二月に取材しましたが、厳冬期なのにあのあたりには定着している遊牧民がたくさんいるんです。テントの中は越冬のためのヤクの糞がうず高く積まれてあった。テントの前に分厚い氷の張った池があって、そこで五歳、六歳の子供たちが鍋蓋をスケート代わりにして嬉々として遊んでいるんです。五二〇〇メートルというと酸素は平地の半分、子供はそこで生まれ育っているんですからね。私の認識では、草がある限り、家畜が生きられる限り、人はどこにでも住めるんじゃないでしょうか。四、五〇〇〇メートルでの生活は一二〇パーセントヤクに依存したものです。氷点下三〇度にもなる真冬に唯一の燃料となるヤクの糞がなければ絶対生きていけません。肉やミルクよりもまずは糞でしょうね。人間がヤクに寄生しているとしか言いようがありません。針みたいなか細い草をヤクを介して摂取する。あれほど家畜に依存している牧畜の形態はない。
北村・・・チベット高原では、夏は五五〇〇メートルというような結構高いところまで遊牧に来ていて、八月終わりになると寒くなりますから下におりたり、風を避けるために山陰に行ったり、夏冬で居住地を変えながら暮らすのが普通なのですが、五二〇〇メートルもある厳しいところで冬を越しているのはすごいと思います。
野町・・・そうですね。あの高度で遊牧しているのは世界でも珍しい。
北村・・・ヒマラヤで三二五〇メートルのチベット系民族の村を取材したことがありますが、そこでは鶏の卵が孵らないんです。低いところで孵化させた雛鳥を持ってきて育てていた。チベット文化圏では、高度が三〇〇〇から三五〇〇メートルくらいを越えるとヤクが活躍する世界になるのですが、それより低い所だとヤクと牛を掛け合わせた一代雑種のゾウを使役にするのです。高地に強いヤクと低地に強い牛の特質を交ぜて、高度に適合させるのです。
 チベットの人たちがあんな高いところでなぜ子孫まで残していられるのか。僕の知り合いは、三〇〇〇メートルを越せば、人間のあらゆることが許されると言ったけど、チベット仏教のヤブユム(男女合体仏)に見られるような性的な世界も、素直に見られるような気がします。
野町・・・砂漠でも同じですが、澄み渡った空、空気、われわれが日常親しんでいる現実の世界から簡単に飛躍させるものを孕んでいるんでしょうか。天候でも突然変わって雪が降り始める。チベットの怖さです。
北村・・・チベットは風と氷の国です。土の下一メートルが永久凍土になるような土地で五体投地という身体の全体で自然を感ずる祈りの方法を発見した。
野町・・・風といえば、経文をびっしり印刷したタルチョが風になびくことにより、風が経文を読んで天空の神々に届けると信じられていて、聖域の山の斜面などには大運動会の万国旗のように張られてはためいている。強風のとき一人でいるとその音は怖いくらいです。自然の気配に対しすごく敏感になります。
 
◎巡礼と身を捧げる烏葬◎
野町・・・五体投地でラサを目指す巡礼とはじめて出会ったのはカムでのことです。女性が二人と荷物を運ぶリヤカーを引く若者が供をしていた。すごい形相でやっているおばちゃんたちの記念写真を撮らせてもらったんですが、にこっと笑うと澄みきったいい顔なんです。心が洗われるというか、モノを持たない強さといった表情でしょうか。
北村・・・巡礼はチベットの人たちにとって何なのでしょうか。
野町・・・来世に再び人間に生まれ変わるための罪のお清めですよね。神の慈悲に縋って(すがって)罪を清める、という意味ではイスラームの巡礼も同じでしょう。
北村・・・聖なる場所、聖なる時間、心と身体を日常から切り離して特別なところで生きるということでしょうか。二年とか三年かけて聖地へ巡礼に行く人によく出会います。人間の身長の幅だけを進んで行く五体投地の巡礼者を見た時は生きている時間感覚までがすっ飛んでいます。何ともいえない。周囲の人も暖かく接している。町の食堂でも客の残したものを恵んでいますよね。
野町・・・ほとんど何も持っていなくても旅ができる。チベット高原丸ごと仏教世界で、われわれの宗教観とは次元が違う。イスラームもそうですが聖と俗とを分けない。日常世界すべてイスラームです。寝て起きて食べて排泄して全部チベット仏教ですね。われわれが宗教に入ったり日常に戻ったりするサイクルとは違うんでしょう。
北村・・・そういう人たちに、何のために巡礼するのか?と、私たちはいつも馬鹿な質問をしている。万人の幸せを願ってという答えが必ず返ってくるのですが、チベットの人たちにとっては、祈りが日常であり、人類のためという考えも自然なことではないでしょうか。
 祈りも日常、死も生からの循環で特別なことではないというのがチベット仏教の世界ですよね。死者の肉体を解体してハゲワシに食べさせる鳥葬も、ごく当然な仏教的な行為です。中国語で「天葬」と訳されていますが、チベットでは魂を天に送るんだとキレイに捉えるのではなく、生命の風を死者の身体から抜け出してしまえば、後は解体し他の生き物に食を施そうという考え方なんです。チベットには、魂を天に送るという考えはないと思います。野町さんは、鳥葬を取材されてどう思いますか。
野町・・・何度か見ていますが、いちばん凄かったのは去年東チベットでのことで、すぐ家の軒先でやっていたのを近くで見たことです。朝、町を出て少し走ったところで、道ばたのタルチョがいっぱい張られた聖所から白い煙が立ち上っていた。何か?と聞くと鳥葬のための鳥を呼んでいるところだというんですね。待っているとハゲワシが次々に飛来する。ラサでは外国人は鳥葬に絶対近づけないんですが。死体は一一歳の少女で、馬から落ちて内臓破裂で死んだそうです。小屋のような寺の分院の前で坊さんが一人で切っていた。家の裏の斜面には鳥が待っているんです。玄関口にまな板のようなのがあってそこで遺体を切っていまして、もう一人の男が家の角のところに座り込んで、鳥が近寄ってこないように番をしているんです。ふたりは日常会話をしながら、ときに手を休めて談笑しながら、ヤクの肉でも解体しているかのようでしたね。それがショックでした。それまで鳥葬というのは、人里離れた特別な場所でやるものと思ってましたから。解体していたその坊さんは結構位の高い方で、二時間後に隣の尼寺で法会があってそこにやってきました。もちろん血の付いたエプロンは外していましたが、尼さんたちを前に説教をはじめたんですね。
北村・・・ラサのセラ寺の裏に鳥葬台があって、一九八七年に鳥葬を一度撮影したことがあるんです。岩の上で読経が捧げられてから、鳥に食べやすくするために、亡き骸を切り刻んでいくのです。男が踊りながら切っているんです。頭蓋骨は大きな石で粉々に砕き、潰して、鳥が食べ易いように手を加えるのです。人間は魂を抜いてしまえば、一つのモノに過ぎない。日本と違って、ずいぶんぞんざいに扱う気がした。
野町・・・あそこまで徹底できる。チベットの場合、火葬にしようにも薪がないわけだし、土葬しても、半永久凍土で遺体は分解しないんです。だから鳥葬は理にかなっているんですね。輪廻思想が徹底しているわけですから、死者の魂を抜く儀式をやってしまえばただの肉の塊に過ぎない。別の面では縁起を担いだりいろいろあるでしょうが、死に関する限りあの徹底ぶりは凄い。やはりそれが標高四〇〇〇メートル別世界チベットなんですね。
北村・・・ラサの外人向け高級ホテルでバイオリンを弾いている美しい二〇歳のチベット女性に会ったんです。鳥葬をどう思うのか、あなたはどんな葬られ方がいいのかと質問しました。その娘さんは、一瞬考えた後、少し怖い気持ちがありますが鳥葬にします、と答えたんです。彼女のように西欧の知識がある者でも、死した後は、自分の肉体を今までお世話になった生き物にお返しするという考え方を持っているのに、感動しました。
野町・・・独得の生命循環の理念があるんでしょう。放牧地の表土というのは、何百年という時間をかけて形成された牧草の根が張った腐植土の層なんですね。それをいったん剥がしてしまうと下は砂漠ですから、ほとんど回復不能ですよね。ですから土地を拓いて開発するということがチベットではタブーであった。仏教的な生命観が輪をかけているのでしょうが、“Seven Years in Tibet”という映画の中にこんなシーンがありました。家を建てるために土を掘っているとミミズが出てきた。それを人々が必死になって拾い集め別のところに移す。ハインリッヒ・ハーラーの原作でも感動的に描かれていました。今でも腕にたかった蝿を私たちが叩こうとすると、皆いっせいに見るんですよ。蝿も前世は人間であったかも知れないという考えが行き渡っているんですね。インドに亡命しているチベットの坊さんに聞くと、あまりに蚊が多いため蚊取り線香は使うが、ただ窓を開けて使用するんだそうです。逃げられるように。
北村・・・無駄な殺生はしませんが、チベット人は遊牧の民です。厳しい冬を越せる羊の数は決まっていますから、日常的に殺生し、肉食で命を保ちます。チベットではお坊さんも肉を食べます。もちろんお坊さんは殺しませんが、穀物も乏しい高地の環境で、肉を食べなければ生きられません。だから、命を繋ぐために命を殺めて(あやめて)いるという原罪意識みたいなものが、チベットの人たちにあるのではないでしょうか。そのために救済装置を求める。聖山カイラスヘの巡礼もそうですよね。ここを巡礼すれば、過去、現在、未来の罪も消えるといわれてます。河口慧海が書いていますが、カイラス山で出会った男が、これまで幾人かの人を殺し、物品を奪い、人の女房を盗み、喧嘩口論をしぶん殴ったことを懺悔していた。それだけでなくこれからおこなうだろう未来の悪事の懺悔もするのですね。慧海も、懺悔は自分がこれまでした罪を悔い、どうか許してくれ、これから後はしない、というのが普通だが、ここはそうじゃないと驚いている。
野町・・・カイラスに巡礼したことによって、お許しくださいじゃなくて罪が消えましたということなんですね。
北村・・・カイラス山への絶対的信仰は、私たちの理解を超えています。
野町・・・グローバリゼイションというか、世界は平らな画一的なものになりつつある。そんななか、高地には頑固な文化が残っています。チベットとエチオピア、アンデスも高地です。なぜ高いところに独得の文化が残ったんだろうと考えると、空気が薄いですよね。薄いということは植生に限界がある。その制約から、下界からもたらされた文化は容易に根付くことができない。
北村・・・極限の高地で生きる知恵も培われていく。チベットでよく知られる一妻多夫の家族形態があります。一人の女性が男兄弟の共有の妻になるということですが、一九八七年のチョモランマ(エベレスト)の遠征のとき聞いたら、社会主義国中国には、そういうものはもうありませんといわれた。でも海抜四五〇〇メートルの村を訪ねたら、二人兄弟がいて、一人の嫁がいて、子供がいるという家族に出会った。ちょっとびっくりしました。チョモランマ周辺では、今も普通に続いている家族形態なのですね。もう少し高い海抜四八〇〇メートルの村に、一九八七年と一二年後の一九九九年と二回行ったのですが、ここでは村の三分の一が変わることなく一妻多夫制を維持していた。親子で一人の女性と結婚している家が二軒あった。生まれてくる子供はみんなのものと思っている。子供にとってはみんながお父さんで、本当のお父さんは誰?という感覚はないですよね。この家族制度は、土地や財産を分割しないための手段とされていますが、こうした家族形態をコアにしないと生きていけない厳しい環境があると思います。しかし、一妻多夫といっても、家に兄弟が常に一緒に住んでいるということではない。一人は妻とある期間は家にいるが、その時別の一人は交易に出ている、もう一人は羊の遊牧、もう一人はヤクの遊牧といったように、役割分担をしています。男たちは、仕事を回り持ちにするから、家で同時にかちあうことが少ないのです。チベット高原という厳しい風土がつくった家族の形なんでしょうね。
野町・・・田中公明さんが大変ドライな感じで書いていました。歴史的に見て、チベット最大の輸出産業は仏教であると。チベットの人口は六百万くらいで増えてないのです。中国による支配が始まる前まで全チベットに六千の寺があって、坊さんが百万人くらいいたんですね。どの家でも一人か二人の坊さんを送り出している。お寺にいて一生結婚しないわけですから人口抑制になる。チベットの寺というのは大学の研究機関みたいなものですよ。百万人もが、精神世界の研究、人間の生と死の世界の探求に一生を捧げていたわけです。しかも何百年という単位で。これは大変なバックグラウンドを形成してきたと思います。最大の輸出産業になりうるだけの深みをチベットの風土が培ってきたんでしょうね。







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