日本財団 図書館


2003年4月号 正論
[緊急座談会]同盟と独立の間(はざま)で決断の時来れり 日本の活路はどこにある!
日下公人(くさか きみんど)(東京財団会長)
志方俊之(しかた としゆき)(帝京大学教授)
田久保忠衛(たくぼ ただえ)(杏林大学教授)
西村眞悟(にしむら しんご)(衆議院議員)
選択すべき国家像、同盟のあり方とは
 ――一昨年の米同時多発テロ事件以後、今般の北朝鮮による核恫喝≠ノ至るまで、われわれは一体どのような国家戦略を持つべきなのかという深刻な問いに直面し続けていると思います。冷戦下では西側の一員、アメリカの同盟国として、憲法を初めとする戦後の枠組みの中でその求めに応じていればよかった。それが今は、アメリカに寄り添うことで繁栄を手にしてきた惰性のまま冷戦以後の時代に入ったことで、新しい事態にどう対応していいのか分からなくなっている。ひょっとしたら日本には冷戦を戦ったという自覚も、それに勝利したという認識もなかったのではないか。
 こう考えないと、たとえば小泉首相の施政方針演説にあった「中国とも、アメリカとも、北朝鮮とも協調する」という能天気さ、日本の国家戦略不在という現状の説明がつかないような気がします。冷戦が終結したとき、なぜ日本は戦後の枠組みから脱却して、日本にとって都合のよい世界≠構築するという発想を持ち得なかったのか。またそもそも国家における「戦略」とは何なのか。間近に迫ったアメリカのイラク攻撃や、日本にとって直接的な脅威である北朝鮮の核問題などを踏まえた上で、日本が選択すべき国家像、同盟のあり方などについて短期、長期の視点からさまざまに論じていただければと思います。
 日下: 日本は一体いかなる国なのかという自覚の問題から始めましょう。たとえば「道義」をキーワードに考えると、大方の日本人はそれは守るべきものだと思っている。道義を簡単に言えば、お互いに信用し合って暮らすのか、それとも足を引っ張り合ったり、騙したり、疑ったりして、最終的に裁判所の世話になるような生活をするのかということです。日本人は後者は嫌だと思って社会をつくってきたわけですが、残念ながらこれが世界の大勢でないことははっきりしている。にもかかわらず、日本は礼儀正しい国として振る舞い、他の国も道義が高いと思って付き合ってきた。その意味では日本には他者の悪意を想定する視点が欠落している。
 ではこの価値観は今後も日本にとって対外的にはマイナスに作用し続けるかというと、そうとは言えない。私は世界がいかに「腹黒い」かをこれまでも何度か言ってきましたが(笑い)、日本の良さに気が付き始めた人も確実に増えた。ただそれが本当に世界に広まるまでにはまだ十年、二十年とかかるでしょう。何が言いたいかというと、人間および国家の真面目さ、健全さ、礼儀正しさといった要素が、国家と国家の力関係に大きく関わってくる時代がやってきたということです。アメリカの単独行動主義への反揆として「国際社会の強化」が見られます。
 それを見通したとき、果たして日本はそんなに危ういかと私は問いたいんですね。今回の北朝鮮との問題に関する議論を見てもマスコミ論調の多くが、その基準をひたすらアメリカとの同盟関係においている。それだけの視点しかないとすれば、日本はただアメリカに寄り添っていればよいのであって選択はもうそれで決まりです。本当に日本の選択はそんなに限られているのか。右も左も壁に囲まれて、行く道はこれしかないという追い込み型@\測の従来発想から日本人は脱却する必要がある。日本は八方塞がりに陥っているという議論に対して、むしろ私は「八方広がり」だと言いたい(笑い)。とことん追い込まれれば、日本人は一気に梁(やな)を破って跳躍できる。そういう力があるから切羽詰まるまでじっとしていられるのであって、それはきわめて幸せなことではないか。材料を具体的にいくつか挙げましょう。
 たとえば国際社会は日本の外側にあって、その中で日本は自らの道を選ぶしかないというのが固定観念です。実際の国際社会は日本を含めて存在しているわけで、日本が本気で「NO」と言えば通らない事案は少なくない。ただ日本が言わないできただけです。世界経済の二割を占める日本の実力を正当に評価すればそういうことになる。これは盲点です。
 もう一つ、世界経済の指標はいま輸出力から輸入力に移っています。決定的にものを言う力は「どれだけ輸入できるか」なんです。クリントン時代のアメリカが中国に対して「戦略的パートナー」などと言って擦り寄ったのは、中国市場に幻惑されたからです。平たく言えば、「アメリカ製品を買ってやる」とちらつかせた江沢民にクリントンが参ったということ(笑い)。「輸入力」で見れば、世界一はアメリカで第二位が日本です。中国の輸入力など桁違いに小さいのですから、そのとおりに日本は振る舞えばいいんです。
 国家戦略を考えるなら自国の実力をきちんと把握していなければならない。どうもいまの日本の指導者たちは、「日本は可愛い国です」と周囲に言いたいらしい(笑い)。それで対外摩擦の回避にこれつとめるというのでは国益を守ることなどできません。それに諸外国から見れば日本は強大な力を持った国で、むしろその力を主体的に#ュ揮されると従来秩序に乗って利益を得ている国にとっては厄介なことになるから、事あるごとに日本を無視したり、矮小化しようとするんです。エネルギーも食糧も、一国では自立できないではないかという具合にです。それに日本の農水省とか経産省は大喜びで乗ってしまう。そのほうが国家としての自立をめざす苦労を背負い込まなくて楽だから(笑い)。「日本は実力がある」。誰も言わないことを私がここで言ったのは、従来発想、固定観念から離れた問題提起なんです。
なぜアメリカの「被保護国」に甘んじてきたのか
 田久保: 日本が全く無力な国であるとは私も思っていません。しかし、国家を一つのボディと見なせば、経済力はたしかに強大であるけれども、半身であるところの外交・防衛力はきわめて脆弱であるというのが率直な実感です。この国家としての非対称を何とかしない限り、日本が主体的に国際社会で振る舞うには総体として力が欠けていると言わざるを得ない。
 かつてブレジンスキー元米大統領補佐官が日本を指して「米国の事実上の被保護国(de facto protectorate of the United States)」と言いましたね。「被保護国」という表現は日本人であれば誰もが憤慨する侮蔑であり、私の知る限り政治家でブレジンスキーごときに下僕扱いされるいわれはない、と言ったのは石原慎太郎氏だけでしたが、私もそのとき大いに腹立たしく思ったことを吐露しておきます。
 しかしここからが問題なのですが、では実態としてはどうなのかを考えると、ブレジンスキーは現状を正確に指摘したにすぎないんです。保護国対被保護国の関係は日米安保条約の片務性を見れば分かる。外交・防衛で自己決定権はあっても、実際の力はごく限られています。悔しいが「事実上の被保護国」とはよく言ったものよと思わざるを得ない。今の世界における保護国と被保護国の関係はフランスとモナコ、フランス、スペイン両国とアンドラの関係を見れば明らかです。
 なぜ日本は戦後独立を回復してのちもアメリカの「被保護国」に甘んじてきたのか。日本という国家の弱体化を徹底したアメリカの占領政策が効きすぎたということはあるでしょう。その意味でアメリカを非難する意見が少なからずあることを私は押さえようとは思いません。
 しかしより問題なのは、敗戦によって受けた事実上の武装解除という国家の体制を、基本的に今もって維持している戦後日本人の姿勢のほうです。「アメリカがそうしたんだから」という言い訳は、国家を自ら統治する責任において幼すぎます。
 国家としての歪みを際立たせているのは、憲法九条に象徴されるようにソフト面を思考停止にしたまま、武器装備というハード面を整備してきたことです。陸海空三自衛隊の武器装備だけを見れば、これはもう世界屈指の実力を備えていると言ってよいと思います。ところがそれを運用する政府の答弁は、「自衛隊は通常の概念では軍隊ではないが、国際法的には軍隊である」という支離滅裂なものです(笑い)。国内的には「国軍」として認知しないまま対外的にはその任を負わされている。この点が日本が国際舞台で外交の有力なプレイヤーになれない最大の欠陥ではないでしょうか。国家戦略という観点から言っても、それを考える上で最も重要な要素を自ら蔑ろにしている。
 「こん棒片手に猫なで声」(speaking softly wheel carrying a big stick)と外交の本質を衝いたのはセオドア・ルーズベルトです。当時のこん棒は「軍事力」ですが、現在では経済力、技術力、情報力などの総合力ということになるでしょう。このとき留意しなければならないのは、「軍事力」の意味を過小評価して、「経済力」や「技術力」だけでも渡り合えると安易で単純な選択をしないことです。国際政治の根底にある「軍事力」は他で代替えできるものではない。ギリギリのところで国を守るのは札束でもなければ、「平和憲法」というお題目でもない。確かに卓越した技術力や経済力は大きな要素ですが、それらは飽くまでも軍事力を補完するだけではないでしょうか。
 そしてこの「こん棒」のないことが、われわれからスピリット、気概を失わせしめている。9・11テロが発生した直後にブッシュ大統領が声明の中で、「テロリストは建物の基礎を破壊できたが、アメリカ人の精神の基礎は破壊できない」と述べたのは、私には鮮烈な印象でした。これはアメリカの安全を脅かす相手とは断固戦うという強い意志の表明です。この意味で言うと、今の日本には「こん棒」の基礎をなす「大和魂」がすっかり薄れてしまっている。だから北朝鮮も核恫喝などという手段に出てくるわけです。国家戦略の基本は軍事力(こん棒)の存在であり、その基礎は精神の構えにある。この視点から検証すると私は日本に関して日下さんほどの余裕は持てないということになります。
「こん棒」か「ウサギの耳」を
 志方: 私の基本認識も田久保さんとほとんど変わりません。アメリカ人と話をしているとよく、「日本はいつ再軍備するのか」という質問を受けます。これは彼らが自衛隊の装備について知らないということなのか、あるいはそれを使う意志が日本にないことを指して揶揄しているのか。少し具体的なことに触れると、わが国はF-15戦闘機を二百機も持ち、P3C哨戒機を九十機も持ち、イージス艦を四隻も持っている。これは相当な実力です。にもかかわらず先のような質問が出るということは、それを使う意志も決断力も、日本政府と国民にはないと見越されているからでしょう。
 わが国の安全保障政策はいま「非核三原則」を採っています。しかし核を自国の防衛のためには保持しないというのなら、それに代わる手段を何か持たなければならない。このとき、ただアメリカに寄り添い、その核の傘に入れてもらうというだけでは戦略とは言えません。アメリカが絶対に持っていないものを何か持つとか、そういう独自の力を模索しなければいけなかった。たとえばアメリカが持っているエシュロン(大規模情報傍受網)のようなシステムは、実は日本こそが構築すべきものであったと私は思っています。「こん棒」を持たないとすれば、最低でも「ウサギの耳」は持つ必要がある。こん棒もウサギの耳もないとなれば、結局アメリカに寄り添うしかない。なぜ外交・防衛力において日本は脆弱なのか。また自己決定できないのか。その理由を挙げるとだいたい四つに集約されると思います。一つは一億二千万を超える人間が住んでいるこの列島は狭く、資源がほとんどないということです。エネルギーの九九%は海外からの輸入で石油に関しては九〇%が中東の湾岸諸国からです。食糧の自給率は四〇%程度しかない。現在の日本のバルネラビリティ(脆弱性)の高さはこうした与件のなかにあります。
 二番目は精神的な風土です。日下さんがご指摘になったように道義を重んじる、あるいは「和を以て尊しと為す」という日本人のメンタリティは、対外的な緊張に耐えるよりもそれを回避するほうに作用しがちです。先手を打ってその経過の緊張に耐えるよりも、結果として相手の様子を見ながらそれに合わせる場合が多くなってしまう。これは後手を引くことですね。後手を引いてなお勝つというのはよほど強くなければできない。互譲の精神というのは、国際政治の舞台では先に持ち出したほうが負ける。日本人はその認識を持たなければならない。
 三番目は、やはり日本社会におけるリーダーシップの欠如です。とくに戦後は利害の調整役は出ましたけれども、国家の根幹に関わるリーダーシップの発揮という土壌を政治において培うことをしてこなかった。難しいことは何でも先送り先送りにして、日下さんの見立てではまだ切羽詰まっていないということでしょうが、果たして梁を破って跳躍するリーダーが出てくるかどうか。確かに戦国や幕未維新など日本の歴史を振り返れば、時代が沸騰したときには傑出したリーダーが出てきてはいますけれど。
 四番目は、やるべきことをやってないから態度を主体的に決定できないんです。たとえば今回のイラク攻撃でドイツがアメリカを牽制できるのは、彼らはボスニアヘルツェゴビナのときもコソボのときも、アフガンのときにも戦闘部隊を出しているからです。イラクにおける国連査察団にもちゃんと支援部隊を送っている。そうした実行が伴っているから、アメリカに対しても国益の上でズレがあると判断すればNOと言うことができる。日本はアメリカを後方支援しているといっても、同盟におけるリスク・シェアリングの観点からいったらドイツとは比較できないんです。実際にインド洋に派遣されている海上自衛官は任務にベストを尽くしているでしょうがね。
自らの国益追求にアメリカを巻き込むこと
 西村: 私がいま最も強く感じている危機は、日本の総理大臣がまったく事の本質を解していないということです。長期的な国家戦略を立てるどころではない。今回のイラク攻撃に関しては、周囲をあちこち見てから自分の態度を表明するような曖昧さがあってはならない。NATO諸国のなかではドイツ、フランス、ベルギーが国連による査察の継続を支持し、アメリカの武力行使にブレーキをかけましたが、ロシアにしても中国にしても、それぞれ自国の思惑があって攻撃のタイミングを図っているだけです。事の本質を考えるなら、サダム・フセインに武装解除をさせねばならないという認識は彼らの間で共通している。それは明確に言っている。
 いまイラクと北朝鮮の問題で世界が直面しているのは、サダムが大量破壊兵器を持つことを認めるかどうか、金正日が核ミサイルを持つことを認めるかどうかという問題なのです。これについての基本的認識をまず表明し、日本は問題解決のためにいかなるリスクを負担するのか、あるいはアメリカに委ねて何もしないのかという、少なくとも論理的にはこういう議論をしていかなければならない。現状は志方さんがおっしゃった四つの脆弱性がたとえようもなく露呈している。
 私としてはなるべく早くアメリカにはイラク問題を片付けてほしいと思っています。北朝鮮が核再処理施設を稼働させれば、五月か六月には、核爆弾を五、六発保有することが可能でしょう。そうした事態にある以上、日本はアメリカに対して、「北の独裁者こそ武装解除させねばならない最大の存在である」と説く必要があります。
 そしてアメリカに北朝鮮への圧力をかけさせる反対給付として、わが国はイラクに対するアメリカの態度に早急に全面的な支持を表明する。これは日本のためです。ドイツやフランスは彼らにとっての国益追求、思惑があってアメリカにブレーキをかけている。日本は自らの国益追求のためにアメリカと協動すればいいのです。同盟関係の信義を果たし、同時に北朝鮮の核恫喝を封じ込める。武装解除を図っていく。そうした取引≠ノアメリカを引き込んでいくぐらいのしたたかさ、計算高さが必要だと思います。
 四年前、国民に対して責任ある安全保障政策を考えるならば、核武装というオプションについても検討する必要があると発言して物議を醸したのは私ですが(笑い)、それでも当時といまを比べたら、日本人の意識はかなり変わってきたように思います。ただその変化は政治の世界にまで及んでいない。総合雑誌の世界では日本の核保有の特集が出始めていますが、政治の世界ではいまだに「非核三原則」の見直し議論すら始まる気配がない。総理大臣に至っては、わが国の自衛権の行使はミサイルが落ちてから考えるという。
 昭和三十五年に双務的安保改定に一歩踏み切った岸信介内閣の集団的自衛権に関する見解ですら、「日本は国際法上、集団的自衛権を観念として持っているが、憲法上行使できない」でした。当時としては一歩前進であったことは確かですが、何とこのときの政府答弁の遺産≠ゥら一歩も踏み出さないまま政治は停滞している。その間に国民の安全はどんどん損なわれているという認識はない。残念ながらこれが政治の現実です。岸内閣から四十年以上経過し、世界情勢の激変を経験していながら永田町はまるで石器時代のままです(笑い)。
 この原因の根幹を突き詰めれば、それは田久保さんがご指摘になったように、やはりアメリカの占領政策とそれに狎れて自ら立つことを忘れた日本人の堕落ということになるでしょう。アメリカが日本に押し付けた戦後体制は――とくに日本国憲法――、実際に投下された原子爆弾にも匹敵する、いやそれ以上の災厄を日本にもたらした。日本人を蝕むこの最大の細菌≠意識の上から取り除かない限り、日本の政治は独立と主体性を取り戻すことはできない。
「核武装」がもたらす劇的な環境変化
 ――西村さんのいまのお話のなかに、日本の国家としての捩れが端的に現れていると思います。西村さんの表現をお借りすれば、最大の細菌≠日本に投下した相手と同盟を結んでいることの矛盾といいますか、その現実に対する精神的な鬱屈が日本の戦略をクリアにすることを妨げているのではないでしょうか。「戦略」を単なる「状況適応」と考えるなら、それは冷戦に勝って、その後も独り勝ちのアメリカに乗っかっていればいいと割り切れるでしょうが、そこに日本の「自立」という要素を織り込むと、どうしてもアメリカに対する距離なり立ち位置を、ただ「寄り添う」こととは別に求めなければならない。少なくともそれを意識し、そのことに苦悩しない限り、戦後日本人の堕落は続き、日本にとっての「戦略的思考」は生まれてこないのではないか――こうした問いかけについてはいかがでしょうか。
 日下: 私は三人の方のご意見に賛成なんですけれども、日本の国家戦略に「自立」という要素を織り込んだ場合の至極まともな提案をここでしましょうか(笑い)。固定観念や従来発想から離れて、「日本は原子力潜水艦と原子爆弾を持ちます」と言ってしまえば、環境は劇的に変わります。日本の新聞や従来発想に凝り固まった永田町の人たちからは大非難を浴びるでしょうが(笑い)、日本が独立国である以上はその選択をしたことでどこかから非難を受ける謂れはないし、いろいろ前提を設けて宣言すればよい。
 むしろ世界は日本を羨ましい国と思うのではないでしょうか。経済力があって、技術力があって、ようやくそれに相応しい軍事力も持つに至ったかと。これは別に反米的な行為ではない。相対的な自立を追求した結果であると言えばよい。それでも非難してくる国があれば、その意図を冷静に見抜いた上でそのとき対応すればいいのです。いまから選択肢を自ら制限してしまうのは賢明ではありません。
 田久保: 日下さんのご提案は確かに日本の選択としてあり得ると思います。実現性をひとまず措いて考えるなら、一番よいのは自己完結型の軍隊を持った上で核武装もするという選択で、私の理想でもあります。関連して申し上げるとアメリカ国内にも日本の核武装を容認する意見が出てきています。たとえば一月三日付のワシントン・ポストに、「日本の核武装化が北朝鮮への対抗手段になる」というクラウトハマーのコラムが載りました。これは日本に自ら核抑止力を保持させるか、アメリカの核ミサイルを日本に提供して、それを恐れた中国が北朝鮮の核武装を押さえるという筋書きを示したものです。
 もう一つはワシントンのシンクタンク、ケイトー研究所が一月末に出した報告書で、在韓米軍が北朝鮮の「核の人質」になる可能性がある以上、アメリカは日本や韓国の核兵器開発を奨励することで、北朝鮮の核開発を断念させることが最も望ましいオプションであるというものです。ケイトー研究所にはリバータリアンが多く寄っているんですが、今回は日本のオプションとして理念上、重大な問題提起をしてくれたと思います。ただ核武装はやはり自己完結型の軍隊を保有していることが前提になります。それが整備されていない状態での単なる核武装ではナンセンスです。
 では北の核恫喝にどう対処するか。やはり西村さんがおっしゃったようにアメリカとの連携のなかで可能な限り主体性を発揮し、わが国の利益にアメリカを引き込むような形を早急に整えていくしかないと思います。米英の関係を歴史的に見ても結局はお互いの利益の共有で結び付いている。日米関係もそうと割り切ることからは逃れられない。根本においてはセカンドベストであろうとも、それがいまの日本にとっては最も有用な選択だと私は思います。
 司会者の先のご質問に答えるなら、これは日本の国益に立った判断で、そもそも「親米・反米」というような基準でとらえられる問題ではない。国家が生存していくためにいまそれができるかどうか、できないならばどうするかという現実への対応であって、確かに「状況適応」ではあるけれど、私はそれですべてよしと考えているわけではない。今後五十年、百年かかるかもしれないけれど、相対的な自立を追求するための長期的な戦略が日本には不可欠だと思っています。そのためには日本人の精神の構えが何より大切だというのはすでに述べたとおりです。そしてそのことのために、あえて反米的な言辞を弄することはないというのが私の意見なんです。
「永遠の敵」も「永遠の味方」もいない
 志方: 結局、同盟関係というものは本質的には当事国の国益によってどうにでも変容し得るものなんです。そこには平気でダブルスタンダードが持ち込まれもする。イラクと北朝鮮に対するアメリカの姿勢の違いを見ればそれは歴然としています。普通に考えれば、明らかに核を持っている、あるいは開発するという北朝鮮が攻撃目標として後回しにされ、国連の査察を受け入れたイラクのほうが先というのはおかしい。ところが仮に北朝鮮の地下に世界で二番目の埋蔵量の油田があれば、この順番は逆になっていたと私は思います。北朝鮮の地下には何もなく、地上には飢餓があるだけですからね。
 複雑な要素を省いてそのことだけを取り上げても、アメリカにとってのグランド・ストラテジーを考えればどちらが先かは自明なわけです。サダム・フセインを倒してイラクに親米政権をつくることができれば、中東地域へのプレゼンスがいま以上に増すばかりでなく、石油の国際価格をコントロールすることも可能になる。二月十四日の時点ではイラクに対する国連査察の継続が決定しましたけれど、その前の国連決議一四四一号は安保理で十五対ゼロで通っている。攻撃を進めたいブッシュ政権は中間選挙に勝ち国内の支持も得ている。軍の実力はNATO軍をバックパッカー≠ニ呼ぶほどに隔絶している。結局アメリカにとっては国益追求の最大のチャンスを現実のものにしようとしているだけで、アメリカが何か美しい理想を追求しようとしていると思うほうがナイーブ(世間知らず)にすぎるんです。
 ユーゴスラビアという国がありましたね。チトーという大統領が強権をふるって束ねていた国ですが、所詮あの国はロシアとヨーロッパの間のバッファー・ゾーン(緩衝地帯)にすぎなかった。したがってその必要がなくなれば壊される。国家間の同盟とか約束事というのは、必要なときには結び、不要になれば壊す。今回の脅威を前にしたNATOの分裂も、冷戦下の産物だったNATOがその終結によって存在意義が問われ始めていることの現れです。日米同盟もそれが必要だと思っている両国の人間がよほどしっかりしなければどうなるか分からない。存在意義を再確認しなければもたないという展開も十分にあるわけです。
 西村: 「国際関係には永遠の敵も永遠の味方もいない。国益だけが永遠なのである」というチャーチルの述懐を、われわれは肝に銘じなげればならない。戦略なき国家というのは詰まるところ軍事戦略のない国家のことです。なぜいまのわが国にそれがないのかと言えば、それを考えることは戦争を考えることであり、戦争を考えることは平和に反することであると戦後このかたやってきたからです。
 さらに問えば、戦後の軍事戦略の不在というのは、大東亜戦争における戦いの過程をきっちり検証していないことに発していると思います。
 戦いの検証とはすなわちこういう戦いかたをしたから負けた、こうすれば勝てたという敗因と勝機の探求をすることですね。これは日下さんのご専門になると思いますけれど、それをきちんとしておけば、敗れたことに卑屈になることはなかったし、過剰な贖罪感を持つこともなかったでしょう。戦争目的が悪かったから負けたのだとか、むしろ負けて良かったのだというような考えが戦後、知的には出る余地はなかった。これをいまからやらねばならない。
 ――日本人は道徳的な価値観で勝敗を受け止めてしまった。
 西村: 受け止めてしまったことが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」(憲法前文)という思考停止に結び付いた。現下の北朝鮮情勢に明らかなように、かえって戦争の惨禍をわが国にもたらしかねない憲法を後生大事にしてしまった。戦争の勝敗を軍事戦略による視点から見るのではなく、善悪や道徳の問題として見る限り、日本がふたたび「国家戦略」というものを手にすることはできない。
 具体的には、攻勢限界点を超えて山本五十六が博打≠打ったことが敗因だとか、その検証結果はいろいろ出てくるでしょうが、多少なりともそれに取り組めば、あの戦争の勝機が見えてくるのではないか。戦略の如何によってはアメリカに勝てたと私は思っているんです。
 ――それこそ戦略的思考の回復につながりますね。
 西村: そうなんです。山本五十六みたいな軍人がおらずに、海軍が陸軍のもとに統合作戦をやっていれば日本は勝てた、負けない、という結論が出るかもしれない。
 日下: うまくやっていればね。
 志方: 軍事作戦の誤りは確かにあったと思います。その意味では個別の戦闘ではもっと勝っていてよかった。ただ開戦の昭和十六年に至るまでの過程でいかに国家戦略がまずかったかという検証をしなくてはならないでしょう。とくに日独伊三国同盟を結んだことの可否です。あれはいまの世界で言えば金正日とサダム・フセインと組んだのと同じではないかと私は思います。どのような世界構想のもとに同盟を結んだのかも不明瞭で、所詮は追い込まれた者同士の同盟ではなかったか。満洲の利権をうまく使うなどして、独伊とは異なる相手との枠組みによる国益の追求ができなかったか。そういうことも考えてみるべきです。
アメリカの「ニューワールド・オーダー」とは何か
 日下: そうしたことを考えるとすれば、戦争を始めるに当たっては作戦目的の明確化と、どのように戦争を終わらせるかという方途、また終わらせたのちの秩序についても構想しておかなければならない。日本にそれが欠けていたことは残念でなりませんが、今回のアメリカのイラク攻撃に関しても現時点では同じことが指摘できると思います。
 一九九一年の湾岸戦争でブッシュ・シニアは「ニューワールド・オーダー(新世界秩序)」が必要だと言いましたが、結局その具体的な中身には論及しませんでした。侵略者が得することがあってはならないと言って戦端を開き、最後にはバグダッドに進撃してフセインを裁判にかけると言ったけれど、これは途中でやめた。結果的にサウジアラビアに軍隊を駐留させることはできたが、それが作戦目的だったとはブッシュ・シニアは言ってない。
 戦争というものは本質的に、作戦目的を達すれば勝利で、作戦目的を達せられなかったら敗北なんです。では今回のアメリカによるイラク攻撃の目的は何か。フセイン体制の武装解除、親米政権の樹立ということは聞こえてはくるけれど、公式にはまだ何も同盟国にも国連にも言ってないでしょう。本当にバグダッドを占領するつもりなのか。これをはっきりさせない限り、いくら爆撃しようが地上部隊を送り込もうが、アメリカが勝ったことにはなりません。
 それであとに何が残るかというと、恐らく劣化ウラン弾の被害でしょう。あの砲弾の破片は何百年も残る。その惨禍についてアメリカは知っているはずです。一体アメリカの作戦目的は何なのか。圧倒的軍事力で、圧倒的に勝ったあと、そこには劣化ウラン弾の被害が生き残った人々に長く残って、白血病になったりガンになったりする。
 アラブにも「一寸の虫にも五分の魂」があるなら、そのときのアメリカの勝利は、さらにアメリカを「抜き差しならぬ」方向に引っ張っていくかもしれない、それが果たしてアメリカの勝利と言えるか。ブッシュの作戦目的が「殺戮」にあるのならそれでも勝利と言える。しかしそうは言ってないわけです。本心は奈辺にあるのか。これは本当のところ同盟国にも国連にも分からない。
 それからこれは誰も指摘しませんが、オイルダラーが消失する可能性も考えておかなければならない。それが世界経済にどのような影響を与えるか。どこの誰もこれについて論じない。私はそれを聞いてみたいですね。いずれにしても、「武装解除」と「親米政権の樹立」だけでは戦争プラン、作戦目的としてどうなのか。日米は同盟関係にあると言っても、それ以上の説明は不要ということにはならないはずです。
 志方: 本当の戦争目的は言えないんだと思います。フランクに「国益追求」だと言えばいいものを、イラクの「民主化」というような美しい理念≠ナ説明しようとする。本音はやはり国益追求であり、そのための「ニューワールド・オーダー」の構築にある。
 日下: その「ニューワールド・オーダー」というのは具体的に何なのでしょう。
 志方: アメリカの短い歴史を見たとき、彼らは自分の前に立ちはだかるものを全部壊してきました。イラクはその意味では実にスモール・ターゲットです。二十一世紀の中盤からアメリカの前に立ちはだかる意志と能力を持ち得る国は中国でしょう。私はアメリカは、すべてこれに対するグランド・ストラテジーで動いてると見ています。
 この間のアフガン戦争も、結果的にはそのための布石の一つとして位置付けて戦った。プーチンのロシアと話をつけて中央アジアに基地を確保したのもそのためでしょう。中国もまたアメリカと対抗するために周辺諸国を固めようとしている。ミャンマーへの援助などその一環として見え見えですが、アジアを舞台にすでに米中の対峙は本格化している。
 アメリカの「ニューワールド・オーダー」とは、要するに中国を包囲する勢力を形成することだと思います。大ざっぱに言えば、中東地域はフセインのイラクを倒せばサウジアラビア、ヨルダン、クウェートと親米ラインの構築ができる。シリアも大丈夫ということになれば、問題はイランだけ。そのイランとロシアの関係を断つためにイランを「悪の枢軸」に入れ、プーチンとは獲物の分け前≠ナ話をつけた。
 中央アジアはこれからでしょうが、東南アジア・太平洋地域は日本と台湾を軸にやっていく。インド、パキスタンに関しても現状は悪くない。米中対決といっても必ずしも戦争にはならないと思いますが、アメリカにとって都合のよい世界地図と、中国にとって都合のよい世界地図の衝突がすでに始まっている。こうした大きな構図のなかで、たとえばイラクに対する攻撃だけを抜き書き≠オて、そのオブジェクティブ(目的)を明確化することはできないのだと思うんですね。
 日下: 最終目的は中国だから。
 志方: そうです。イラク攻撃はアメリカにとって中間目標です。したがって北朝鮮の問題も、やがて来る米中対決のときにどのような状態の朝鮮半島がアメリカにとって最も都合がよいかという観点で動いている。その意味では日本の立場への配慮は二の次だと思います。
アメリカは「失敗の教訓」を生かしているか
 日下: そうであるならなおさら、日本はアメリカの「ニューワールド・オーダー」に関わることに主体的な判断をしなければならない。日本に関係ないことで日本がリスクを負うべきではありません。確かにアジアに関しては日本がある程度の責任を持つべきですが、中東や中央アジアにおけるアメリカの利害にまで付き合う必要があるかと言えば、私はないと思う。それこそアメリカが単独でやればいいことです。それを全面協力、一蓮托生などとこちらから言い出すのは、外交に長けた相手からすればそれこそいくら利用しても構わない、「お手軽な同盟国」と見なされるだけです。そう口にした時点で、戦略じゃなくなるんです。
 田久保: しかし現実に北朝鮮の核恫喝に対しては、日本はアメリカの力を借りなければならない。そのとき米軍はイラク攻撃を勝手にやりなさい、ただ日本はそれに協力はしません。しかしながら、われわれが北朝鮮から攻撃を受けたときには守ってくださいと、そういうことをアメリカに言えるのか。そこが問題なんです。
 日下: 先ほども申し上げたように日本は原爆を持つと言えばいいんです。そして朝鮮半島のことは日本が処理するから、アメリカは引き揚げてくれて結構だと告げる。それなりに覚悟がいるでしょう。しかし長期的な視野に立てばこれが私の考えです。経済力でも技術力でも、日本はいつでも核を保有できるのだということを示すだけで相手に対して効果がある。抑止力として機能させるんですから。しかも核を保有したとして、その運用や通常兵器とのマッチングなどのシステム化は日本は問題なくこなせる。日本にはその能力があるということが抑止力になる。そのことを日本人はもう少し自覚すべきです。
 アメリカが「ニューワールド・オーダー」の構築をめざすのは勝手だけれども、この際胸襟を開いて彼らに語っておきたいことは、イラク相手に限らずあまり世界中に出掛けて行って、手に余ることをしないほうがよろしかろうということです。ベトナム戦争のときも北ベトナムとは圧倒的な軍事力の差があって、北爆でベトコンを容易に制圧できると考えていたのがそうならなかった。アメリカは戦争を始めながら、結局は目的を達しないまま戦争をやめてしまったことが何回もあります。戦争をやめて彼らに残ったのは自信喪失と軍事・道徳の両面における深い傷だったはずです。
 湾岸戦争では「勝利」したと思ったかもしれないが、結局フセインは健在で、だからこそふたたびのイラク攻撃となったわけでしょう。戦争はアメリカが考える以上に複雑なものだと思います。
 軍事力は突出していても、たとえば中国は軍事力以外にアメリカを苦境に陥れる力を持っています。それはアメリカを腐敗堕落させる腐敗菌≠ナす。中国の腐敗菌でワシントン中が腐って判断を誤ったことがいままでに何度あったか。アメリカはそれを忘れてしまったのか。
 蒋介石とルーズベルトのとき、時代が下ってニクソン、クリントンと、賄賂や供応といった人間の弱さに付け込んだ武器を中国は駆使している。しかもそれには三千年の磨きがかかってます(笑い)。日本はそれを知っている。聖徳太子の時代に気づいてから、彼の国とは距離をおいて付き合う術を持った。二十一世紀の米中対決は結構だけれど、アメリカにその用心がありますか。クリントンがいい例です。北京に行くときは東京に立ち寄って防御法を仕入れてから行きなさいということです(笑い)。
 西村: 菅原道真ですか、遣唐使を廃止したのは。唐末の混乱で人肉相食む。これを日本に伝潘させてはならない。確かにそれはいまも同じですね。
日本は国家として何をめざすのか
 志方: アメリカのイラク攻撃にしろ北朝鮮の核恫喝にしろ、直近の政策的判断としては、私は田久保さん、西村さんと同じようにアメリカとの連携を図って対処して行くしかないと思っています。では長期的な国家戦略はどうあるべきかを考えたとき、日下さんはアメリカの「ニューワールド・オーダー」に関わっていく必要はないとおっしゃった。国家の戦略として何を選択していくかという問いは、日本は一体どういう国をめざすのかという国家としてのイメージに行き着くのだと思うんです。
 日本の歴史を振り返ってみると、大化改新とか明治維新に象徴されるような大きな破壊と創造をやってのけた時期がちゃんとある。主に外圧によってですけれど一時的にせよリーダーシップが発揮される社会構造に変化し、人材も輩出しています。日下さんのおっしゃるように、確かに「梁から飛び出て跳躍」している。歴史的に言えば、いまの日本は何度目かのそうした時期を迎えている。日本は最先端にいるからモデルはどこにもない。
 その意味で平成の構造改革は最も困難な挑戦です。いままでの議論はそうした事態をペシミスティック(悲観的)に見るか、オプチミスティック(楽観的)に見るかだけの違いだと私には思えます。したがって極端なことを言えば、切っ掛けは何でもよい、旧い国家システムの大破壊なり、大きな衝撃があれば日本人は覚醒し、新たな国家戦略の構想に踏み出して行けるんじゃないでしょうか。
 日下: 冒頭に申し上げましたが、私は日本の持つ力(とくに精神や心のあり方)が、じわりじわりと世界に影響を及ぼして行くと考えています。そしてどのような国家でありたいかという国民のイメージが戦略の構築に大きく関わってくる以上、その根幹は「心」のあり方に帰結するだろうと思います。このときそこになければならないのは、やはり日本人としての「主体性」であり「自立」であるべきです。それを忘れてしまったところにはいかなる戦略もない。
 田久保: どのような国家でありたいかが重要であるというのは全く同感です。私は日本が「普通の国」であってほしい。そのためにもいまは日米同盟が大事であると、ここで重ねて申し上げておきます。
 西村: 政治はそれを真摯に命懸けで追求しなければならない。また問題発言と糾弾されるかも知れませんが(笑い)、戦争というのは究極的にそれを求めるものですから、これは「危機こそ好機なり」と思って挑むしかない。それこそまずは「非核三原則」の解消です。
(司会・構成/本誌、上島嘉郎)
◇日下公人(くさか きみんど)
1930年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
日本長期信用銀行取締役、ソフト化経済センター理事長を経て、現在、東京財団会長。
◇田久保忠衛(たくぼ ただえ)
1933年生まれ。
早稲田大学法学部卒業。
時事通信社・那覇支局長、ワシントン支局長、外信部長、編集局次長を経て、現在、杏林大学教授。
◇志方俊之(しかた としゆき)
1936年生まれ。
防衛大学校卒業。京都大学大学院修了。工学博士。
陸上自衛隊で陸上幕僚監部人事部長、第二師団長、北部方面総監を歴任。現在、帝京大学教授。
◇西村眞悟(にしむら しんご)
1948年生まれ。
京都大学法学部卒業。
弁護士。衆議院議員。
 
 
 
 
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