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20years APDAの思い出 02
アプダと佐藤隆先生と私
衆議院議員
財団法人アジア人口・開発協会理事
鹿野道彦
 
 本年2月、財団法人アジア人口・開発協会(アプダ)が設立20周年を迎えられました。アプダとの思い出をたどると、設立に多大な御尽力をなされた故佐藤隆衆議院議員との関係を抜きにしては語れないということです。
 私が人口問題に取り組むようになったきっかけは、元農林水産大臣の佐藤隆先生でありました。
 昭和51年12月に衆議院議員に初当選してから佐藤隆先生には、格別なるご指導を頂いていました。そうした中、佐藤隆先生は、機会あるごとに、世界の人口問題の現状と将来についてお話をなされて、その地球的問題の解決のために、日本の国会議員が取り組む必要性を理路整然と説明されるのです。佐藤隆先生は、世界人口問題の対策に正に情熱を傾けて精力的に活動されていたのです。
 佐藤隆先生に「人口問題について一緒に取り組んでいこう」と誘われました。実は、その頃、姉が国連人口活動基金(現在の国連人口基金)に勤務しており、人口問題には少しは関心があったので、その機会に、世界人口問題への取り組みを議員活動の一つにしようという考えに立ちました。先ず、国際人口問題議員懇談会に入会し、人口問題の現状と各国の諸施策から勉強し始めました。更に、そうした世界的な問題の根本的な解決のために、どのようなことをすることが一番良いのかを、自問し、懇談会の方々と議論している内に、段々と関心が高まってきました。人口問題と環境問題との関連について佐藤隆先生は、「21世紀における世界の大きなテーマは環境問題だ。しかし、環境問題は人口問題を解決しない限りは解決出来ない」と常に強調されていたのです。今、佐藤隆先生の先見性に改めて敬意を表します。
 佐藤隆先生は、元総理岸信介氏が会長として創設された国際人口問題議員懇談会(岸先生がご逝去の後は元総理福田赳夫氏が会長にご就任されました。現在の会長は元外務大臣中山太郎氏です。)の幹事長で、同懇談会を実質的に切り回していました。(この議員懇談会がモデルとなって、世界各国で人口と開発に関する議員グループが結成されるようになりました。その総数は今日およそ100になったと伺い、大変喜んでいます。)
 振り返ってみるに、日本の人口家族計画分野に於ける国際協力が始まったのは、岸会長、福田会長の下で幹事長を務めておられた佐藤先生の活躍の成果です。1969年に国際家族計画連盟(IPPF)、1971年に国連人口基金(UNFPA)への拠出が始まりました。これは国際人口問題議員懇談会が政府に強く要求して、政府がその必要性を十分に認識・理解したからです。予算の時期などに、佐藤隆先生を中心にした議員懇のメンバーと一緒に、世界の人口問題対策を支援するための国際協力の強化の必要性について、政府に要請を行ったことが度々でした。
 今日、日本の人口分野での国際協力は飛躍的に伸び、国際家族計画連盟(IPPF)、国連人口基金(UNFPA)への拠出金額は世界第一であるということです。
 私のこれまでの議員懇の活動の中で特に印象に残っているが、アフリカの人口問題事情視察です。1991年7月、国連人口基金や国際家族計画連盟のスタッフと一緒にアフリカの人口問題の視察に出掛けました。総数10名の超党派の衆参議員がジンバブエ、ケニヤ、ガーナの三ヶ国を回り、経済発展が思うようにならない中で、毎年驚異的に増える人口に適切な対応が出来ない現状をこの目で見ました。アフリカの開発の苦悩を肌で感じました。各国政府首脳それに専門家と人口問題についての対策について意見交換の中で、アフリカの問題についての認識を新たにし、より関心を持つようになりました。帰国後、アフリカの経済開発と人口問題の対策に、大戦後の人口増の中で経済発展をした日本の経験が活かせるのでないかと思うようになり、アフリカの人口問題に対する国際協力のあり方を問題提起して参りました。
 国際人口問題議員懇談会の事務局を務めているアプダの理事に就任したのも、佐藤隆先生より「理事になってはいかが」というお話があったからです。喜んで引き受けさせて頂きました。以来、私は、アプダの活動に参加してきました。
 アプダは、世界の人口問題に取り組む超党派の議員集団の活動を支える下働きをすると共に、人口と開発に焦点を絞った様々なユニークな調査活動もされており、日本の人口問題の国際協力に大きな功績を残しています。アプダのこれまでの活動は、国民に、日本の人口問題の国際協力の意義を理解してもらう上でも、大きな役割を果たしていると思います。
 ここにアプダの20年の歴史を振り返り、田中龍夫先生、佐藤隆先生、前田福三郎氏、中山太郎先生の歴代の理事長それに関係者の皆さんの献身的なご尽力に感謝を申し上げる共に、今後も、中山太郎会長を中心に、アプダの活動の推進に努力して参りたいと考えております。
 
財団法人アジア人口・開発協会20周年の思い出
参議院議員
財団法人アジア人口・開発協会理事
桜井 新
 
 財団法人アジア人口・開発協会(APDA)設立20周年おめでとうございます。この20年間にAPDAが行ってきた事業は、非常に幅広く、また世界的に見ても大きな活動であったと思っております。APDAが中山太郎理事長のもと活発に活動されていることは本当にうれしく、また感謝にたえません。
 私はAPDAの創立者である佐藤隆先生と郷里が同じである関係で、APDA設立以前から佐藤先生にご厚誼を頂き、その活動を尊敬の念を持って見てまいりました。
 APDAは「人口と開発に関するアジア議員フォーラム(AFPPD)」の活動母体として1981年に中国・北京で開始された「人口と開発に関するアジア国会議員会議(ACPPD)」の場で参加者の強い要請を受け、佐藤先生が獅子奮迅の働きをされて設立されたものです。福田赳夫元首相を団長とする日本国国会議員団の一員として、私自身もその場でこの劇的な場面を目にしたのです。
 この時、中国とインドの間で国境紛争が起こり、中国側がインド代表団の入国を認めないという措置を打ち出し、この会議そのもの成り立たなくなるかと心配されました。緊迫した極めて厳しい状況のなかで、佐藤先生が福田先生の意を受け中国とインドに飛び、“人口と開発の問題は争いを作る問題ではなく、アジアの平和を作る活動なのだから”と説得し、奇跡的とも言える成功を収めたと聞いております。この会議にはAFPPDのその後の発展に大きく貢献されたインドのミッタール議員、タイのプラソップ議員も参加され、佐藤先生と共にAFPPDの発起人として中心的な役割を果たされました。
 これが、APDAとAFPPDの設立の端緒であったと思っております。その後、APDAはAFPPDの事務局として、さらに国際人口問題議員懇談会(JPFP)の事務局として積極的な活動を行うのみならず、調査活動、出版物の刊行など大きな活動を繰り広げてきました。
 私とAPDAの関係で是非ここで申し述べておかなければならないことがあります。佐藤先生が志半ばで倒れられたとき、私にAFPPDの面倒を見てくれと頼まれました。私自身、それまでは国土基盤整備や内水面漁業の分野で活動しておりましたが、人口問題はまったくわかりませんでした。しかし、福田先生、佐藤先生のもとで指導を受け、人口問題にかかわっていくうちに、これこそまさに人類の平和を築きあげる基礎となる活動であるということが十分わかり、日本の国際協力も、軍事的な意味での安全保障に対する貢献をしないのだから、この分野で主導権を握りアジアの国々の平和を、そして世界の平和を築きあげる努力をすることで、日本の国際社会における名誉も築いていくべきだという確信を持つにいたりました。
 しかしながら、なにぶん素人であり、迷いに迷っておりましたら、福田先生から“桜井君、佐藤先生の遺言だと思って引き受けてはどうだ”、といわれました。その後、1993年のAFPPDクアラルンプール大会で議長に選出され、活動を開始いたしました。
 その後、佐藤先生に続き、日本における国会議員の人口問題の中心となってきた清和会を率いておられた安部晋太郎先生がお亡くなりになり、また国際的な人口と開発に関する議員活動の大きな後ろ盾となられていた福田赳夫元総理も相次いで逝去され、日本の人口問題に関する国会議員活動は大きな転換点を迎えました。ここで、国際的な人口問題に関する国会議員活動に対する政治的な日本のイニシアティブを失ってはならないという決意のもと、福田派の実力者で外務大臣を務められた医学博士の中山太郎先生にお願いし、国際人口問題議員懇談会の会長ならびにAPDAの理事長をお引き受けいただきました。その中山会長の指導のもと、私がアジアの国会議員活動を担当する形となったのです。
 私がAFPPD議長に就任したそのすぐ後から国際的な人口と開発にかかわる活動が急にその動きを増してきました。1994年には今後25年間の人口政策を決める、「国際人口開発会議(ICPD)」が国連主催のもとエジプト・カイロで開かれ、これにあわせて、AFPPDが世界に呼びかけて、国際議員会議を開催いたしました。私は、ここで、この会議を佐藤先生の生涯の意思を実現に移す会議とすべきであると考え、人口問題と開発の問題と一貫して扱うことで、“努力を続けてもなお増えつづける人口をいかに扶養していったらよいのか”、“世界の中で途上国の人も先進国の人も幸せに生きていくにはどうしたらよいのか”を考える機会とし、それを国際社会に訴えかけることとしました。
 その後、「世界社会開発サミット(WSSD)」、「第4回世界女性会議(FWCW)」、国連食糧農業機関(FAO)の「世界食料サミット(WFS)」などの政府間会議に合わせて国会議員会議を人口の視点から開催し、各政府間会議に強力な申し入れをしてきました。
 これらの一連の活動は徐々にその影響力を増し、私達の主張が国際社会に反映されはじめました。1999年にはオランダのハーグで開かれました「国際人口開発会議5年評価のための国会議員会議(IFP)」の宣言が、同年開かれた、国連人口特別総会の採択文書に反映されました。これは私達の主張が国際社会に認められた大きな成果であろうかと思います。これら一連の活動は、APDAの献身的な協力なくしては絶対に実現不可能であったことです。深く感謝申し上げます。
 人口と持続可能な開発の問題は人類がこの地球で生きていく上で最も重要な問題です。現在国際的な条約や合意が目先の利益だけに基づいて作られています。しかし、私達が子供達のことを考え、この世界のことを考えるならば、もっと調和的なルールを作るべきだろうと思います。
 人口問題に対する国会議員活動は、多くの声なき国の声を引き出し、多くの苦しんでいる人たちの声を聞く場所でもあります。日本が、国際社会の名誉ある一員としてこの声をくみ上げ、世界に発信することで、世界の平和が作り上げられるのだと確信しています。私も再度、政界に復帰し、この人口問題に取り組めることを光栄に思っております。
 今、APDAの活動はますます重要性をましております。APDAの活動は日本にとっても、アジアにとっても絶対に不可欠な活動です。少ない人数で、無理に無理を重ね活動されておりますが、これからより一層大きくその活動を広げられるためにも、理事の一人としてできる限りの協力をしていきたいと思います。APDAとAFPPDの創設者である佐藤先生が残された言葉があります。「ただ飢えて死ぬためだけに生まれてくる子供があってはならない」、これはAFPPDのそしてAPDAの底流に流れている言葉であり、精神であろうかと思います。
 中山太郎理事長のもと20周年を迎えられ、今後益々その活動を大きく展開されるよう強く念願いたしております。
 
APDA20周年に思う
―佐藤隆先生とW.ドレイパー―
(財)家族計画国際協力財団(JOICFP)理事長
財団法人アジア人口・開発協会理事
黒田俊夫
 
 財団法人アジア人口・開発協会(APDA)20周年の画期的な展開が、日本の国際的な活動として画期的なものであることについては、残念ながら日本では案外評価されていないように思われる。
 国会議員の人口問題への理解、特に世界人口の生存の可能性といった人類史上初めての危機についての認識は、アジアの国会議員たちによって始まったといってもよいであろう。しかも、注目すべきはアジアの国会議員フォーラムの活動はアフリカの国会議員の組織化、アジア議員フォーラムとの共同会議の開催など目覚しい人類史的展開に大きく貢献している。
 しかしこのような画期的な国際活動の歴史の中で、私が最も強い関心を持ったのは、佐藤隆先生の驚嘆すべき情熱と行動力である。それはAPDA設立(1982年)の夜明けとも言うべき1981年の北京会議の開催実現に貢献されたのは佐藤先生であった。
 もし、佐藤先生の「頑として後へは退かぬ」精神に陰りがあったとしたら、APDAは成立せず、「人口と開発に関するアジア議員フォーラム(AFPPD)」も有名無実化したかもしれない。
 1960年代、1970年代、中国では政治、社会、経済の全ての分野において大変革が進行していた。1966〜1976の文化大革命、1978年の市場主義の導入による経済革新、1979年の「夫婦あたり一人っ子政策」の人口革命という狂乱怒涛の時代のさなかにあった。
 他方インドは中国との国境戦争のさなかにあり、インドの国会議員が中国の首都北京の会議に参加して人口問題を討議するような平和的な環境ではなかった。インドの国会議員の全面的不参加が伝えられ、中国側および日本側の主催者はその打開策に苦慮することになった。アジアの中国に次ぐ超大国インドの代表の不参加は会議の成果に大きく影を落とすことは言うまでもない。
 この会議の開催にあたっては、中国側の多大の援助・協力を得たものであり、突如中止といった事態はなんとしても避けなければならなかった。この窮地を打開する重大な任務を佐藤隆先生が担当されることとなった。
 北京、東京、ニューデリーを何回となく訪問され、打開の可能性の少ないこの窮地からの脱出を佐藤隆先生は見事達成された。当時筆者はその苦心談を佐藤先生からお聞きしたが、人口問題に対する情熱と献身的な努力、中国政府の至れり尽せりの対応に対する感謝の念、インド側に対する誠意と現実の重要性についての心のこもった説得等々からついにインドの参加が実現したのである。
 私はこの佐藤隆先生の驚くべき情熱と行動力を振り返るとき、いつもアメリカのW.Draperさんを思い起こす。学者でもなく、軍人でもなく、財界人であったDraper Jr.さんの世界の人口問題への献身ぶりに比較的接する機会を持った私には、佐藤先生のご活躍はまさしくアメリカのそして世界の人口問題に対するDraperさんの情熱に通じると強く思われたのである。
 世界の政府代表団による第1回世界人口会議がルーマニアのブカレストで開催されたのは1974年の8月である。激烈な人口論争がようやく終わりを告げたある日、インターコンチネンタルホテルの食堂の一角にDraperさんが休養されているのを見かけた。
 私は距離も離れていたので話しかけるのを躊躇したが、その時のDraperさんの淋しげな風貌が忘れられない。Draperさんは同年12月に他界され、世界の異例的な人口問題の先導者を失った。
 そして日本のDraperである佐藤先生は1991年4月多忙な「人口と開発に関するアジア国会議員フォーラム」の議長とAPDAの理事長としての大活躍のなかで突如他界された。私達は日本のDraperさんも失ったのである。
 アジアの人口と開発に関する国会議員活動を考えるときにこの佐藤隆先生の貢献を忘れることはできない。APDAが創立者の遺志をついでこれからも大きく発展していくことを確信している。







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