2003年4月号 中央公論
イラク「政権転覆」のシナリオを読む
大野元裕(おおの もとひろ)(中東調査会客員研究員)
アメリカは現時点においてもなお、いや、これまでよりもいっそう、イラク政権の打倒に向けて突き進んでいるようである。そしてサッダーム・フセインが倒された暁には、イラクは解放され、そこには自由と民主主義のイラクが成立することになっている。イラク政権打倒からポスト・サッダームにいたるこのようなシナリオは、独裁的性格を有する恐怖国家、周辺諸国に脅威をもたらすかもしれない軍事国家という烙印を押された現イラク政権の対極にアメリカを配置しており、きわめてわかりやすい。それは9・11以降のアフガニスタン政権崩壊までの物語のコピーのようでもある。
このようなわかりやすいシナリオは、はたしてイラクの現実を反映しているのであろうか。そこからは、イラクの内政の要素がまったく欠如してはいないだろうか。イラクは恐怖政治のみで統治されてきた国家であり、それが取り除かれれば、アメリカにとって都合の良い民主的な政権が成立するのだろうか。
イラク内政の歴史的経緯および現状に鑑みれば、サッダーム政権の代替選択肢として想定し得るプレイヤーはそう多くはない。おそらく、既存の政府組織を構成する政府中枢、共和国防衛軍、通常軍、治安機関、バアス党、さらには部族組織が挙げられよう。また、在外反体制派も若干の可能性を有しているかもしれない。ここでは、これらのプレイヤーが置かれている現状を確認し、ポスト・サッダームに関する議論を進めていきたい。
何が打倒の対象となるのか
現政権の諸機構
かつて、反体制派である「イラク国民合意」のアイヤード・アラーウィ代表は筆者に対し、イラク政権は多重の構造の中で守られていると説明した。
大統領を最もそばで守っているのは大統領の親族であり、それは、大統領子息のウダイならびにクサイ、そして革命指導評議会メンバーのアリー・ハサン・アル・マジードに代表される。彼ら親族と大統領を守っているのはエリート中のエリート部隊、共和国防衛軍特別部隊であり、その次に重要なのは、共和国防衛軍である。その周囲は通常軍、治安機関、バアス党により守られている。
このような諸組織には二重の構造が存在する。ロンドン大学でイラクを専門にしているチャールズ・トリップ博士は、政権の諸組織は軍、党、治安機関、行政組織といった「表の組織」と、家族、部族等を単位とする「信頼で結ばれた人々」による「裏の組織」の二重構造を有しており、「表の組織」は「裏の組織」により「乗っ取られている」としている。つまり、こうした諸組織において重要な役割を担っているのは、「信頼で結ばれた」親族や部族である。「表の組織」の中枢に近い人たちは、国家への忠誠、エリート意識、組織内で保証された権限、報酬と利権によるインセンティヴを得ているが、彼らを政権に結び付けているのは、このような要素だけにとどまってはいない。
この「表の組織」を「裏の組織」が乗っ取ることにより、部族単位で社会的な特権層が出現し、固定され、部族内での離反と裏切りを抑止する機能が働いているのである。多くの場合、部族は、宗教、民族、経済関係、社会関係、言語、運命の共有関係により結ばれているが、「表の組織」と「裏の組織」が重なることにより、これらの部族が有する特別な関係が政府組織に投影され、安定化に貢献してきたのである。
そしてこの政権を守る部族の代表的なものは、大統領を輩出したティクリート出身者、「ティクリーティ」である。このティクリーティは、政権枢要、エリート部隊の共和国防衛軍特別部隊および共和国防衛軍、治安機関等に配され、政権と密接に結ばれている。そしてティクリーティ以外にも、政権の近くにいる人々には、現政権と連合関係を築いてきたスンニー派の諸部族出身者が多い。彼らは、政権との「共謀関係」に置かれており、政権と運命を共有しており、政権が打倒されるときには、彼らの安全と利権が脅かされると常に言い聞かされていると言われている。
さらに政権は、石油がもたらす莫大な富を背景に、彼らに対して富と利権を与えてきた。この政権との利権の構造をトリップ博士は、「パトロン=クライアント関係」と呼んでおり、このような関係は、政権の中枢部に行けば行くほど濃いものになっている。制裁が課されて以降、特権を享受し、富にあずかるためには、政権を積極的に支持する以外の選択肢がほとんどなくなってしまった。このため「パトロン=クライアント関係」は、制裁以降、強力になったのである。特に、国連の監視下で石油を輸出し、物資を輸入する石油と食糧の交換取引(“oil for food”プロジェクト)が実施されて以降は、制裁下にもかかわらず政権が富へのアクセスを得たために、この関係はさらに強化されたのであった。
このように考えると、既存の組織を前提とした政権転覆には二つの考慮すべき重要な点があるように思われる。
第一に、倒すべきサッダーム政権とは誰であるかという点である。政権の中枢を含めた既存の組織が打倒すべき相手であるとすれば、そこには問題も存在する。現政権は、これまでのイラク政権と比較して、強い中央集権を維持し、制裁を課された後もなお、安定的に統治を行ってきた。
このように国家を安定させてきた組織を打倒することには当然リスクが伴う。それ以上に、これらの安定要素が部族的な要素に依拠してきたがために、政府の打倒は単なる国家の機構にとどまらず、社会的な安定要素をも排除する可能性がある。つまり、共和国防衛軍や治安機関等の諸組織の処罰、解体は、現政権下で国家を安定させてきた社会的・部族的要素の排除に繋がり得るのである。このような社会的な安定要素は、強力で排他的な性格をもち、その排除はイラクに、政治的・社会的空白と混乱をもたらす可能性がある。
第二に、これらの組織を反サッダーム勢力に化す可能性を考えておく必要がある。表と裏の組織が強力でかつ密接に結びついているがゆえに、既存の組織が政権を打倒し、またポスト・サッダームにおいて重要な役割を果たすのであれば、米軍が戦闘を行うことなく、またアメリカの不要な投資を必要としないという意味で、それは理想的かもしれない。実際、アメリカの指導者たちは幾度にもわたり、サッダームの亡命をも含めて、戦闘なしに政権が変わることを歓迎する発言を行っている。しかしながら、既存の組織はそれぞれに相反する利害関係を有しているわけではなく、部族が諸組織を縦断して「裏の組織」を機能させているために、有機的な連関関係を維持している。
共和国防衛軍内部で重要な地位を占める部族は、通常軍や治安機関、バアス党内でも「裏の組織」を通じて同じ利権につながっている場合が多い。共和国防衛軍が政権を打倒することは、とりもなおさず自らの基盤を傷つけることに繋がるのである。この意味で、サッダームとこれら既存の組織を分断させ、既存の組織を反サッダーム化させるためには、一定の条件が必要となろう。
これらの諸組織にサッダーム政権を打倒させ、その後に社会を安定させる上で重要な役割を果たさせるためには、パトロン=クライアント関係で結ばれた「裏の組織」の利害関係に対する配慮が必要となる。ポスト・サッダームにおいても彼らが血の粛清の対象とならず、現政権に頼ること以外に選択肢が存在することを彼らが理解し、彼らの既存の特権を失うリスクが少なくなる可能性を見出させることが必要となる。しかしアメリカやイラク反体制派は、サッダームと一握りの限られた政権枢要の人物と、それ以外の特権層を分けて扱うような発言すら行っていないのが現状である。
イラク社会の基層
部族勢力
前述のパトロン=クライアント関係の単位は非常にしばしば、部族であったが、このような関係にとどまらず、歴史的・社会的にイラクの部族は重要な役割を担ってきた。イラクにおける部族は、血で結ばれた部族の場合もあるが、より政治的に重要な単位は、長年にわたる農業を基盤とした土地を媒介とした部族関係である。それは、血縁関係を伴うことが多く、彼らは政治的・経済的・社会的基盤を共有してきた。そしてこの部族は日本の中世の荘園領主のごとき大きな封建領主制度を築き上げていた。
高名なバッタートゥの著作において記されているところによれば、一九五八年時点で五〇万平米以上の大土地所有者は人口の一%以下であったが、彼らが所有していたのはすべての国土の五五%以上であった。このような強力な地主の下に統合された部族勢力は、政府に対抗するほどの大きな力を有していた。このためイラク政権は、独立以来、大土地所有制度に基づく部族制度をいかに扱い、中央政府の下に組み込むかに腐心してきた。
現イラク政権の場合、土地改革により封建領主の力をそぐ一方で、これら勢力のうち、スンニー派の一部の力のある部族を政権の支援層に取り込み、その他の、特にシーア派の諸部族を分断し、抑制してきた。彼らは、政権が対処すべき強力なグループであり続けてきた。このような部族勢力は、ポスト・サッダームにおいても重要な役割を果たす可能性がある。また、たとえある個人が政権を奪取しようとも、このような部族的要素は次の政権にとり重要となる可能性がある。しかし、政権と部族の関係は、制裁以降、大きな変化にさらされてきたのであった。
イラク政府が莫大な石油収入を得るようになると、イラク経済の中心は農業から石油へと移行し、それに伴い、政府と諸部族の力関係に変化も見られた。しかし現在まで諸部族は、一定の看過できないほどの力を維持してきたのである。このような中、九〇年に国連による対イラク制裁が課せられた。地方の諸部族は、制裁が課せられてから九六年までに農産物の値上がりにより経済力を増強させ、地方の団結と政治的影響力をも拡大させた。この結果、彼らは政府に対抗する力を充実させ、地方においては部族を単位とした反乱が起こる一方、政府の力が部族勢力に及ばなくなる中、部族裁判の復活等も見られた。
ところが、九六年に国連による石油と食糧の交換取引計画が実施されると、無料の農産物が一挙に国内に流入した。この結果、皮肉なことに、イラクの歴代政権がなしえなかった部族勢力の基盤除去を国連が成し遂げ、これら諸部族の力は大きくそがれることになった。政府と諸部族との力の差が決定的になる中で、イラク政権は、部族裁判を維持する等、安全で支配される対象となった部族を利用した統治のシステムを作り始めたのであった。諸部族は潜在的な重要性を維持しながらも現在では、湾岸戦争以前の諸部族と同様の立場にすらなく、イラク国内に混乱が生じても、政権中枢にいる諸部族以外は、直ちにイラクを安定させる勢力にならない可能性がある。
過重な期待は掛けられない
反体制派
アメリカとその同盟国は、長年にわたりイラクの反体制派を支援してきたが、反体制派は次の政権を担い得る選択肢なのであろうか。イラクの反体制派はそもそも正面から政府に対抗し得る軍事力を有してはいないが、軍事力および国内における政治的影響力に鑑みれば、以下の三つに分けられる。一つは、九一年以来、米英の庇護下で自治区化している北イラクを統治するクルド勢力で、二つ目はイラク国内に一定の勢力を有し湾岸戦争以前から活動しているシーア派組織および共産党、三つ目は主として九一年以降に生まれた民主主義を標榜する亡命者等が構成する元軍人やバアス党系の諸組織である。
一つ目のクルド組織は現状で反体制派の中でも最も強力といえようが、クルド地区から出てイラクの政権を担うことは考えにくく、また国家すべてを統治できる力はないと彼ら自身理解しているようである。二つ目の勢力である宗教色の強いシーア派並びに共産党は、限定的ながらも一定の影響力を保持している。しかし、アメリカがイラクに共産党政権や宗教的色彩の強いシーア派政権が樹立されることを受け入れるかは大いに疑問である。三つ目の勢力はそもそも力がなく、イラク国内でほとんど認知されていないし、これまでの反体制派活動においても、アメリカ等の支援にもかかわらず目立つ実績をあまり残せていない。
イラクの将来に関しては、米内外のメディアや在外反体制派の会合において、連邦制が取り上げられている。連邦制の主張には、北部をクルド勢力が、中部をスンニー派アラブ勢力が、南部を宗教的なシーア派アラブ人が代表するとの前提が存在するようにも思われる。しかしこの前提そのものに問題があるように思われる。
北部イラクの数的・政治的多数派がクルド人であることに疑いはなく、九一年のイラク北部の自治区化以降、クルドの二大政党であるクルド民主党(KDP)とクルド愛国戦線(PUK)の両派が自治区で政府を運営している。
他方で、南部を宗教的なシーア派が団結した形で存在している地域と考えるには無理がある。
南部で最大の都市であるバスラの数的多数派は、イランと同じシーア派一二イマーム法学派ではなく、アフバーリー法学派であり、シーア派の代表的な反体制派であるダアワ党とイラク・イスラーム革命最高評議会(SCIRI)とは異なる教義を有している。イラク南部が宗教的に一枚岩ではないばかりか、反体制シーア派勢力が強調するのと異なり、イラクのシーア派の多くは決して宗教的な考え方を優先させているわけではない。
中央部もスンニー派アラブ人が数的多数派ではなく、たとえばバグダードの数的多数派はシーア派に他ならない。またスンニー派が穏健でシーア派が過激との印象も当てはまらず、都市部スンニー派住民は制裁下で将来に希望が抱けないためか、より宗教的になり、北部スンニー派の中にもワッハーブ派の影響力が浸透し、宗教的価値観を強調する人々が増えてきている。
このように連邦制の前提となるそれぞれの地方の社会的前提には複雑なものがあり、机上の議論ほど容易に連邦制が進むかは疑問である。北部はすでに自治区化しており、連邦制を構成する一員となり得る条件を備えているかもしれないが、それ以外の地域、特に南部においては、これまでの政府による組織化を妨げる政策もあり、連邦制の一員となり得る組織化と団結がまったく欠如している。
結局は「日本型占領形式」しかないのか
このように考察していくと、イラクの将来は混沌としているように思われる。それは、強力なサッダーム政権が、制裁を利用して部族勢力との対立を制し、安定的な状況にあるにもかかわらず、外からの力で政権を打倒しようとしていることに鑑みれば当然であると言えるかもしれない。しかし外的な力で政権が倒れれば、そこにはカオスのみが待っていると単純に言えないようにも思われる。
これまで見てきたような既存の組織、部族あるいは反体制派という国内の勢力は、確かに確固たる政権の代替選択肢とは言い難い。しかし、彼らは潜在的に、国内を安定させる力を持った重要な勢力であり、彼ら以外には現時点で頼ることのできる勢力はないように思われる。
結論から言えば、政権の倒れ方により、これら勢力の重要性は異なってくるように思われる。たとえば今日、既存の政府の組織、あるいはこれらの組織に依存する人物が政権を奪取する場合、「表の組織」の背後にいる「裏の組織」は政権およびイラクの安定の鍵になっていくであろう。また、一定の組織化の時間的余裕が与えられるような状況になれば、かつて政権により分断された部族組織、あるいはこれら部族組織に依拠する人物が重要な役割を果たす可能性がある。南部や中部において、数的な多数派であるシーア派諸部族が組織化を進めることができるのであれば、それはイラクを運営する大きな力になることであろう。さらに、イラクが壊滅状態に追い込まれ、政治的な空白がもたらされる場合には、弱いとはいえ組織とアメリカとの窓口を有する反体制派、あるいはヨルダンのハーシム家の王子が一定の役割を果たす可能性もあるように思われる。このように、政権の倒れ方によってこれらの勢力にはそれぞれ可能性があると思われる。
最近、イラク反体制派の弱さと団結力のなさに辟易したためか、アメリカは再び、米軍による日本型占領形式をイラクに適用するという方針を示唆し始めている。この方式は、ポスト・サッダームにおいて確固たる代替選択肢がない中で、消去法に基づいて残る方法と言えるかもしれない。また国連が石油と食糧の交換取引において、国家規模の配給システムを把握しているがために、民生を安定する一つの方法を有していることは、占領行政を容易にしよう。
しかしながら、近視眼的かつ単線的な想定に基づくやり方が国家の安定を導くかは疑問である。力に依存した手法は、政権を転覆し、戦争を勝利に導くかもしれないが、力では安定と平和を享受することができないことは、すでにイスラエルの強大な力の前に屈服することのないパレスチナ情勢や、押し付けによる平和が現在でも安定をもたらしていないアフガニスタンで証明されている。
イラクにおいても、ポスト・サッダームの当初、占領行政は早急に混乱を収拾する方法かもしれないが、内政的な要素を無視した押し付けのみがその後の安定を確立するとは思えない。そもそも占領行政に至る前に、前述の国内勢力が一定の影響力を確立してしまう可能性すらある。ポスト・サッダームを語るためには、将来的な安定を視野に入れた内政的な要素の十分な検討と柔軟かつ広範な視野が必要なのではないだろうか。
◇大野元裕(おおの もとひろ)
1963年生まれ。
慶応義塾大学法学部卒業。
在ヨルダン日本大使館一等書記官、在シリア一等書記官、中東調査会客員研究員を経て現在、中東調査会上席研究員。
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