Interview
奄美のかぜ
奄美パーク園長
田中一村記念美術館館長
宮崎 緑氏に聞く
奄美群島は今年本土復帰50周年を迎えます。さまざまな行事が予定され、奄美の地域振興のあり方が議論される中、2001年秋に奄美地域文化の情報発信拠点、観光拠点としてオープンした奄美パークの園長、宮崎緑氏にお会いする機会を得ました。
エメラルド色の大島紬をお召しになった宮崎園長はにこやかに迎えてくださいました。
◎大島紬はいつも着ていらっしゃるのですか。
○こちらにいる時はもちろんなんですけれども、東京とか海外とか大島紬を知らない方がいる時に着ています。その方が宣伝になりますから。なるべくたくさんの所で身に付けるようにしておりまして、今日のこれは、母がデザインしてくれたんですけれど、着物じゃなくて一応ドレスなんですよ。でも、足袋と草履で。これだとすぐに着替えられるので、海外なんかにも気軽に着ていけますし。
紬は着ていて気持ちいいんですよ。しなやかで暖かくて、風をまとっている感じなんです。まさしく奄美の風をまとっている感じなんです。すばらしいものだと思うんですよ。今、私が着ているのは屋久杉染なんです。紬はふつうはテーチ木といってシャリンバイという種類の木で色を定着させるんですが、これについては屋久杉のエキスで染めてくれました。
◎園長になられたきっかけは何ですか。
○こちらの園長になった直接のきっかけというのはわからないんです。皆さんも驚いたでしょうけれど、私自身が一番驚いたんです、「何で、私なの」って。
私は屋久島が世界遺産に登録される時、ちょうど中央森林審議委員会の委員をつとめておりまして、世界遺産を登録するにあたっての策定作業に関わったんですね。視察に来たりディスカッションしたり、世界遺産に登録された後の生活はどうするのか、地域の方々の想いとか、そういうことを多角的に考えていきたいと。そういう活動をずっとしておりまして、そのご縁で屋久島・種子島を行ったり来たりしているうちに、吐 喇(とから)を越えてこっちの方まで、いろんな意味でテリトリーが広がってきたわけです。
奄美は、沖縄と鹿児島の間で薩摩と琉球に挟まれて、ヤマトンチュウでもウチナンチュウでもない、シマンチュウとしての独自の文化をもってるんですが、これはすごく奥が深いんです。しかも奄美自体は奄美という文化なんですが、ものすごい多様性で、シマ(集落)が違うと、山ひとつ越えただけで言葉が違うんです。ライフスタイルが違うんです。お嫁に行って言葉が通じないという、こういう世界ですからね。言葉も違うし、8月踊り(盆踊り)も違うし、島唄(三味線を弾いて歌う)、大きく分けると北のカサン唄、南のヒギャ唄というんですが、これも、同じタイトルの同じ唄のはずなのに全然違うんですね。聞いてて全然分からないくらい違うと。
さんしん(三味線)を弾くバチもですね、これは本島では竹ひごで作る。徳之島より南に行くと牛の骨のバチになるんですね。音が全然違う、弾き方も違う。竹は往復で弾く、両方で音を出す。牛のほうは片道しか弾かない。音色が全く違いますね。音色も違えば、メロディー、旋律、イメージも全然違う。こういうような多様性の島でものすごく面白いんです。
○その点を全部統括して奄美といってるわけで、有人島8島ありますけれど、その生態系がですね、種子島、屋久島、吐 喇の所でちょうど切れるんです。その北と、その南でまったく生態系が違うんですね。要するに海の中で沈んでいたり隆起したりした違い、過去の地球の生き方と関わってくるんだと思うんですけれども。
そういうこともありまして、屋久島と奄美というのは全く違います。自然も生態系も文化もライフスタイルも歴史も。それぞれの魅力というものがありまして、関われば関わるほど深くて、だから、わからないんです、いつまでも。
宮崎 緑氏 紹介
・NHK「ニュースセンタ9時」初の女性キャスター
・千葉商科大学政策情報学科助教授
・TV、新聞、雑誌等で活躍中
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◎奄美が本当にお好きなんですね。
○何といっても人情ですね。東京なんかにいますとね、とっくの昔に消え去ってしまったような、今、日本社会というのは壊れかかってる、いえ、壊れていると思いますね。ほとんどメチャクチャじゃないですか。その失われてしまった大切なもの、人間が人間である、その大事なものがここにはまだあるんです。だから、惹きつけられるんですね。
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