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(3)飽和潜水
 そもそも潜水は、水面から潜り始め、水面に戻ってくるというのが一般的ですが、より深く、より長く潜ろうとする場合には、このような方法では、効率が悪く、しかも危険です。そこで考案されたのが「飽和潜水」という特殊な潜水法です。
 大気圧下で生活する私たちは、常に1気圧の空気を呼吸していますが、とりわけ生命を維持するために必要な酸素(酸素分圧*1)は、そのうちの約0.21気圧に過ぎません。残りのガスは、生命維持に関係しない窒素ガスで、これが空気の成分の約8割(約0.79気圧)を占めています。呼吸を行うと酸素が消費されるので、吐き出す空気中の酸素分圧は、約0.16気圧に減少し、もとの新鮮な空気との間に圧力差(差圧)が生じます。これにより、体内への酸素の取り込みが行われるのです。これに対し窒素ガスは、呼吸によって消費されることがないために、体内(組織や血液中など)に存在する窒素ガスの圧力は外部環境のそれと常に一定の状態が維持されています。潜水の分野では、この状態を「飽和状態」といいます。
 
*1 二種類以上の混合気体によって占められる全圧力のうち、個々の気体が占める圧力を分圧といいます。例えば、1気圧の空気では、窒素分圧が0.79気圧、醸素分圧が0.21気圧で、これらの合計が1気圧の空気ということになります。
 
1. (旧)潜水作業支援母船「かいよう」
 
 
4. 深海潜水用装備
 
5. 海底に向かうSDC
 
6. SDCから出てくるダイバー
 
 素潜り以外の潜水では、通常、圧縮空気を呼吸しますが、この場合、ダイバーは、常に各深度に応じた圧力のガスを呼吸することにより、大気圧下と同じ状態で呼吸ができるのです。例えば、10mでは2気圧の、20mでは3気圧の空気を呼吸することになります。従って、呼吸する空気中の窒素ガスの分圧も高くなるために、体内に存在する窒素ガス分圧との均衡が破られて加圧された窒素ガスが体内に溶解してきます。そして、潜水時間が長くなればなるほど、より多くの窒素が体内に溶け込み、遂には、外部と身体内部の窒素ガスの圧力が均一になるまで溶け込みます。これを「飽和状態になる」と言います。そして、このような状態となった身体条件で潜水する方法を「飽和潜水」といいます。この潜水法を活用すると、“同一深度に何時間または何日間留まろうと、減圧時間(体内に溶け込んだ窒素ガスを排泄する時間)が同じで済む”と言うことから、深くなればなるほど長い減圧時間を要する深海潜水に適しています。
 ところが通常の空気潜水は、「窒素酔い*2」や呼吸抵抗の増加に伴う「換気不良」等の問題から、潜水深度はおおむね40〜50mが限界であると言われます。特に「飽和潜水」では、酸素分圧の増加に伴う「酸素中毒*3」の問題が生じてくるため、おおむね18mを超える深度では、空気は使えません。それ以上深い深度の「飽和潜水」では、「人工的に造られた空気」が使用されます。とりわけ好んで使われるのはヘリウムと酸素の混合ガスで、これを使用することにより、海洋科学技術センターでは、国内初の水深300mの飽和潜水実験に成功しました。そしてさらに深く潜るためには、水素−ヘリウム−酸素を適度に混合した「三種混合ガス」が使用されます。
 
*2 呼吸ガス中の窒素分圧の増加が原因で起こるお酒に酔ったような症状です。個人差はあるものの、かかりやすい人は、水深30m症状が出現するといわれます。はじめの頃は、ほろ酔い加減で気分が爽快となりますが、深度が深くなるにつれて酔いがひどくなり、思考力や判断力が低下して安全性に関して無関心となります。また重篤な場合は、死に至ることもあるといわれています。
*3 あまり聞き慣れない言葉ですが、高分圧の酸素を長時間にわたって吸い続けることにより起こります。これには、急性型と慢性型がありますが潜水で起こるのは前者で、てんかん様の発作を起こします。飽和潜水では、この障害を防ぐため、高圧下では常に決められた酸素分圧を維持しています。
 
(4)飽和潜水による水深300mへの潜水
1)飽和潜水の手順
 ダイバーは、DDC(Deck Decompression Chamber:船上減圧室)と呼ばれる船上の圧力タンクに入り、ヘリウムと酸素の混合ガスにより、25〜30m/h程度のスピードで目標圧(水深300mの場合は、31気圧)まで加圧されます。タンクの中では、通常の生活ができますが、ヘリウムガスの影響で、声がドナルトダックのようになってしまうなど、さまざまな現象が起こります。
 
 加圧終了後は、約1日かけて身体を圧力に馴らします。
 
 実際の海底に行くには、DDCの横の設けられた準備室に移動して潜水の準備に取りかかります。準備ができたら、準備室の上部にドッキングさせたSDC(Submersible Decompression Chamber:水中エレベーター)に3名のダイバー(2名はダイバー、1名はテンダー)を移動させて、それを海底まで降ろします。
 
 海底に到着したらSDCの扉(ハッチ)を開けて2名のダイバーが海中に出て作業をします。この間、テンダーはSDC内に留まり、ダイバーをサポートします。海底での作業が終わったダイバーは、SDCに戻り、ハッチを閉めて船上に引き上げられ、再びドッキングしたDDCに戻ります。(3)と(4)を繰り返すことにより、31気圧のまま、ダイバーは、海中と船上とを行き来するので、減圧症に罹る危険はありません。
 
 
 そして、一連の作業が終了したら、徐々にDDC内の圧力を下げ(減圧し)、約12日間かけて大気圧の状態に戻ります。
 
 
2)飽和潜水で観察される身体の変化
 
 飽和潜水は、高圧のヘリウムガスを呼吸するばかりか、狭隘な閉鎖環境での長期間の生活を強いられるため、生体にはさまざまな変化が起こります。300mの飽和潜水実験では、被験者全員に不感蒸泄*1の減少、尿量の増加(利尿)、平衡感覚の異常、高圧神経症候群*2、換気能力の低下などが観察されます。また、一部の被験者には、下痢や肝機能障害の指標となる血清トランスアミナーゼ活性値*3の上昇などが観察されますが、この両者は、高圧やヘリウムガスの影響ではなく、むしろ閉鎖環境や被験者同士の対人関係が大きな原因となっていることが判明しました。
 
*1 呼吸や皮膚から失われる目に見えない水分の損失量で、成人の大気圧状態における1日量は、約600〜1000mlです。
*2 おおむね150m以上に加圧されると出現する現象で、吐き気や眩暈(めまい)、振戦(手の震え)、異常脳波の出現などが主な症状です。この症状は、加圧速度を速めたり、加圧(潜水)深度が大きくなると、重くなりますが、その原因については未だはっきりしていません。なお、この現象は、加圧終了後、おそくとも2〜3日以内で消失し、その後は、出現しないのが特徴です。
*3 臨床では、肝機能障害を知るための血液の検査項目として、S−GPTやS−GOTの呼び名で知られています。通常、これらは、正常範囲内でS−GPT>S−GOTの関係を示しますが、飽和潜水実験では、一部の者に両者に異常高値が観察されることがあり、その時は、必ずS−GPT>S−GOTの関係を示します。度重なる研究により、この原因については、心理的ストレスであることが判明しました。
 
3)海底の様子
 海底近くの水温は、約8℃で、とても冷たいのですが、ダイバーには潜水服内に約40℃の温水が供給されているので寒くはありません。周囲は、真っ暗でライトがあたる範囲だけが見える幻想的な世界です。また、300mの海底には多くの生物がいて、時々、ダイバーの足元をタカアシガニやツノザメなどが通過して行きます。最近では水族館などで深海の生物を観ることができますが、自然のままの状態で観ることができるのは、実際に潜ったダイバーだけです。
 







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