通信使との交流・影響
朝鮮人大行列記(当館蔵)
町人による行列記で、日常用語を日本語と朝鮮語で対比している。
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鞆の商家に伝わる朝鮮通信使の短冊
朝鮮通信使の一行約500人は、鞆のお寺や商家に分かれて宿泊したため、一般の人たちも、通信使と接する機会が多くありました。そのとき、かんたんな会話ができるようにと、江戸時代の中ごろ(1748年)、鞆の町人が書き残した辞書です。
朝鮮語に対応する日本語を記しています。今から250年も前に、鞆の人たちが朝鮮の人たちと「国際交流」をしていたことを記した貴重な資料です。
1719年にやってきた朝鮮通信使の記録、『海遊録』(1974年初版・(株)平凡社発行)が出版されているので、その一部を分かりやすく紹介します。
「鞆の浦は備後の国にある。宿舎は福禅寺である。船から降りると、道には敷物がしかれ、塵(ちり)ひとつない。道の両側には、五歩ごとに一本の竿を立て、竿には大きな提灯(ちょうちん)をかけている。夜なのにまるで昼のように明るい。」
これによって、港から福禅寺・対潮楼までは、赤い毛せんや敷物を敷いて提灯で飾り、通信使を大歓迎したようすがよくわかります。
また、通信使をもてなす御馳走も、行く先々で競われました。鞆の浦でも、1,000人もの食料を集めるのに苦心したらしく、「鶏を460羽、雉(きじ)を80羽用意した」という記録が残っています。このような心のこもったもてなしが、長い旅を続けた通信使一行の疲れをいやしたことは言うまでもありません。
朝鮮通信使饗応(きょうおう)食器(復元)
〔写真パネル展示〕
(近江八幡市・本願寺八幡別院蔵)
朝鮮通信使を料理でもてなすため、わざわざ信楽焼の食器を特別に作りました。
江戸城内応接図巻(福禅寺蔵)
江戸城で通信使をもてなす場面が描かれています。
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