日本財団 図書館


2003年4月号 正論
アメリカ戦略にはらまれる狂気
西部邁(にしべ すすむ)(評論家・秀明大学教授)
アメリカ・プロブレム
 過ぐる九〇年代の前半、アメリカの仕掛けてきたジャパン・プロブレム論に我が国の知識人たちは盛大に呼応した。たとえば日本の集団運営法には、家族に始まり企業を経て政府に至るまで、大きな罪咎あり、と騒ぎ立てた。しかし今、「イラク大変」のなかでアメリカ・プロブレムがその巨姿を現わしているというのに、我が国における大方の学者、評論家そしてジャーナリストはほとんど黙して語らない。アメリカという軍事国家のいわゆる「鷲の陰(イーグルス・シャドー)」の下におかれつつある世界は、世論でいえばその八割方までもが、アングロサクソンの暗愚な行為を批判し、それによって世界の秩序が錯綜させられることを懸念している。だが我が国だけは鷲の陰の下で、まるで哀れな兎のように、じっとうずくまっている。
 首相や外相も、そうするのが日本の国益なのだと国会で答弁している。彼らとて「国なき民」の利益などは宗主国の意のままに翻弄されるのではないかと脅えてはいるのだろう。しかしさしあたりは、中東オイルの供給難によって後進諸国にやがて発生するであろう難民の群れの世話をみよ、とのアメリカの要請に応えてみせましょうと殊勝に構えている。アメリカ問題をあたかも運命の到来であるかのように甘受し、その問題の後始末だけを引き受けようというのだから、実にけなげな従僕の心がけではある。
 アメリカの現政権は、進めば国際世論から見放され、退けば国内世論から見捨てられるというジレンマ(板挟み状態)にある。しかしすでに二十万の米兵がペルシャ湾岸に派遣されているのであってみれば、いわゆる集団の力学からして、イラクに突っ込んでいくしかない。そのブッシュ大統領の振る舞いは「藪(ブッシュ)をつついて蛇を出す」類に終わるに違いない。だから西欧諸国は、独仏をはじめとして、それを愚行とみなしている。中露も対米批判の言辞を吐きはじめている。それでも我が国は一言の言挙げもしない。その「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の知恵しか持たぬ日本人の先頭にいるのは、誰あろう、「保守」を名乗る知識人たちなのである。
 彼らは、米ソの冷戦構造のなかでは、「親米」を標榜し、ソ連寄りのいわゆる左翼陣営によって「戦後」が赤く着色されていくことに粘り強く反発してきた。そのことの貢献を評価するのにやぶさかであってはなるまいが、親米保守なんかは敵が倒れればおのれも倒れる程度の存在にすぎない。そのことが、冷戦構造の崩壊とアメリカの一極世界支配の進展とともに明らかになってきた。
 それもそのはず、「戦後」の左翼的路線を敷いたのは、日本国憲法(とくにその前文、第十一条、第十二条、第十三条)と教育基本法(とくにその前文、第一条、第二条)をみればすぐわかるように、アメリカなのである。それらを是正しなかったのは日本の責であってアメリカを批判するのは筋違いだ、というのはアメリカ教への護教論にほかならない。なぜなら、それらの戦後法を廃棄するなり根本改正するなりしようとすれば、アメリカ的な人間観や国家観を正面から撃つしかないからである。さらにそれらアメリカの歪んだ観念が今現在の粗雑なアメリカ流儀をも規定していることを指摘せざるをえないはずだからである。
 東京裁判史観を撃って日本の歴史に誇りを持てと訴えたのは保守派の国民にたいする偉大な寄与であった。だが彼らは、親米を主義として立てることそれ自体によって、GHQ(占領軍総司令部)戦後体制のなかで安んじようとしたのである。なぜかくも歴然たる思想上および行動上の矛盾を犯すことになったのか。あっさりいえば、彼らの反社会主義パラノイア(偏執病)が社会主義なきあと対中(朝)フォビア(恐怖症)へと転じ、そうならば、かつては対ソ戦の、これからは対中(朝)戦の牙城であるアメリカの傘の下に逃げ込まざるべからず、ということになったのである。そこから、「アメリカを親と思う」態度を保守する親米保守、という奴隷根性にも等しいものが我が国の自称保守派に蔓延する有り様となったのだ。
 少なくとも「九・一一」以後、保守派はそういわれて致し方ない姿をさらしている。アメリカの新軍事ドクトリンにいわれる「アメリカ的国際主義」とは、一つに、アメリカの国益を最優先させること、二つに、それに逆らうものにたいしては武力行使も辞さないことである。このミリタリズム(武断主義)としてのユニラテラリズム(単独主義)に、反論どころか疑問の一片も呈していないのは我が国だけだといって過言ではない。我が国の歴史は、そしてそれによってもたらされた国柄は、「単独武断」を愛好するような野蛮には堕ちてはいない。そのように考えるのが本来の(歴史の持続と、それを実体化する慣習の体系と、そこに内蔵されている伝統の精神とを保ち守るという意味での)保守派の筋道でなければならない。歴史破壊のソ連と歴史不在のアメリカのあいだで振り回された日本の戦後は、惨めにも脳震蕩を起こしたのではないか。そしてとうとう歴史不在という意味で「世界の外にある」(故高坂正堯の表現)アメリカの世界支配のために荷物運びをやるところまで落ち込んでしまったらしい。
 「イラク以後」を予想してみれば、国際秩序の崩壊、世界経済の混乱、テロリズムの伸長、アメリカの衰退、欧米間の亀裂、東アジアの動乱、日米安保の空洞化といった事態が目に浮かぶ。少なくともその恐れありと予測するのが常識というものであろう。だが日本人にとって、とりわけ親米保守の人々にとっては、それらの危機は天変地異のように不可避にやってくるものと想念されているのだ。だから、自分にさしあたり実害が及ばなければ他人の災厄をみて楽しみ、自分に危険が迫れば戦き、そして親たるアメリカにすがりつく、というやり方のほかに為す術を知らずの体である。そうするのが戦後五十七年間の習わしであったのだから、国際交渉の現場にいる政治家や役人や経営者が「アメリカの子供役」を演じつづけるのはやむをえざる仕儀かもしれない。しかし状況から何がしか距離をとって、状況のなかの自分の姿を眺めるのが生命線であるはずの知識人までもが、かかる戦後的状況のなかに埋没している。それは、みていて気持ちのよいものではない。ましてや、彼らこそが「戦後の終焉」を叫んでいた当の者たちなのであってみれば、この国にあって知識人の命脈は尽きたとみるべきなのであろう。
最も汚い侵略
 予防的先制の必要ということもあるからには、「武力によって国家が先制攻撃を仕掛けること」としての侵略を無下に否定するわけにはいかない。しかしその場合でも、その侵略を国際社会に納得させるだけの論拠がなければならない。より正確には、その説得が―結果として功を奏しなくとも―後世において「確かな前提」と「一貫した論理」に立つものであったと評価されうる多少の見込みがなければならない。そうでなければ、その侵略はホーリー・ウォー(聖戦)でないのはむろんのこととして、ジャスト・ウォー(正義)ではありえない。つまりダーティ・ウォー(汚い戦争)にしかなりえない。
 今から四十年前、「共産主義の封じ込め」を名目にしてアメリカはヴェトナムを侵略し、結局はヴェトナムの民族主義を目の当たりにすることになり、自分のなしたのは「汚い戦争」であったと認める破目になった。だがヴェトナム戦争では、中国やソ連の対ヴェトナム武器援助という実体的な根拠があったのだ。今度のイラク戦争には、以下で示すように、そうした根拠があまりにも薄弱である。それが近代の戦争史上で「最も汚い戦争」との定評をやがて得るであろうことは間違いないところだ。
 それは、エムパイア(帝国)を自称しはじめたアメリカの、みずからの国益のことのみに執着した帝国主義であるとすらいえない。というのも、アメリカが国益計算をしっかりやった上でこの戦争に着手した、とは思われないからである。世界の埋蔵量の十パーセントを占めるイラクの(かなりに良質の)石油資源を我が物とするため、という説もあるにはある。しかしそれはイラクにおける親米政権の樹立と安定という長期かつ至難の作業があってはじめて獲得できる利益である。
 仮に国益計算の筆頭に石油資源のことがあったのだとしても、それをむくつけく標榜するのは、中近東をはじめとする国際社会の反発という費用のことを考えると、かえって国益に反する結果となる。いずれにせよ、アメリカには、石油であれ何であれ、みずからの国益追求を正当とする名分が必要となるのだ。まさにその点において、このイラク侵略は(松本健一氏から教えてもらった表現でいうと)「無名の師」の軍団によって遂行されようとしている。つまりアメリカは名分なき師団をイラクに投入しているということである。
 第一に、アメリカの挙げる侵略の口実には論点移動が多すぎるということを確認せざるをえない。
 最初に「テロ根絶」とアメリカはいった。フセイン政権がアルカイダを応援しているというのだ。少しでも教養があれば、イラク・バース党は一種の社会主義を名乗った組織であり、それゆえビンラディンらのイスラム原理主義とは馴染まないと見当がつく。仮に両者のあいだに一時的な接触があったというのが本当だとしても、アルカイダは国際組織なのだから、他の諸国においても同種の接触があったのではないかと想像される。さらには、それが口実となるのなら、アメリカはイラクの前にサウジやパキスタンを侵略しなければならない、とみるのが道理ではないのか。そればかりか、イラン・イラク戦争とソ連のアフガニスタン侵攻という流れのなかで、フセイン政権だけでなく、ビンラディン一派を応援していたのがアメリカのCIAなのである。つまり、パウエル国務長官の(国連にたいするCIA情報の開示における)言い種に従えば、アメリカはアメリカを侵略すべし、ということになってしまう。
 次に挙げられた論点は「フセイン独裁の廃絶」である。私も、四半世紀前の話だが、一週間にわたってバース党員に見張られるという形でバグダッドに滞在したことがあるので、フセイン独裁が廃止されることを期待する。しかし独裁といえば、中国とて実質的に共産党の独裁である。さらに全体主義そのものが民主主義の――民衆の独裁者にたいする歓呼の声のせいか屈従の姿のせいかは場合によるが――一つの帰結である。つまりそれは、民主主義につきものの人気主義の完成型といってよいものだ。そうとわかれば、人気主義しか拠るべきものがなくなっている現在のアメリカ――および日本――の民主主義をふりかざしてフセイン独裁打倒などというのは道理に外れているとみなければならない。
 もっと重要なのは、現代の国際政治では「民族自決」が道理として公認されているという点である。もちろん、そうはいっても、ある民族が国際社会にとって見過ごしにできない類の厄介な政体を採用している場合には、国際社会の安定化という名目で、それに介入することもありうべしとしておかなければならない。しかしその介入の仕方は「亡命政権およびその義勇軍(ヴォランティア)への協力」という形にとどめるべきである。アメリカのイラク侵略が義勇の域をはるかに超え出ていることはいうまでもない。
 最後の論点は「大量破壊兵器の除去」である。しかしイラクが今も核兵器や生物化学兵器の製造と貯蔵に精出しているという「確証」は挙がっていない。炭疽菌についてとて、その廃棄を証明せよというのは結構だが、アメリカがなぜイラクの証明が不十分だとわかるかといえば、かつてイラン憎しとして自分がイラクに手渡した分量がわかっているからにすぎない。もっと道理に合わないのは、イスラエルが核兵器と生物化学兵器を大量に保有しているというのは公然の秘密だというのに、それについては不問に付されているということである。
 第二に、イラクへの「査察」は巨大な疑問符の上で揺らいでいることを認めなければならない。
 一つに、何ものであれ、それを持ってい「ない」ことの立証を被嫌疑者が行うのは不可能に近い。それは、ちょうど、往時の欧米女性が魔女で「ない」ことを自分で立証することができずに拷問の末に焚刑に処されたのや、アメリカ・インディアンが野蛮人で「ない」ことを自力で証明できずに皆殺しの目にあったのと同じである。被告人に、「殺人者ではないことを自分で立証しなければ、死刑に処す」などという裁判手続きが出てきたのだから、アメリカという訴訟社会はすでに(世論にもとづく陪審裁判という形での)人気主義に(つまり人民裁判方式に)身を浸しているとみなければならない。
 二つに、スコット・リッターという(元は湾岸戦争に従軍した海兵隊員で、九〇年代に七年間、イラク査察の主任であった)男が、「イラクは大量破壊兵器において、九割方、武装解除している、その旨の国連安保理への報告がアメリカの横槍で封じられた、CIAからの情報はそのほとんど贋物であった、むしろCIAはイラクと事を起こせと頻繁に要求してきた」と証言している。彼はアメリカの圧力でその立場を追われたのだが、アメリカのふりまく虚偽とそれにもとづく侵略を黙過するわけにはいかぬと、全米で、また全世界に向けて、孤独な行脚を続けている。アメリカには、このリッター証言を反証するのでなければ、イラクに物申す資格はないのである。
 三つに、国連決議にはイスラエルの「占領地からの撤退」というのがある。それを放置しておいて国連決議を遵守せよとイラクに迫るのはバランスを欠くのも甚だしい。もっというと、国連軽視は、次々章でもみるように、アメリカの新たな国是となりつつある。その単独主義は国連無視とほぼ同義である。それはよいとしても、自分が軽んじてやまぬ国連の決議を「積極的、全面的かつ遅滞なく」守れと他人に迫るのは、はっきりいって説教泥棒の手口だ。つまり他人の家に泥棒に入って、お前の生き方はなっちゃいない、と偉そうに託宣を垂れる悪党のやり方てある。
 四つに、二月十五日の安保理でも、アメリカの息のかかったブリックス氏(査察団委員長)やエルバラダイ氏(国際原子力機構委員長)すらが――たぶん部下の意見を無視できないので――「査察の効果は挙がっている」と証言しなければならなかった。アメリカが査察継続というフランスの要求を拒けるのはなぜなのか。それは、査察の効果が挙がって「イラクは実質的に武装解除している」ことが明かされれば、侵略の口実がなくなるからだとしか思われない。こんな道理の通らぬことを看過して、「イラクは攻撃されるでしょう、アメリカなしに日本の防衛は不可能なんですから、アメリカに協力しましょう」と親米保守の知識人連は評論している。「アメリカの庇護の下での日本の自立」(西尾幹二氏のテレビ番組での発言)を考える人々にはその程度以上の評論は難しかろう。しかし、道理なきところにいかに自立するのか、と御節介をやきたくなる、というものではないか。
 第三に、法律の基礎にあるはずの徳律の問題にも触れておこう。
 大量破壊兵器除去のことを世界の公衆の面前で事々しく論じるのなら、アメリカは、「広島・長崎」について何らかの形で謝罪すべきだ。またロシアとのABM(弾道弾迎撃ミサイル)削減条約の破棄についても反省したらどうか。さらに「二十年後にはロボットだけで戦争ができます」などと発表して悦に入っている軍事研究所も閉鎖を急いだほうがよい。マッシブ・デストラクション(大量破壊)に興奮するマス(大衆)を国内に大量(マス)に作り出しておいて、外国における同種のマスは大量に殺しましょう、というのは不道徳である。そうみるのが数少ない普遍的道徳原則の一つではないのか。
 たしかに国際的な法律はまことに不備であり、国際的な徳律ときたひには――皮肉にも、人権外交を唱えてきたアメリカ(民主党)政権には不都合なことに――無きも同然である。国際秩序はつねに形成途上にあるとしかいいようがない。しかしその「形成」をつねに促しつづけるには、「道理(リーズン)」に何ほどか叶った言葉づかいが必要である。
 政治に、とくに戦争に、道徳は不要だというのは訳知り顔の口説にすぎない。モラル(道徳)の基礎はモーレス(集団の安定した感情)にあり、そしてモーレスの基礎は「道理に沿った言葉づかい」にある。言葉なしの政治を受け入れる者だけが政治と道徳の分離をいうのである。他人の針小な罪咎を棒大に批難するのなら、自分の棒大な罪咎をせめて針小に認めてかかる、それが言葉の道理ではないのか。アメリカのやっているのがヴァンダリズム(文明破壊の野蛮行為)だと思われるのは、外交における言葉のコモンセンス(常識)やボンサンス(良識)を破壊して平然としているからである。
 第四に、「イラクと北朝鮮の矛盾」ということだ。
 私はアメリカの情報能力を、というより情報についての判断能力を、大したものとは考えていない。それで、金正日の「核開発」への動きを、アメリカは、イラク問題にかまけて軽視していたととらえている。いずれにせよ、アメリカは「北朝鮮には外交交渉をもって当たる」と構えている。ここではその当否よりも、大量破壊兵器のことをめぐって、イラクの「軽罪」に武力制圧という「重刑」を適用し、北朝鮮の「重罪」には政治折衝という「軽刑」で処する、というのはいったいいかなる道理に立ってのことか、と問わざるをえない。イラクと北朝鮮との二正面作戦は回避したいとか、北朝鮮の背後にいる中国やロシアのことに気配りをしなければならないとか、北朝鮮のテロはアメリカにはやってこないとか、日韓両国に駐屯する米兵の生命のことが気がかりだとか、北朝鮮には差配したくなるような資源がないとか、いろんな理由があってアメリカは北朝鮮に一種の宥和外交で接しようとしているのであろう。
 しかしそれらはすべてアメリカの御都合である。各国にそれぞれの都合があるのだが、それを「ドクトリン」(教説)と名づけて振り回すのでは、国際秩序が成り立ちようもない。単独武断主義のドクトリンでいくのなら、今からでも遅くはないから、北朝鮮に重刑を科してからイラクにどの程度の軽刑を加えるかを議論する、という道理に立ち戻ったらどうなのか。
 第五に、以上の検討を踏まえれば、アメリカがイラクで妄動する最大の原因は「悪の枢軸」という妄言にあった、と断定してさしつかえない。
 「悪の枢軸」という修辞はデヴィド・フラムという(ブッシュ大統領の)演説草稿の書き手が思いついたものだ。しかもそれは、フランクリン・ルーズベルト大統領が(ドイツ・イタリア・日本の三国同盟の)「枢軸」が世界を壟断しようとしていると訴えて、アメリカ国民の情動をおおいに刺激したことを思い出してのことである。つまり、枢軸という言葉にはアメリカ人の世界観を子供じみた方向においてイメージアップさせるだけの力がこもっているらしいのだ。「悪の枢軸を折れ」という掛け声にせよ、「イラク平定はGHQ方式でやれ」という提案にせよ、健全な日本人ならば少々の腹立ちなしには耳にできない言葉のはずではないか。しかし「戦後」日本人は、すでにして、アメリカの第五十一州の住民のつもりでいるので、そんなポンチ絵めいた世界観にすぐさま賛同するのである。
 だがこのポンチ絵の背後には――後段で示すように――ネオ・リアリズム(新現実主義)という学者連の立派めかした戦略論がひかえている。一言でいえば、それは、アメリカの国益に反する勢力を撲滅せよ、というテーゼを正当化するための子供じみた理論である。その(米ソの核対決のなかで発達した)セオリーが九・一一のあとで異常な高みにおいてムード化され、次にそれがイデオロギー化されて、悪の枢軸を折るべし、との侵略政策をもたらしたのである。
 とはいっても、日本空襲において「動かない家鴨(あひる)を撃ちにいこう」と米兵たちがいっていたことからも推察できるように、侵略しやすいところを侵略するのがアメリカ流である。で、侵略の標的はイラクと定められ、そして振り上げた大斧は振り下ろすしかないといった成り行きで、イラク侵略が実行されるという次第である。これをみて、私ならば、ブッシュ・ラムズフェルド・ライス(もしくはチェイニー)の三者は「ならず者(ロウグ)の枢軸」だと修辞したくなる。そしてそのあとをついて歩く日本の親米保守を「ロウグ家のポチ」と形容したくなる。
 いずれにせよ、今度のイラク侵略の原因を尋ねてみると、何ほどか道理の通るものとしては、こうした「子供の世界イメージにもとづくならず者のビヘヴィア」ということしか残らないのだ。げにアンファン・テリブル(恐るべき子供たち)の所業というしかない。しかし、考えてみれば、それは歴史不在の国においておおいに起こりそうなことなのだ。インディアン狩りなるものにおいて「まず撃て、それから考えよ」といわれていたそうだが、イラク侵略もその伝で行われているのである。
パクスを壊すパクス・アメリカーナ
 親米保守派は、日本の安全と生存のために日米同盟が不可欠なり、それゆえ日米軍事同盟を堅持するために侵略に協力すべし、といいつのる。それを真っ当な議論と思う人も多いようだ。しかし私の場合、そこにおける論理の飛躍があまりに大きいため、気分が悪くなる。
 まず「同盟」とは何なのか。日米両国の安全と生存という「目的」は共有されなければなるまいが、その「手段」については相互批判があって当たり前である。もちろん批判が批難にまで至れば同盟は瓦解に向かうではあろう。しかしともかく、相互批判なしの同盟は狂信者の連携のほかにはあってはならぬものだ。現に、NATO(北大西洋条約機構)においては独仏が、さらには準加盟国であるロシアが、対米批判を行っているではないか。
 念のため付言しておきたいことが二つある。一つに、批判の「方法と程度」において、対米交渉において公的な立場にある者にかんしては、その制限が厳しいであろう。逆に、知識人のような立場にある者は、それが緩い、というより緩くなければならない。なぜなら、国家の外交に当たる者が「自分の国において、知識人をはじめとして、世論がうるさいので、貴国の要望には十全に応えられません」といえる余地が生まれるからである。一介の知識人にすぎぬ者が、政治家気取りで、日米関係を荒立ててはならぬので道理のないアメリカの侵略にも眼をつむる、などというのはそれこそ言語道断の振る舞いである。
 二つに、同盟国のあいだの協力を「具体的」に考えれば考えるほど、相互批判の密度が高まる。それもそのはず、国民性といい国柄といい、その本質は「精神の平衡感覚」というべきものだが、その感覚が具体的に何かとなれば、具体的な「状況」のなかでしか語り得ない類に属する。したがって、両国の国民性が異なる以上は、具体的状況にたいする具体的対策について、意見が完全に一致するのは例外でしかありえない。
 これまで日米間の意見が一致してきたのは、日米安保条約が、たとえ文面上は双務的であっても、対等な二国間の条約ではなかったからにすぎない。日本国憲法の前文が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という場合の諸国民とはアメリカのことなのだ。つまり、アメリカを信じますので守って下さいと日本はいい、アメリカは俺を信じるなら守ってやろうと構えているのである。
 日米安保がこうした程度のものだと理解しておけば、今進行しているかにみえるパクス・アメリカーナをパクス・ロマーナになぞらえる人々――岡崎久彦氏がその代表――は大きな勘違いをしているといわざるをえない。パクス、それは、平和というよりも平定のことなのだが、辞書にすら明記されているように、「不安定で、(平定されたがわに)敵意がわだかまる、戦争のない状態」にすぎない。その敵意を宥めるべく、ローマでは、ローマ人のための「市民法」と地中海沿岸の諸民族のための「万民法」とが区別されたのであった。ローマにおける(外国人の)自由浮浪民もローマ人とみなされてから両者の区別は曖昧になりはした。しかし、考え方としては、ローマ人のやり方を他民族に直接的に適用するわけにはいかぬ、そんなことをすればローマ帝国の平和が脅かされ平定が奏功しない、とみなされていた。
 これに比べてパクス・アメリカーナ(アメリカによる世界平定)は、グローバリズムの様相からして明らかなように、アメリカの市民法を世界に万民法として押しつけようとしている。だからパクス・アメリカーナは「極度に不安定な、(侵略されたがわに)敵意が噴出する、戦争も同然の状態」しかもたらさない。つまりパクス・アメリカーナは虚妄だということである。
 思えば日本も罪深いことをしたものだ。戦後日本においてパクス・アメリカーナがあまりにも上首尾にいったもので、他の諸国民にたいしてもGHQ方式で平定できる、とアメリカは勘違いしたのではないか。支配者にたいしてかくも従順な国民は日本人のほかにはいそうにない、とアメリカは知るべきである。たとえばローマを振り返れば、そこには「キリスト教徒の殉教」、「“パンとサーカス”に明け暮れるプレブス(平民)の放縦」、「ゲルマン傭兵の反乱」などがおびただしくみられるのである。
狂気を漂わせるネオ・リアリズム
 一九八〇年の前後、アメリカにおける(学者たちの)国際関係論の分野に、ネオ・リアリズムとよばれる戦略論が現れた。それは、端的にいって、国際協調主義を排して単独主義に立とうとするものである。その理論が徐々に斯界に広がり、ついに九・一一テロ後のパニック状態のなかで、アメリカ戦略のど真ん中に座ることとなった。
 その理論は、思想史の系譜としては、ツキディデス・マキャヴェッリ・ホッブスの線に与しようとする。ツキディデスは「諸国のパワーは不平等に分布している」のが自然だ、という前提でかのペロポネソス戦争を描写した。マキャヴェッリは「君主たるものは、獅子の腕力と狐の狡猾で、国家のために“力と利”を計算しなければならない」と忠告した。ホッブスは「“万人の万人にたいする戦い”のなかから、絶対者への全権委譲という形で、社会が契約として形成される」とみた。
 その延長で、新現実主義は次の三つのことを前提にする。一つは、「世界は(騙しをはじめとする)相互不信に満ちており、無政府(アナーキ)状態にある」ということである。二つに「意志決定の行為主体(アクター・ユニット)はネーション・ステートであって、それは統一的(ユニタリー)でありそして合理的(ラショナル)である」。三つに「そのステートの前には、ゲーム論的に、自他の利害得失にかんする確率的な数値が与えられている」とされる。このような無秩序の世界、一枚岩の政府そしてゲーム論的な決定という枠組のなかでは、その戦略は、一つに「単独」でなされ、二つに目標が(自他のあいだのゼロ・サム・ゲームという意味で)「相対的利得」に定められ、三つにその視野が「短期」に限定される。まさに米ソの核戦争前夜に、つまり「武断」を必要とする状況にふさわしい戦略論ではある。
 たしかにコオペラティヴィズム(協調主義)は、国際社会における相互信頼(もしくは相互依存)を強調しすぎた。NGO(非政府組織)という意志決定の主体があることを誇大に表現しもした。ステートの内部構成が多様であり、それゆえその決定がかならずしも合理的とはいかぬと主張しすぎた。そしてその戦略は諸外国との交渉で決まると考えられがちであった。その目標も、プラス・サムのゲーム論的状況を想定して、双方の利得の合計(絶対的利得)を勘案することが多かった。そしてその視野は、目前のことよりも将来の事態に関心を寄せるという意味で、長期的であった。
 しかし、協調主義におけるバランス感覚の欠如を撃つのあまり、その逆方向に振れて単独武断主義に転落するのは、国際関係論としては貧困すぎる。それは、「ネーション(国民)なきステート(政府)」としてのアメリカに、つまり国民の歴史感覚が乏しいがゆえに(とくに戦争などの危機状態にあって)ステーティズム(政府中心主義)に流れる傾向を持つアメリカにあって、生まれやすい理論的な夢想にすぎない。
 そんなアメリカといえども、今の国連における押し合い圧し合いが如実に示しているように、他の諸外国との何らかの「つながり」のなかで生きているのだ。
 協調主義をとるいわゆるネオ・リベラリズムと単独主義をとるネオ・リアリズムのどちらかを選べ、という両断論理がそもそも間違っているのだ。そして答えは両者のあいだの適切な平衡ということになる。その平衡点を見極める英知は何かといえば、それこそ、各国民の歴史のなかから生まれる伝統の精神である。その伝統の精神の具体相は何かとなれば、具体的な状況のなかでの、知恵ある言葉づかいにもとづく、説得であり決断であるとしかいいようがない。「悪の枢軸をやっつけろ」だの「金正日の首を皿に乗せてもってこい」(ラムズフェルド)だのといった言葉づかいからは、しょせん、人気を煽ったり武力を発動したりといった子供の政治しか生まれない。
 どだいステーティズムには、内にあっては抑圧をもたらしていずれ国民の反発を招き、外にあっては対立をもたらしてやがて外国の離反を呼ぶ、という矛盾がはらまれている。さらに、視野が多少とも長期に及べば、そもそも将来利得の確率計算など不可能となるのだ。より一般的にいえば、国家はかならずや長期にわたって存続すべき存在なのである。そうならば、その国益も、(確率的数値ではとらえられない事態としての)長期未来において国家がどのような姿で世界のなかに存在するのか、という想定があってはじめて把握可能となる。それゆえ、とりわけ長期の予想にあっては、世界の相互依存の様相を輪郭として押さえておかなければならない。世界の帝王を気取るのも長期予想の一種ではあろうが、それはSF物の観すぎというもので、ダース・べーダーはあくまでアメリカ映画の悪役にすぎないのである。
 ブッシュ政権のことを離れてアメリカそのものをみれば、アメリカが経済方面において市場主義を唱えるのは、世界の相互依存と全体調和を予想すればこそであろう。その経済学において発達したゲーム論の応用学をさらに政治学に応用して、やるかやられるか、の戦略論を組み立てるのは知的にいかがわしいやり方である。そんなことをする前に、政治と経済は絶対に分離できない、というのも経済は(とくに組織や慣習という要因を通じて)国民性にかかわる政治の影響を受けざるをえないからだ、とわきまえておくべきだ。  「安全(セキュリティ)と生存(サヴァイヴァル)」のためには何はともあれ軍事戦略を優先させなければならない、と素人軍人(あるいは俄か仕立ての軍事評論家)たちはいう。私の思うに、安全と生存をすべてに優先させるのなら、日本をアメリカの一部に組み込んでいただけばよろしい、ということになるのではないか。ツキディデスだって「アテネ」を大事と思ったればこそ、「洞察、用心、慎重そして判断」の大切に思いを致したのだ。マキャヴェッリも、フィレンツェの「共和国」を守るために、その守護者にはライオンとフォックスの両面を兼ね備えてほしいと訴えたのだ。ホッブスとて、「主権国家」たるイギリスを守るために、国家はリヴァイアサンたれ、と論じたのである。日本の国民性を守る意志もなしに「安全と生存」をいうのはもはや日本人ではない。そんな人間は、もしアメリカが東アジアから手を引くということになれば、中国にみずからの安全と生存を託すに決まっている。
 H・モルゲンソーは「アニムス・ドミナンディ」(優越せんとする、悪意を伴わずにはいない意志)を政治の本質とみた。K・ウォルツは「核による戦争抑止」を論じて、国家関係は、その冷厳な構造からして、決定論的に動くとした。T・シェリングは、経済学の手法を真似て、国際関係をゲーム論的に描いた。J・グリエコは、それを「予防的な先制攻撃」の必要にまで拡大してみせた。J・ミアシャイマーは、戦争の歴史を振り返って「攻撃的な覇権奪取の戦争」をまで正当化せんとしている。
 これらは、すべて、国際関係の一局面に光を当てるのに有効な理論だと私も思う。しかしそれはあくまで専門人たちの机上の(空論とはいわぬが)仮説にすぎない。もっといえば、国際関係において人道主義にもとづく平和主義があまりに幅を利かしていることへの反動にとどまる。そうであればこそミアシャイマーも、その書(The Tragedy of Great Power Politics)の末尾で「なぜアメリカ人は現実主義を嫌うのか」と歎かざるをえないのである。私にいわせれば、W・ウィルソンに見本をみた協調主義も実は世界の現実の一部なのである。協調を望みつつも単独で事に当たるしかない、単独で事を決しようと構えても協調を無視するわけにいかない、という二重性から人間もその世界も逃れようがないのだ、と自称戦略家たちはそろそろ知るがよろしい。
日本の自主防衛
 産経新聞(二月六日)の「アピール」欄に、堀茂氏が次のように論じている。そしてそれは親米保守の平均的な意見と思われる。(1)米国のやり方は「敵か味方か」、「やるかやらないか」と問うものである。(2)日本の防衛は米国抜きには考えられない。(3)イラク問題で日本が消極姿勢をとると、朝鮮半島で事あるとき、アメリカが日本を十全に助けてくれない可能性さえある。(4)日本が外交上でアメリカの価値観と一線を画したいのなら、核武装を含む、完全な自己完結型の防衛体制を構築しなければならない。
 他方、西尾幹二氏は産経新聞(二月四日)の「正論」欄で、(1)アメリカが北朝鮮の核問題を解決しないなら、日本は不本意でもNPT(核不拡散条約)を脱退し、核ミサイルの開発と配備を急がなければならなくなってしまう。(2)アメリカは、北朝鮮の核保有をある程度において容認するよう日本に促したり、アメリカ軍が東アジアから撤退するのと引き換えで日韓両国の核武装を奨励する案を示したりしているのは、日米安保体制への背信である。(3)アメリカの対朝政策は、一方で宥和政策という誤算に走り、他方で(地上軍の削減とか国境からの撤退といったような)侮辱的な言辞をつきつけるという愚行を犯している。(4)アメリカは、北朝鮮を先制攻撃しない、と北朝鮮から高を括られている。
 私は御両者とも親米保守に典型的な錯誤に陥っていると思う。私ならば次のようにいう。(1)アメリカは「敵か味方か」を直截に問うというような短絡を犯しがちの国なので、北朝鮮のことにかぎらず、イラクなどにかんしても、誤算を重ねているに違いなく、それゆえアメリカに何が何でも協力するというわけにはいかない。(2)アメリカが自分の都合で東アジアから撤退するということはいずれありうることなので、日本は自主防衛≠断乎として推し進めなければならないのだが、それはけっして単独防衛と同じではなく、アメリカをはじめとする諸外国とのあいだに適切な協力体制を組むことと矛盾するものではない。(4)自主防衛が日本国家の「生存と安全」の土台であるからには、NPTからの脱退や核武装の準備はもちろんのこととして、予防的先制攻撃の可能と必要についても、今から議論し、実行への足がかりを作っておかなければならない。
 わかりやすくいえば、堀氏は「アメリカという名の父親の言うことに従え」といい、西尾氏は「その頼りにしてきた父親が日本という名の子供をきちんと守ってくれないのでは困る」といっているわけだ。私の言い分はといえば、「アメリカを父と思うな、日本はまず自立を思え」ということだ。アメリカに距離をおく、必要ならアメリカ批判を(外交のマナーを守りつつ)辞さないと、構えないかぎり日本は自立の道を辿れない。
 自立すれば「完全な自己完結型の防衛」を強いられると心配するのは、親元を離れたら孤独の人生しかないと恐れるに等しく、それも甘えあるいは過剰な依存心からくる杞憂にすぎない。アメリカのほうが東アジアからの撤退を選択肢の一つに勘定しているからには、日本は防衛においても自立の道を探る以外に道はないのである。そのようにあらかじめ身構えておげば、アメリカがイラクで妄動し北朝鮮で誤算しているのは、ある意味で絶好の機会ととらえられたに相違ない。
 集団自衛権すら認めることができないでいるのにアメリカに文句をいうな、という岡崎久彦氏らの言は、私にいわせれば、逆さまである。自立の姿勢がないから、集団自衛からすら尻込みするのだ。そして自立を主張するためにはアメリカ批判をタブーとしてはならないのである。いったい、もし一年半後にアメリカの政権が民主党に戻り、軍事における協調主義がアメリカで復活したら、日本はどうするつもりなのか。アメリカ政権に右倣えして、四年前は武断主義の荷物運びを、四年後には協調主義へのお追従を、ということになるのであろう。
 日本人はアメリカのことをユニタリー・アンド・ラショナル(統一的で合理的)な存在と思い込んでいるが、アメリカはそんな御立派な存在ではないのである。その証拠に、ラムズフェルド国防長官は「ヨーロッパは古い」と発言して、国連の安保理(二月十五日)でヨーロッパがわからさんざんからかわれていた。新しいことが良いことで古いことは悪いことだと思うことこそ歴史感覚の欠如である。「アメリカに保守主義は存在しない」と(アメリカですら)昔からいわれているのは、歴史感覚の保持をもって保守主義の精髄とみるという(当たり前の)見地に立ってのことである。その一事を押さえておけば、親米保守という命名それ自体が奇怪な代物だとすぐ気づく。
 「左翼」とは、元来、フランス革命後の国民公会で左がわの座席に位置した急進的自由主義者たちのことをさす。その思想が極端にまで走って硬直的な統制主義に逆転した、それが社会主義なのであった。つまり左翼はアメリカ型の急進的自由主義とソ連型の硬直的統制主義に枝分かれしたのである。戦後日本の思想的相克は、結局のところ、左翼内部の内輪揉めの域を出るものではなかったのだ。親米保守は左翼の一分派にすぎない。そのことをまったく理解していなかったので、社会主義が崩壊したあと我が世の春と言祝ぐつもりであったいわゆる「反左翼」が、新しいもの好きのアメリカに擦り寄り、新しい戦略である単独武断主義の応援歌をうたう始末となったのである。
 人工的社会であるアメリカはステーティズムによってまとまるほかない。しかし歴史的(あるいは文化的)国家を有することができるはずの日本は、ネーション(国)をもってステート(家)の土台としなければならない。その意味で、ナショナリズムが日本国家の自立を、アメリカからの独立のことを含めて、可能にする。このことを銘記せずして何の保守か、といわざるをえないのである。
◇西部邁(にしべ すすむ)
1939年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
東京大学教授を経て、現在、秀明大学教授。評論家。
 
 
 
 
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