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〈考察〉
 今回、本症例を経験するに当たり、改めて考えさせられた点がいくつかあり、あくまで私見として述べさせて頂きたい。
i. 点滴は延命治療か?
 はっきり言って、延命治療であろう。
 老人が徐々に食べられなくなる過程で、我々は「病院」という性質上、まずは点滴で水分補給を行う。それが一時的なもので再び食べられるようになればよいのだが、やがてその頻度が増え、全く食べられなくなった時、全身状態を含めて総合的にターミナルと判断される。ここで当然、経管栄養やIVHも検討されるわけだが、老衰に限って言えば、これらは明らかに延命治療である。
 では、末梢からの点滴はどうか?
 それまで点滴を行ってきてしまったという状況から、我々も家族も暗黙の了解のもとに500ml〜1000ml程度の最小限の点滴を続けることが多い。家族と話し合う場合でも、点滴だけは希望されることがほとんどである。そこには、今までの習慣もあるし、医者として何もしなくていいのだろうか、という罪悪感めいたものが無意識的に働いてもいるだろう。
 しかし本症例においては、経口摂取不能となる前に、家族から点滴拒否の意思表示がなされた。我々としても初めての経験であり、最初は少し戸惑ったが、老人のターミナルを見直す貴重なきっかけを与えてくれた。今後、病院といえども在宅同様、点滴も一切しない、本当に自然な看取りも要求されるのだ、と改めて認識させられたのである。
 しかし、本症例はそれだけでは終わらない。
ii. 医療はサービス業か?
 最近、医療はサービス業と位置付けられつつあり、現場の医療提供者側も今までの一方的な強者と弱者の関係から、患者・家族と同等の立場で臨む意識改革が求められている。確かに、広い意味で医療はサービス業ではあるが、人の命に関わる専門家集団による特殊なサービスである。すなわち、患者・家族の望むところをただ鵜呑みにして、それだけを叶えてあげれば良い訳ではない。それではむしろ、患者側のほうが強者になってしまう危険をもはらんでいる。
 本症例においてはどうだろう。家族の望み通りに点滴も一切行わず、ただ様子を見ているべきだったか?
 違うであろう。
 高血糖による昏睡だけならそれも良かろう。しかし、患者はけいれん発作を起こし、放置すればけいれん重積状態で、のたうち、苦しみながら死んでいくことが予測された。もし、自分の親が、子供が、と思うと私は我慢できなかった。
 では、抗けいれん剤のみをひたすら使って、けいれんだけ抑え込めば良かったのか?
 それも違うであろう。
 原因から察するに、それだけでけいれんを予防するのは困難であったろうし、苦しむ患者の顔・様々な副作用によるドタバタ劇・募る家族の不安等が私の脳裏をよぎったからである。
iii. チーム医療について
 医療、特に老人医療に関しては、医者・看護婦のみならず、介護職・リハビリスタッフ・ソーシャルワーカー等、全ての職種がコミュニケーションをとり、患者に関わるチーム医療がなされるべきであろう。ここで忘れていけないのは、患者本人と家族もそのチームの一員だ、ということである。この中で本人の意思が最優先されることは言うまでもないが、老人のターミナル期に関して言えば、痴呆や意識障害等により本人の意思確認は難しく、専らその家族の希望のほうが重要視されやすい。しかし、同じチームの一員という立場からすれば、我々医療提供者側の意向も同じように重要視されてまた然り、と思うのである。
 そういった意味では、本症例は理想に近いチーム医療がなされたと言えるであろう。
 当初、家族の希望と我々の意向の間には大きな隔たりがあった。しかし、詰まるところの思いは同じであり、ただその方法に食い違いがあったということであって、密に対話することでその距離は次第に縮まっていった。そして最終的には、本人は穏やかな最期を迎え、家族は満足し、我々もある種の達成感のようなものを味わうことができた。全てが一つにまとまったのである。
iv. インフォームド・コンセントの難しさについて
 昨今、インフォームド・コンセント(以下I.C.)という言葉が世間をにぎわせている。「説明と同意」と訳されている。これは裁判社会であるアメリカの医療界での訴訟防止から始まっていることはよく知られていることである。ただ単なる形だけの説明と同意だけでは不十分なことが多い。相手に本当に分かってもらうように説明した上での同意が要求されるわけだが、これも実際には難しいことが多い。
 本症例において、いわゆるI.C.が成立していたかというと疑問と言わざるを得ない。
 少なくとも糖尿病性昏睡を発症した治療開始当初、家族は治療方針に一応の同意はしていたものの納得はしていなかった。むしろ拒否していた位である。それでも我々は自らの方針を貫き通した部分もあるから、一見、押し付けがましい医療であったかもしれない。
 それはあらゆる情報の提供や十分な説明がなされていないからだ、と言われる方もいるだろう。我々としても、十分説明したつもりでいたが家族には伝わっていなかったかもしれないし、あらゆる情報を提供したわけではない。
 そもそも、いくら情報化社会とはいえ、世界中に散らばる全ての医療情報を常に把握し、それら全てを提供することは不可能であり、この時点で既にI.C.というもの自体あり得ないということになりはしないか。仮にそれができたとしても、医学知識のない患者や家族にとっては、ただ混乱を招くだけではないだろうか。
 ここで必要なのは、患者本人にとって「ベスト」ではなく「最もベター」な選択肢は何か、ということを患者・家族も含めたチーム一丸となって悩み、考えることであり、ただ選択肢を羅列して家族に決定させるのではなく、我々が悩める家族を時にはある方向へ導いてあげることだ、と私は思っている。そうすることで、本症例も最終的にハッピーエンドを迎えられたのだと確信している。
 
〈終わりに〉
取りとめのない話を幾つか述べてきたが詰まるところは、患者本人がハッピーか否かを考えることが一番であり、こと老人のターミナルに至っては、いかに安らかに、いかに美しく逝かせてあげるかが、我々老年科医に課せられた一つの使命なのだと私は思っているのである。
 
【病院を利用者にとっての信頼と感謝の場所に】
 以上3つの上川病院における痴呆患者のケースを紹介した。執筆者は1. 吉岡あき子、2.3 丸茂光二だが、吉岡充も含め皆この治療のチームの一員であった。
 この3例は当院での痴呆のお年よりのターミナルの実践の歴史の進化の1部を示しているように思われる。家族のターミナルの知識や意識の変化もそこには同時に見られる。
 勿論、情況においては現在でも第1例と同様の治療が行われる可能性もあるわけである。
 いくつかの大切なことをコメントしたい
1. 本人の意思決定が一番大切なことは言うまでもない。
 判断能力のあるうちにこれがなされたり、リビングウィルも大切であろう。
 ちゃんとした書式のものでなくても、かかりつけ医へのメッセージをカルテに記録されているものでも十分であろう。できれば家族同席の時になされるのがよいであろう。
 私たちはかつて痴呆が始まって判断能力が不十分なのに署名されたリビングウィルに対し家族と一緒に戸惑った経験がある。
2. 終わりよければすべてよし、だけではない
 当たり前のことであるが、日常のよいケアが一番大切なことである。
 なぜ起き続けることが大事なのか、なぜ食べつづけることが大切なのか、
 本当に寝たきりにならなければならない時間が少なく、惨めな時間を少なくすることができることを私たちは経験的に知っている。また、食べることは免疫能力を高めることは最近医学的にも実証されている。
 その上で食べられなくなったとき、どうするか。
3. 家族も治療やケアのチームの一員となって一緒に考えていくしかない。
 そのとき、医師というプロフェッショナルフリーダムが親切に行使されることもあるであろう。
 自分の親だったらどうするのだろうかというのはひとつの説明にはなるが、実際、自分の親の時は信頼できる医師の判断に任せたいという気持ちもある。
 それくらい、微妙なケースもあるわけである。
 
 ターミナルに教科書はない。一例一例に力を尽くす。その積み重ねの向こうに何かが見えてくるのではないだろうか。死との対峙を経て、生はより意味のあるものになる。病院とは、利用者にとっては、悔しさの残る場所ではなく、信頼と感謝の場所であり、そこで働く者にとっては、誇りと自己実現の場所でありたい。
 最後に、この3つの症例に関わったすべてのスタッフに感謝の意を表したい。







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