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第2章 対象地域の文化的特性の把握
1 対象地域の概況
(1)位置・規模・自然
 対象地域とする茨城県西部特定地域は、関東平野北部中程、東京から70〜80km圏にあり、3つの市と、3つの郡にまたがる8町村からなる。
 東に水戸市が接し、北西に小山都市圏と接し、南につくば研究学園都市を擁するつくば市と接する。対象地域の東半分は、八溝山系に連なる鶏足山地の南端に含まれ、茨城県の名峰筑波山(877m)、加波山(709m)、足尾山(623m)、吾国山(518m)、仏頂山(431m)、富谷山(365m)などの山々がみられる。西方には平野が広がり、鬼怒川、小貝川、桜川などが走る。本土南北の気候帯の境界にあり、動植物相の北限・南限が交わる豊かな環境にある。
 勝田と小山を結ぶJR水戸線、群馬、栃木を経て大洗方面に至る国道50号線が対象地域を東西に貫き、更に北関東自動車道が栃木県方面から岩瀬、笠間、友部を貫いて臨海方面に通じる計画にある(友部IC〜水戸南ICは既開通)。国道4号線が結城市域、国道294号線が下館市域を南北に縦貫しており、古くから東西・南北交通の交差点として発展してきた。最近では、小山、水戸、つくば等への「通り道」、高速交通路への「出口」としての位置づけをつくってしまったことも否めない。
 人口、面積とも茨城県の概ね1割ほどの規模にあり、現在、人口が縮小傾向に向かっている。
 
図表2−1 対象地域の概況
  面積(km2 国勢調査人口
総人口 高齢比率(%) 産業大分類別就業人口比率H12
H12(人) H7(人) 増減率(%) 1次 2次 3次
茨城県 6,096.58 2,985,676 2,955,530 1.0% 17.4% 8.0% 33.5% 57.6%
対象地域計 682.85 299,684 303,043 -1.4% 19.5% 10.0% 38.9% 50.7%
結城市 65.84 52,774 53,777 -1.9% 17.4% 10.3% 42.3% 47.3%
関城町 34.51 16,145 16,424 -1.7% 19.8% 17.4% 40.6% 41.8%
下館市 86.25 65,034 66,062 -1.6% 16.8% 6.7% 40.8% 51.4%
協和町 36.24 17,145 17,365 -1.3% 20.3% 17.6% 36.9% 45.6%
明野町 48.35 17,796 18,227 -2.4% 19.8% 11.9% 44.0% 44.0%
真壁町 63.40 20,039 20,721 -3.3% 21.7% 9.4% 45.4% 45.1%
大和村 29.22 7,556 7,764 -2.7% 21.5% 13.8% 47.9% 38.2%
岩瀬町 87.16 22,739 23,487 -3.2% 21.2% 8.8% 40.7% 49.8%
笠間市 131.61 30,076 30,337 -0.9% 21.3% 9.7% 34.8% 55.1%
友部町 58.71 35,557 33,951 4.7% 15.1% 6.1% 30.2% 63.5%
内原町 41.56 14,823 14,928 -0.7% 19.1% 14.2% 26.0% 59.4%
(注)
産業大分類別就業人口は「分類不能の産業」を含む就業人口総数から計算しているため、合計しても100%にならない。
資料:
総務省統計局「国勢調査」(1995年(H7)、2000年(H12))
 
図表2−2 自然環境概況
(拡大画面:186KB)
(注) 市町村数は、2003年1月末現在 資料:茨城県長期総合計画(改訂)
 
(2)歴史
 穏やかで暮らしやすい自然条件の下、対象地域には太古がら人の居住がみられ、古墳群があるように、まちの形成も早かった。「常陸国風土記」(720年頃)には、日本武尊がこの辺りを闊歩したなど、中央とのつながりの深さが示されている。対象地域の大部分は常陸国に含まれる(現笠間〜下館は新治郡で、協和町に郡役所跡がある。現真壁、明野、大和は白壁郡。結城市は下総国結城郡)。南北朝時代には群雄が割拠し、関城跡、真壁城跡などは、当時の繁栄や戦の歴史を後世に伝えている。
 
図表2−3 大化の改新頃の主な街道
(拡大画面:176KB)
資料:山川出版社「関東の風土と歴史」
 
 江戸時代になると、この辺り一帯は、小藩の分立と幕府領・旗本領の相給地となり、個性的なイニシアティブによる統治はみられなくなったが、肥沃な田園に豪農、鬼怒川水運などで栄えた結城・下館をはじめ、豪商が育ち、文化のストックが形成されることともなった。結城紬、真岡木綿、笠間焼などの名産も、江戸時代に繁栄のもとが築かれた。
 なお、この時代、対象地域を通過する国道50号線は、水戸城下からの街道として「結城街道」または「笠間岩間街道」とも称され、大名たちの参勤交代や商人の往来でにぎわっていたといわれている。
 また、水運については、常陸自体が陸奥と江戸を結ぶ大動脈の一部に組み込まれていた。対象地域は現在の岩瀬町と笠間市の近辺で水系が大きく分かれており、その東側では川は太平洋の方向に流れ注いでいた。また、西側では鬼怒川に代表されるようにおよそ北から南へ流れ、利根川に注いでいた。
 
図表2−4 江戸時代の主な水運と関連する陸運
(拡大画面:222KB)
資料:各種文献より作成
 
 明治時代には、1989年(明治22年)の水戸鉄道線(現・水戸線)の小山−水戸間開通を皮切りとして、鉄道網が発達した。特に小山で日本鉄道(当時)と接続する水戸鉄道線により、南は東京、北は東北・北海道と、諸商品の流通範囲が広がった。鉄道は、これまでの水運を衰退させる要因になったと同時に、調査対象地域では笠間・稲田(現・笠間市)などの石材産業や下館・真壁などの繊維産業などを盛んにし、地域に発展の契機をもたらした。
 しかしその後、自動車時代の到来、東北自動車道・東北新幹線常磐自動車道など東京と東北方面をむすぶ縦の流動軸の強まりとともに、小山や水戸の吸引力に挟まれ、国道50号線と水戸線は両都市をむすぶ通過道としての性格を強めることともなった。
 現在、対象地域は県内ではやや先行的に人口縮小社会への歩みを始めている。これまでの拡大志向型社会の指標からみると、人口の減少、高齢化の進展、産業経済の停滞等は、地域経営にも、住民の生活にも翳りを来たすマイナス要因以外の何物でもない。しかし、目を転じて文化のストックをみると、豊かな田園環境に城下町としての佇まいや伝統工芸などが息づき、周辺都市の引力に屈しない地域イメージを遺す要因となっていることも事実である。人々の生活を取り囲む自然や歴史を大切にするあり方を目指そうとするとき、昔から引き継がれている文化的な資源の価値がクローズアップされてくる。







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