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2003年5月号 文藝春秋
葭の髄から・七十三 イラク戦争是か非か
阿川弘之(あがわ ひろゆき)(作家)
 
 つひにイラク戦争が始まつた。此のいくさが今後どうなるかを予測したり、各国首脳のさまざまな発言内容、その裏の裏を読み取つたり、そんな能力も自信も私は持ち合せてゐないけれど、日本の行く末を心配しながら、独りひそかに考へてゐること、願つてゐることはある。
「アメリカとの友好姿勢を絶対崩してはいけない」がその一つ。過去百年を振り返つてみると、海洋国家日本は、同じ海洋海軍国の英米と手を組んでゐた時、国情最も安定し、国運のいちぢるしい隆昌ぶりを見せたのであつて、これと逆の道を選んだ時、待つてゐるのは窮乏と国力の衰退だけであつた。
 三月二十日午後、小泉首相は時機を失せず即座に、アメリカのイラク攻撃支持を表明したが、そのあとの国会では、野党各派のヒステリックな反対質問に気を昂ぶらせてか、テレビで見てゐて論旨やや錯雑重複、明晰さに欠くる感あり、もつと堂々と、もつとはつきり―、陸海空三自衛隊が憲法の金しばりに会つてゐる現状で大したことはやれないにせよ、軍事的にも能ふ限りの支援をする、日米同盟を堅持すると、明言してほしかつた。
 今のやうな場合、それが同盟国として示すべき当然の信義礼節であり、実利の面から露骨に言へば、いざの時助けに来てもらふ為、向ふが危急の際はこちらが助けに行きますといふ意志表示、将来への重要な布石、大事なところで石を一つ打つておくのである。
 国民の間には、ブッシュ政権のやり方に終始反対したフランスとドイツを高く評価し、非常な親近感を抱き、アメリカけしからん、フランス、ドイツ素晴しいと、反米感情を募らせてゐる人が相当多いやうだが、「東京を火の海」にされ、十万人単位の死者を出す事態(充分あり得る)が起つた時、ヨーロッパの「素晴しい」国々が、軍事的に経済的に、救ひの手を差し伸べて来ると思ひ給ふや。まして、北の小島一つ返す気の無いロシアや、依然共産党支配下の中国が、何をしてくれるものか。頼れるのは結局、アメリカしかありはしない。小泉首相が二十日記者団に語つた通り、「米国は『日本への攻撃は米国への攻撃とみなす』とはっきり言っているただ一つの国」なのである。
 むろん、ブッシュのやることに不満や疑問があれば、どしどし言ふがいい。「反米は人畜無害」(岡崎久彦さんの言)、大使館前での反戦デモも御自由。何を叫ぼうと、叫んだだけで逮捕されたりはしない。ただし、友人の立場に立つた真の苦言助言でないと、両国間の友好関係を損ね、サダム・フセインやその一統の思ふ壼にはまるおそれあり、「人畜無害」のはずの言論が、日本にとつて「人畜有害」の結果を招くだらう。第一次大戦の惨禍に懲りて戦争すべてを忌み嫌ひ、ヒトラーの思ふ壺にはまつてあとで臍(ほぞ)を噛んだ、一九三〇年代の欧州情勢を思ひ起してもらひたい。
 大体、フセインとヒトラーと、よく似てませんか。フセインが傾倒してゐたのはスターリンださうだが、国内各地各所に掲げてある彼の大きな写真を、想像上ヒトラーのそれと置き替へ、ガスで虐殺された大勢のクルド人をアウシュビッツのユダヤ人と置き替へて、その相似性をじつくり眺めてゐれば、如何なる絶対平和論者も、イラク独裁政権打倒の戦ひに「反対、反対」ばかり唱へてはゐられなくなりさうな気がする。
 
 考へてゐること、その二は、「民衆の声をみだりに信用する勿れ」である。私どもの世代は、昭和十二年の盧溝橋事件勃発から昭和十六年の対米戦争突入まで(そのあとは言はずもがな)、日本が破滅への道すぢに残して行つた一里塚の一つ一つを、自分の眼でぢかに見てゐる。昭和十二年以降四年の間に起つた(起した)沢山の歴史的出来事のうち、海軍までが七十年の伝統を破つて、米英を敵に廻すに至る最大最悪の素因となつたのは、日独伊三国同盟締結であつた。
 そんなの、戦後戦犯に指名されるナチスかぶれの軍人や政治家どもが、国民の意向なぞ無視して勝手に結んだんだろと、若い人たち、もしさう理解してゐるなら大間違ひ。彼らの背後に、「ドイツドイツと草木もなびく」天の声民の声があつて、ナチスの悪口を正面切つて言ふ学者や官僚は地位と命が危なかつた。
 「独伊ト結ビテ我ニ何ノ利アリヤ。ドイツノ為火中ノ栗ヲ拾ヒテ、結局馬鹿ヲ見ルハ日本ノミト云フ結果トナルべク、三国軍事同盟ガ英米ヲモ対象ニスルトノ意図ナラ、自分ハ職ヲ賭シテモコレヲ阻止スベシ」といふのが、昭和十四年当時海軍大臣の職に在つた米内光政提督の、反対意見の概略だが、此の種の意見こそ、沸き上る民衆の声に遮られ無視された。
 右翼の壮士が連日海軍省へやつて来て、応対に出た副官を起立させ、「昭々耿々(ショウショウコウコウ)天ニ声アリ、英国討タサルヘカラス」と、奉書紙に墨で書いた「御神勅」を恭しく読み上げた上、「貴様ら何故三国同盟に反対する。イギリスとアメリカがそんなに怖いか。海軍の弱虫。貴様らの大和魂は何処についてをる」、灰皿投げつけんばかりの勢ひで罵つてみせるのも、ドイツ偏向の新聞論調、ヒトラー礼讃の圧倒的世間の声を、背後の支へとしてゐた。民の声と称するものがオクターブを上げ過ぎると、それは亡国の大合唱、国の葬送行進曲になるといふ、歴史の教訓ではなからうか。
 話を元へ戻してイラク戦争、世論調査の結果、国民の八十パーセントは此の戦争に反対と、数字が出たと聞くが、右に挙げた理由で、私はこれを、日本人の良識を現はす数字とは思はない。一番望ましいのは、本稿掲載の「文藝春秋」五月号が書店の店頭に並ぶ頃、早くも戦争が終つてゐて、いくさの是非より、フセイン政権崩壊後のイラク復興計画の方が世界中の話題になつてゐることだが、事は果してさううまく運ぶかどうか。
(三月二十三日記)
◇阿川弘之(あがわ ひろゆき)
1920年生まれ。
東京大学文学部卒業。
作家。
 
 
 
 
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