吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 20
文学博士 榊原静山
清代(その二)
−「全唐詩」九百巻を編集させた康煕帝−
王士禎(おうしてい)(一六三四−一七一一) 幼名は士禎といい字を貼上(いじょう)、漁洋山人と号し、山東の人で刑部尚書という役につき、神韻を主とし、絶句が得意で特に“唐賢三味集”という書を作り、盛唐の詩人四十二人の中からものしずかな叙景の妙を得たものを、多く選んでいる。
康煕帝(こうきてい) 康煕帝は唐代の詩をすべて集めようとして四万八千九百首を皇帝、后妃、諸臣の詩、聨句、逸句、僧道、外国、神仙、鬼怪、諧謔、雑体といった順におさめた“全唐詩”九百巻という膨大な詩大集を編集させており、皇帝自身の“雨中望呉山”という詩が大変味のある作である。
雨中望呉山 康煕帝
(語釈)呉山・・・漸江省の杭州にある山。繁花・・・花が沢山あること。
(通釈)そぼ降る雨の中に窓をはなって呉山を望めば、新緑の山は花のしげった木々に彩られて山に満ち、さらにもやが立ちこめ煙雲の色をつけくわえ、実に何ともいえない風景。ほんとうに翠色が天地に流れるような風景が窓の前に見られる−。
清代には、ほかに漢詩作法に大切な“佩文韻府”をはじめ、こうした“唐詩三百首”六巻(衡塘退士編(こうとうたいしへん))、“唐詩選”は初唐、盛唐の作品を中心に集めてあるが、これは全唐詩の中から三百首を選んで唐代三百年を通観して古詩、絶句、律詩に分けて編集している。
また“古詩源”十四巻(沈徳潜の編)、これは上代から隋まで古詩九百八十首を二十の時代に分けて編集し、この古詩源に準じて張王殻が“古詩賞析”いう書を出して、上代から隋で古詩七百五十一首にそれぞれ評釈をつけるなど、後世、漢詩研究のための重要な書がこの時代に沢山出ている。
乾隆帝(けんりゅうてい) また乾隆帝も詩を愛し、自作の“従軍行”もなかなかすぐれた作である。
従軍行 乾隆帝
(語釈)三辺・・・辺塞。烽火・・・のろし。壮男・・・壮年の男子で兵役に服する者。
(通釈)辺塞の烽火は軍営を照らし、十万の壮丁は夜教練をしている。さて腰間の宝剣があればどこでも功名を立てることができる−。
乾隆帝の時代には乾隆の三家といわれる袁枚(えんばい)、蒋士詮(しょうしせん)、越翼(ちょうよく)、が出ているが、中でも袁枚が最も秀でている。
袁枚(えんばい)(一七一六−一七九七) 字は子才といい号は簡斉と称し杭州の銭塘の人で、清朝の地方役人として働いたが、四十歳で役を辞して、今の南京の西にある小倉山に随園という園を作って、そこに寓居して悠々詩詠の生活を楽しんだ。当時彼の名を慕って大官や商人まで沢山の人々がさかんに来て、風流を学んだといわれる。彼の説は自然の流露をとうとび、性霊説を主とし、技巧を捨てて清新な作風をたてた。随園詩話二十六巻がある。“赤壁”の詩もなかなかの傑作である。
赤壁 袁枚
(語釈)赤壁・・・今の湖北省嘉魚県にある古戦場で、後漢の献帝の時、魏の曹操が八十万の大軍をひきいて南下し呉の孫権と蜀漢劉備の連合軍と対戦したが、曹操の軍が全敗したのが史上有名な赤壁の戦である。一面の東風・・・この赤壁の戦の時に、孫権の将瑜が東南の風を利用して曹操の軍の船に火を放って、連合軍を大勝させたので、東風と言っているのである。定三分・・・魏と呉と蜀漢との三国で天下を三分したこと。火徳・・・漢代に流行した五行思想にもとづいて火の徳の相をいう。池上蛟竜・・・仮空の動物の竜のことであるが、古語に“蛟竜雲雨を得れば遂に池中の物にあらざるなり”という言葉があるので、この語があるのである。烏鵲寒声・・・曹操の作った歌に『月明らかに星稀に烏鵲南へ飛ぶ』という語があるので、ここに引用したもの。
(通釈)赤壁の合戦に百万の魏の曹操の軍船を焼いて、大勝利を得て天下を魏と呉と蜀漢の三国で分けて平定することになった。これは漢室が火徳の相を持っているので、火攻めの策が功を奏したもので、ちょうど池の蛟竜がついに雲の力を得て天下に雄飛する準備ができたのである。そうした古戦場を訪れ、秋たけなわの今、この風景に対して見れば、ひろびろとした江水は昔ながらに流れ、いさり火は紛々として荻草の上に乱れている。私は昔の蘇東坡のように簫の吹ける友だちと一緒に来ていないので、ただ独りでかささぎが淋しく鳴いて飛び過ぎてゆく音を聞きながら、懐古の情に耽るのみである−。
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