協会との縁で学ぶ
東京大学名誉教授
文化功労者
APDA理事
川野重任
協会はその名のとおり、対象地域は“アジア”、問題は“人口と開発”と言う、まさに日本の当面する焦点の国際問題を課題とする。小さな組織、小さな事務所で20年、よくやってきたなと言うのが率直なところ、端的な感想である。
単に問題が複雑、多岐にわたるだけでない。それを課題とする国会議員代表者会議の頻繁な設営とそれへの参加、政府委託を受けての人口問題、農業問題等についての数多くの海外調査、それについての迅速かつ内容豊かな報告書の作成と刊行、すべてこれ事務局を含めて関係者の集中的な努力・協力の結果に他ならない。
その間、終始私も参加させてもらったが、その一つは農水省委託の海外農業調査への参加であり、それを受けてのアジア国会議員代表者会議での報告などである。
政府委託調査への参加は終始主査として昭和59年以来18回。その中でもインドネシア、中国、ネパールの場合には現地調査の機会も得た。国際会議に関しても何度か発表の機会があり、特にハノイ、マニラの場合には戦前・戦後比較の現地調査的な意味でも貴重な機会であった。
私とアジアとの関係は戦前の台湾、中国、旧仏印(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)のコメを中心とした農業研究、土地制度の研究に始まるが、戦後の前述のような機会はおよそ革命とは何か、植民地制度とは何かというような基本的重要問題を我と我が目で直に感知させる機会が与えられたと言う意味で真に得がたい機会であったと思う。
アメリカの農業経済学者T.W.シュルツは「人間は努力の結果が報いられないとなると、ついには努力そのものを止める」と言ったが、まさにその通り、その逆が盲従猫のような群集が一度その力を覚知するにいたるや一挙暴虎のごとく立ち上がるというわけである。
その二面性を私はいたるところみた思いだが、その先頭に立つ人々には時に国を超えて民族を超えての畏敬の念すら覚えた。
しかし、その拓かれた新たな道は今なお坦々たる進歩・発展の道では必ずしもなく、多くの場合、戦いの道でもあった。従って、我と我が道、我が経験をもととしての調査研究、助言の位置付けについても秘かにその適用可能性について考えさせられること一再ならずであった。
しかし、それにしても世紀の歴史的転換を自ら経験し、越えてきたのが大部分のアジアの人々であり、その先頭に立つ人々を対象としての国際会議であり、調査研究である。協力の使命、役割は重く、過去20年の足跡はおそらく地下水のごとく、それら国々の人々の心の底に奥深く浸透し、かつ広がっているのではないかと思う。
関連して、いまや日本自体がそれらの立場からして調査研究の対象として関心の俎上に上がりつつあることもまた事実である。明治開国、明治維新以来の発展の経過、経験などということではない。近年俄かに日本自体が対応を迫られるに至った少子化問題、教育問題、経済成長率の低下、長期停滞問題などいわば「日本問題」の難問題がそれである。
昭和61年の出版『在日留学生の学習と生活条件に関する研究――人的能力開発の課題に即して』(総合研究開発機構助成)の調査刊行についても、事務局として協会に非常にお世話頂いたが、その研究も「日本に学ぶ」留学生を対象としてのそれであった。しかし、その後わずか20年足らずで事態は著しく変わった。来日留学生の数は7万人を超え、宿舎条件、居住条件もそれなりに整備されてきたと見うるが、しかし留学生の位置付けそのものは著しく変わってきたといわねばならないと私は思っている。かつては「日本に学び、日本を学ぶ留学生」だったが、いまや「日本が学ぶ留学生」でなければならなくなってきたということである。いうまでもなく前述の「日本問題」の登場がその背景である。
口を極めての留学生達による日本批判。日本への懸念表明は拙稿「日本のようになりたくない」「日本の若者とは話が通じない」(「興南」第46・52号)に詳しいが、要するに母国の発展を念願、日本に学ぶべく来日した留学生達が、特に日本の若者達の無思想、無気力ぶりに絶望、いわば好意的警告を発するにいたっているということである。
そしてその背景として、私は協会誌「人口と開発(74号)」に「恋心を知らない世代の到来を憂える」と寄稿させていただいた。戦後の無定見な国・公立学校、特に中高等学校段階での男女共学制――実態は踵を接し、肌を接し合わせさせての混合、突き混ぜ政策、そのくせ私学の別学制を憲法違反などといいながら、国は多額の補助金を出し、父兄は争って高い授業料を払って、子弟を私学に送ろうとしている。なんたる矛盾――の強制に根因ありというのが私見だが、世論未だしの感である。人口問題は単なる数だけの問題ではないと言うことをこの協会への参加を通じて、改めて痛感させられている。
インド人口・開発議員連盟(IAPPD)事務局長
マンモハン・シャルマ
人口増加が問題であるということは世界中で、特にアジアの開発途上国において実感されていました。
この憂慮すべき事態に焦点を当てUNFPAが1978年にコロンボで会議を開催しました。
このUNFPAは、UNFPAが主催した1978年のコロンボ会議以降、人口抑制と家族の福利のためにアジアの各国政府と働く必要性を感じ、さらにNGO、特に選挙で選ばれた議員の代表によってその活動を支援してもらう必要があると考えました。
アジアのすべての地域で人口が増えている中で、日本だけは違った状況にありました。低出生と低死亡によりその人口増加は劇的に減少を始めていたのです。これは保健制度と国民の認識の改善によるものです。この人口増加の劇的な減少は日本の指導者の憂慮から始まりました。その一人が岸信介元首相でありこの問題に真剣に取り組むと同時に、議員をこの活動に組み込み、そしてその議員を通じ日本の大衆に来るべき事態についての警告を発することの必要性を感じていたのです。この考え方のなかから人口問題に取り組む方法とプログラムの提示を行う、国際人口問題議員懇談会が作り出されることになりました。
JPFPの活動を続けていく中で、その会員である国会議員の中に、JPFPの活動を支援し、人々の福祉につながるさまざまな分野の調査・研究を通じ政府を支援する組織を設立する必要が感じられ福田赳夫・日本国元首相の支援のもと1982年2月に財団法人アジア人口・開発協会(APDA)が設立されたのです。APDAの活動は調査・研究・報告を作る機関として活動に加え、アジアの国会議員や専門家を組織し、相互に交流を持たせ、各国における彼らの経験を互いに学ぶための重要な活動を行ってまいりました。設立以来、現在にいたるまで、多年にわたってAPDAはこのような会議を毎年2月か3月に各国で実施し、この会議は各国の国会議員に各国の社会で抱える社会的に重要な問題についての相互理解の場を提供し、時にはその解決法を提示してきたのです。
私自身、APDAの草創期から関係をもてたことを大変幸福に思っています。ここで故田中龍夫先生(元文部大臣・元通商産業大臣)と、故佐藤隆先生(元農林水産大臣)の指導力、政治家としての志とそのダイナミズムを思い出します。このお二人の指導者、特に佐藤先生はAPDAを国際的な舞台に引き上げるために懸命の努力をされました。ただ残念だったことは佐藤先生がAPDAの今日の成長を見ることなくなくなられたことです。佐藤先生の逝去に伴い、すべての責任は佐藤先生とともにAPDAを創設され、佐藤先生と密接に働かれていた広瀬次雄氏(現在常務理事)の肩にかかることになりました。広瀬氏はAPDAが成長する上で非常に重要な役割を果たされたのです。前田福三郎氏や桜井新先生の協力の下、広瀬氏がそのスタッフとともに懸命の努力をした結果、APDAを空の高みにまで押し上げたのです。いまAPDAは十代を終えましたが、ますます若々しく、そしてますます成熟してきています。
APDAがその創生期から年次会議を通して専門家と国会議員との交流を図ってこられたことは人類が直面するこの問題を考える際にもっと注目されなければならないと思います。
私は、APDAの創設期からの楽しい思い出を数多く覚えています。特に福田赳夫元総理や故佐藤隆先生とご一緒できた経験は私の人生にかかわるような出来事でした。また現在の理事長、中山太郎元外務大臣とその同僚である桜井新先生、谷津義男先生、清水嘉与子先生、南野知惠子先生は、人々を情愛に満ちた好意で包み、まるで家族であるかのように扱ってくださいます。
APDAは私にとって、信頼すべき存在であり、誇りであります。日本政府の厚生省、農林水産省、労働省との密接な関係の下で実施した調査や研究は日本政府に現場を見て直接得た情報を提示すると同時に、アジア諸国の国会議員に対する教育にも役立ちました。
APDA会議はアジアや他の地域からきた国会議員に各国の社会的な課題を討議する場を与えたのみならず、政治的な課題を討議する場も与えたのです。1983年に中国北京で会議が開催された際に韓国の議員が招待されていましたが、その参加に対し中国政府から留保がかかりました。APDA、福田先生や佐藤先生の指導力によってこの問題が解決し韓国の議員がこの会議に参加したばかりでなく、これを契機として中国と韓国の間でその関係改善を模索する外交交渉が始まったのです。
私は故サット・ポール・ミッタール上院議員、要としての役割を果たされた佐藤隆先生、そしてプラソップ先生の友情と信頼そしてリーダシップを覚えています。ミッタール上院議員は私の父親のような存在でしたが、佐藤先生と非常によい、自由で率直に信頼し合える関係であり、このお二人はAPDA活動の改善のために自由かつ率直に折々に触れ検討を続けられました。ミッタール先生と佐藤先生は夢を描いておられたのです。
サット・ポール・ミッタール上院議員はIAPPDを設立され、佐藤先生とともにUNFPAのラファエル・サラス事務局長の支援のもと人口問題に国会議員を動員するために働かれました。
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図 活動の4本柱としてよく知られていた。
APDAは各国でさまざまな調査研究を行っています。私は、大野昭彦青山学院大学教授と楠本修(APDA事務局長補佐・主任研究員)さんのチームで実施した農業、労働管理、そしてつい最近ではIT関連の調査が大変印象に残っています。これらの調査団によって提出されたAPDAの報告書は各国の正確な状況を理解するための大きなステップとなるものです。
APDAによって実施された国会議員の派遣・受け入れ事業は各国における人口問題の進展を促す最善の手段のひとつです。私は1993年にJPFP−APDAのインド派遣でインドの曲に合わせて日本の先生方がダンスをされたのを覚えています。この派遣は単に各国の人口関連問題にたいする啓発を促すばかりでなく、政治的な関係の改善にも役立ちました。APDAを通し、佐藤隆先生、サット・ポール・ミッタール(インド)、ラーマ・オスマン(マレーシア)、ランジット・アタパト(スリランカ)、フー・リー・リャン(中国)が先駆的指導者として密接に弛まず活動したことで国会議員活動が前進したのです。
APDAはまた人口と開発に関するアジア議員フォーラム(AFPPD)、JPFPとも密接に活動してきました。APDAはまたAFPPDおよびJPFPの事務局として重要な役割を果たしております。またUNFPAへの各省庁からの資金拠出におけるAPDAのご尽力はよく知られております。またIPPFとも密接な活動をいたしております。
全能の神がAPDAの指導力をより強化し、アジアのさまざまな問題を解決に向けますように。
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