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2003/03/21 読売新聞朝刊
イラク戦争始まる 9・11の恐怖、米国の大義 国際部長・山口勉
 
 国際世論の分裂を押し切って、ついに米国のイラク攻撃が始まった。十二年前の湾岸戦争を思い起こせば、その孤立ぶりは際立っている。湾岸戦争では約三十か国が多国籍軍に加わり、ほとんど世界中が支持を表明した。今回、米国とともに作戦に加わるのは英国など二か国に過ぎない。欧州を中心に世界に反戦デモが広がる中、まさに嵐の開戦である。
 過去半年、対イラク戦争に突き進む米国の姿を見つめて思い起こしたのは、英清教徒文学の傑作、ジョン・バニヤンの「天路歴程」であり、米国人に深く刻印されたピューリタン精神だった。物語の主人公クリスチャンは、神から「あなたは滅びの国に住んでいる」という啓示を受ける。彼は引き止める家族を振り切り、耳を両手で覆って、「永遠の救いを、永遠の救いを」と叫びながら、城門から荒野に飛び出していく。唯一の超大国としての責任を果たそうとする、孤立する米国の姿に重なる。
 ブッシュ政権の事実上の最高実力者、ディック・チェイニー副大統領は、十六日、長い沈黙を破ってテレビの長時間インタビューに登場し「9・11で世界は変わった。その変化が世界は分かっていないのだ」と語った。同時テロの死者は約三千人。真珠湾攻撃の犠牲者が二千三百余人だったことを考えれば、9・11テロが米国民の心に残した傷、深い恐怖感は容易に想像することが出来る。
 事件から一年半、世界ではもはやこの恐怖感を共有する国は少ないかもしれない。この恐怖感から見る時、イラク戦争には確かに大義がある。
 イラクは大量破壊兵器の開発だけではなく、それを使用した長い歴史を持つ。湾岸戦争後もサダム・フセイン大統領の米国に対する怨念(おんねん)は燃えつづけ、蛇のように狡猾(こうかつ)に国連査察をくぐり抜けてきた。そのフセイン大統領がテロリストに大量破壊兵器を提供し、再び米国を攻撃する事態はまさしく米国の悪夢なのだ。
 国際世論の分裂は、イラクの問題を超えて冷戦後の世界が内包する国際政治の様々な問題を浮き彫りにした。チェイニー副大統領は、「国連やNATO(北大西洋条約機構)は二十一世紀の脅威に対処できない」とし、今後はそれぞれの脅威に応じた「自由主義諸国連合」のような合従連衡の時代の到来を示唆する。
 今、米国の最大の課題は戦争を比較的短期に終結することだ。ある人権団体の推定によれば、大統領就任以来の二十四年間、フセイン政権の迫害により最大百万人の犠牲が出ているという。だから、イラク人は米軍を「解放軍」として歓迎するだろうという米国の見方は、あながち的外れとは言えない。ただ戦争が比較的短期間で終わった場合も、イラクの民主化、再建は長く、厳しい道のりだろう。さらに中東の様々な問題に対処する時、国際的協調関係の再確立は焦眉(しょうび)の急となる。
 一方、戦争が長期化し、血みどろの状況に陥った場合、米国内、そして世界の反戦世論はさらに盛り上がり、最終的に米国は孤立主義的傾向を強め、予測もつかない重大な結果を世界と日本にもたらすことになる。その不幸な事態を回避するためにも、世界と日本はその果たすべき責任と役割を自覚すべきである。
 
 
 
 
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