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特別展「海と船と漁労の記録〜六ヶ所村泊地区〜」図録
期間/平成14年6月1日〜9月1日
 この図録は、目代健三氏に写真を提供していただき、記載内容は「青森県の漁撈用和船」(青森県立郷土館1985)、民俗資料調査報告書(六ヶ所村教育委員会)を参考にしています。
 この特別展の開催、および図録の作成に当たっては、財団法人日本海事広報協会、社団法人東北海事広報協会のご協力をいただきました。
 
目代健三氏
昭和12年生まれ。昭和28年〜平成10年は六ヶ所村役場勤務、平成7年〜10年は六ヶ所村立郷土館館長、平成10年からは六ヶ所原燃PRセンター副館長となり現在に至ります。昭和30年頃より、生まれ故郷である泊の風景、特に海、船、漁業に携わる人々の写真を撮り続けています。
 
六ヶ所村泊について
■地勢、気象
 六ヶ所村泊は、青森県の北東部に位置し、東は太平洋に面した地域です。
 古くから豊富な海資源に恵まれていて、元禄時代以前から人々が住みついていたといいます。
 八戸以北は泊まで単調な砂浜海岸が続きますが、泊から東通村白糠までは山地が直接海に接する岩石海岸で、この磯が泊の風景を変化に富ませ、魚介類が豊富に採取できる場所をつくりだしていると言われています。
 山が海岸に迫る地形であるため、山すその狭い土地を利用した耕地は狭く、寒冷な気象でヤマセによる影響が大きく、特に夏のガスによる作物への冷害もあります。農業はあまり振るわず、漁業中心の生業が営まれている地域です。
 東からの風はヤマセで、春から初夏にかけて吹きます。その他に、アイノカゼ、またはキタハヤデという北から吹いてくる風は、沖合いから風が来る格好になるので、波が大きくなり、漁師にとって危険な風とされています。
 現在は、2〜15tの動力船により、コウナゴ、スルメイカ、ヒラメなどの漁が行われています。また無動力の磯船により、アワビ、ワカメ、コンブ、ウニなどの漁が行なわれています。
 
 
撮影:昭和48年
 
 
■船と漁労
 泊周辺は漁船、漁具、漁法の境界線となる地域であると言われます。
 太平洋沿岸から、下北半島の津軽海峡沿岸にかけてのイワシ地引網漁は、泊・白糠を境界として、使用する船が異なりました。泊の南にある出戸以南ではテント船、白糠の北にある老部以北ではサンパ船を用いていました。
 この地域で用いられるサンパは、北海道のニシン漁で用いられたサンパと同型の船でしたが、導入経緯や時期などについては不明で、現在はほとんど見られません。
 シキにシタダナ、ウワダナを接合した四枚ハギの構造船で、ミヨシが高く突き出て、黒く塗られ、クローバ型の模様が白く付けられていました。また銅板が巻かれることもありました。船の大きさは一定しませんが、長さ5間半、幅10尺程度で、17〜18人が乗り組み、推進具としてサッカイを用い、トモガイで舵取りしました。普段は帆を使用することはなく、イワシの地引き網は、このサンパ1艘を網船とし、イソブネ1〜2艘と共同で網をかけ廻しました。
 また、泊の周辺地域は、カツオを追い、カイリュウ船に乗って関東方面から太平洋側を北上してきた漁民の最終基地、また、イカを追い、カワサキに乗って北陸方面から日本海側を北上してきた漁民の最終基地でもあり、日本海漁業と太平洋漁業の堺として特徴のある地域であるといわれます。
 明治から大正にかけて、泊ではカツオ漁が盛んでした。四国、関東、房総半島方面の漁師も、太平洋側を北上して、八戸、下北沖で漁を行いました。彼等が乗った船はカイリョウ船(またはカイリュウ船)と呼ばれ、泊周辺には明治40年頃入ってきました。8月から10月中旬にかけて砂浜いっぱいにカツオが水揚げされ、一緒にやってきた加工業者により、港一帯にカツオブシを作るかまどが据えつけられて、賑わいました。
 現在も泊には、当時最先端のカツオ加工の道具が残っています。
 カイリョウ船は地元でも建造されるようになり、主として泊周辺地域で使用されました。シマイハギ型構造船で、ミヨシが太く大きく突き出ているのが特徴で、シキ長40尺、幅10〜11尺、舷側が高く、8艇櫓を立て、帆走もしました。
 カイリョウ船は、カツオ漁が盛んであった大正後期まで活躍しましたが、カツオ漁が衰退すると、舷側を低くして、イカ釣り船に転用されました。
 カツオ漁が盛んだった時代、泊の人々は、値が安いイカを、ウジャウジャと大量にとれたことから「海のウジ」と呼びました。佐渡、富山など北陸地方の漁師がイカの群を追って漁をしても、泊の漁師はほとんどイカ漁を行わなかったといいます。
 北陸地方のイカ釣り漁師はカワサキに乗ってきました。
 青森県のカワサキ導入の経緯について、『大畑町誌』をはじめとする笹沢魯羊の一連の著作には、次のように述べられています。
 「明治27、28年頃から庄内、新潟、富山の川崎船が、函館へ柔魚釣に廻って来たが、29年秋大畑の柔魚大漁を聞いて、川崎船が7艘、函館から大畑に移動してきた。川崎船は櫓を8挺立てて魚群を追うて漕ぎ廻り、夜を徹して柔魚を釣上ぐるために、獲物は磯船の及ぶ処でなかった。軈で沿岸一帯に川崎船が普及し、柔魚釣は夜を徹して釣るものとなった」。
 その後、カワサキは、明治30年代に下北半島の津軽海峡沿岸、大正初期には太平洋沿岸泊以北に普及しました。最初は中古のカワサキを購入し、次いで地元でも造船するようになりました。
 北陸地方から、カワサキで来航する漁民は「マワリ」と呼ばれ、日本海でのイカ漁を終えると、夏イカ漁のために集結し、秋イカの時期に白糠に廻り、年末頃まで操業した後、帰郷しました。太平洋側の南限は泊で、来航するのは、210日頃でした。イカツリバリは加賀、越中のイカバリヤがついて廻り、櫓大工も廻ってきました。彼等はマワリド、マワリと呼ばれ、家族を呼び寄せて定住する者も多くいました。また、船大工で移住する者もいて、弟子をとり、造船技術を伝えました。泊の船大工、佐藤申之丞は庄内の出身です。
 カワサキは、シキにシタダナ、ウワダナを接合した構造船です。シキ長30尺〜35尺、幅は加賀カワサキで10尺位です。
 推進具として帆と櫓を使用し、帆走時のマギリは、帆をいったん下ろし、櫓で方向を変えてから帆を上げました。櫓は7挺立て、カワサキ櫓を使用しました。乗組員はマワリは8人、地元船の場合は10人でした。
 カワサキは波切りが良く、速力もあり、マギリの性能も優れた船でした。反面、大波の打ち寄せる太平洋岸では波に船首をつっこむ危険があり使用困難でしたが、泊、白糠、大畑などの入り江を有する漁浦では、イカ釣り船として大いに活躍しました。
 下北地方のイカ釣り船の動力化は、大正時代の後半から昭和にかけて行われました。
 この結果、北陸方面からのカワサキ船主は次第に撤退し、カワサキは動力船に改造する例が増え、新造は行われなくなりました。泊では昭和11年に、カワサキが海岸から姿を消します。
 現在、青森県ではカワサキの現存がなく、造船した経験をもつ船大工の確認をすることもできません。
 さて、泊では、明治43年に初めて動力船が2隻入りました。このあたりでは最も早かったといいます。これはカツオ漁が盛況を極めたためで、大正13年には15隻となり、翌年には40隻と急増しました。泊港が青森県内で最も動力船が多く、活気づいた時代です。
 その後、カツオが泊の沖に回遊しなくなり、昭和10年に完全にその姿が消えてからは、泊の漁業の中心はイカ漁に切り替わりました。北陸地方の漁師が漁港に番屋を作り、空き地に乾燥場を作ったことを地元の漁師が見習い、イカ漁は泊最大の漁業となりました。
 イカの全盛は昭和30年頃まで続き、それ以後は年々回遊が減少傾向にあります。
 現在は2〜15トンのイカ釣り漁船が10隻ほど稼動しています。







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