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パネルディスカッション
「瀬戸内海の将来を考える」
パネラー
藍川由美 声楽家
大林宣彦 映画監督
片山圭之 丸亀市長・香川県離島振興協議会会長
日下公人 東京財団会長
コーディネーター
明石安哲 四国新聞社論説副委員長
 
環境を維持しながら、より豊かな瀬戸内海を
明石安哲氏
 
明石
 欧米人で瀬戸内海を賞賛した記述を残した最初の人はシーボルトだろうといわれています。シーボルトは「船が向きを変えるたびに魅せられたように美しい島々の眺めが現れる」と、いかに風光が美しいかを書いております。有名なドイツ人の地理学者で旅行家でもあったリヒトホーフェンも旅行記のなかで、瀬戸内海を「世界で最も美しい海の一つ」と書いております。
 瀬戸内海を考えるときに一番むずかしい問題は、瀬戸内海に隣接している市町村、自治体の数も大変なもので、周辺人口が3000万人近くいるなかで、それぞれの人の瀬戸内海に対する思いがあまりにも違っていることです。一方では工業化するときの船積み港として考えるし、もう一方では風光明媚でそのまま美しい島であって欲しいという思いがあります。そのさまざまな思いが一つになって、ややもすればちぐはぐな開発であったり環境維持であったりという問題になったのかもしれません。
 しかし、周辺人口3000万人という規模で、これほど環境が維持されたまま現在に至っている内海は、世界にここしかないだろうともいわれています。そういった意味で、この環境をいかに維持しながら、より豊かな瀬戸内海像を探るかというシンポジウムにしたいと思っております。
 最初に、瀬戸内海子供フォーラムの「瀬戸内海子供宣言」にも触れながら、パネラーの方々の瀬戸内海に対する思い出、記憶、その意味、意義をお一人ずつ話していただこうと思います。
 大林監督は、瀬戸内海にまつわる映画をたくさんつくっていらっしゃいます。その思いは人並みではないだろうと思いますが。
 
海彦の生き方と山彦の生き方
大林宣彦氏
 
大林
 私の映画の特徴といいますのは、ふるさとで子供たちと共に映画をつくるということです。「私たちの現在は未来の子供たちからの借り物である」という言葉もございますけれども、子供たちと共に生き、暮らし、考えることは、とりもなおさず私たちの未来を考えることです。さらにふるさとは、私たちが寄ってきたるところの過去でしょう。そして、現在を生きる一人の大人として、過去と未来とをつなぐのです。
 そこで、例えば親孝行、ふるさと孝行、こういうことができれば大人として一人前になれたのかなという喜びが感じられるわけですね。そういう意味で、私の瀬戸内海の映画は、私を育んでくれたふるさと孝行の映画であったといえます。孝行したくなったということは、私が実に豊かな少年時代をこの瀬戸内の海に寄り添って暮らしてきたということです。
 その当時、私たちは、ほとんど隣町以外のことは知りませんでした。乗り物といえば船に乗って出かける。だから私は、尾道の隣りの福山の靹(トモ)という町も、あれは島だと思っていたんです。船で行きましたからね。後に車や汽車で行ける所だと知ってびっくりしました。
 つまり、海というものは、人と人を隔てるものではなく、むしろ結ぶものであったわけですね。だから私は海を渡って親しい人たちを訪ねていくという暮らしをしておりました。
 日本古来の物語の主人公で、山彦、海彦という存在がありますが、私は、自分は海彦である、一生海と共に生きて、年老いて瀬戸内海に船を浮かべてぽっかりぽっかりと揺りかごのように揺られながら死んでいければいいなと、子供のころから思っていたわけです。
 ところが、あるとき突然、自分は山彦になったのかなと思った時期があるんですね。それはちょうど1990年です。世論調査の結果、日本人は戦後初めて、ものやお金より心が欲しいと思うようになったと、どの新聞にも大きく出ておりました。
 「失われた10年」といわれる時を過ぎまして現在に至るわけですが、私はこの10年を、文化の意味ではむしろ「豊かなる10年」であったと思うんです。この10年の間に私たちが何を考え、求めるようになったか、それはとても10年前には考えられなかった。モノやお金ではないんじゃないか、心の豊かさが欲しいんじゃないかと、私たちが幸福論を修正することができたのが、この豊かなる10年であったと思います。
 その時期、私は山にあこがれまして、なぜか山里に行って映画を撮ることが多くなったんです。家内で、プロデューサーの大林恭子に「なぜ俺はこのごろ山彦になったんだろうね」と聞きましたら、こんなことを言いました。
 「私は山里に生まれて、海にあこがれていました。海は明るくて、開けていて、皆が同じ場所に集まって同じ海を見ていても、それぞれにさまざまな自分の海を見ている。自分の海の向こうを見ている。だから冒険心や好奇心に富んで開かれていくんでしょうね」
 そういう意味では、明治維新の開国以来、日本はどちらかというと全員が海彦になって、海外の文明に向かって両手を広げてきた。そして、海を渡るというよりも、航空機で空を飛んだりして、私たちが海を忘れていく時代になってしまったわけですね。
 そして、家内は、「山というのは、みんながそれぞれ別々の所にいても、一つの山を見て暮らしている。だからそこに何か自分たちの共通の約束事が感じられるんじゃないだろうか。あなたは海彦として、自分の夢や好奇心を大きな世界に向けて、冒険心に富んで生きてきたけれども、今ひょいっと気がついたとき、自分の日本人としての何か大切な約束を思い出し、守ろうとし始めているんじゃないだろうか」と言うのです。私はとても納得しました。そこに私たちの幸福というものの変化が見えてきたと思うのです。
 つまり、私たちは、あまりにも日本という国の真ん中にある山を忘れて、そして自分たちの目の前にある海も忘れて、他国の文明を取り寄せて生きてきてしまった。それによって文明化、あるいは経済社会化は成し遂げたのであるけれども、私たち日本の古来の文化を、そして私たちの心を豊かにしてくれる約束を忘れていたんじゃないか。
 確かに、明治維新以降の130数年は日本の山彦が忘れられていった時代だと思います。そして、私は山彦として、豊かなる10年を生きてきて、21世紀にこう思います。この瀬戸内海で私は海彦として生きてきたけれども、瀬戸内海は実は山彦の里でもあったんだと。瀬戸内海に浮かぶ島々は、山のてっぺんだ。あの山のてっぺんとてっぺんを結ぶと、私たちの情報にはない、目には見えない海の底に山里があり、そこには道もあり、川もあり、橋もかかって家もある。しかし、そこで暮らしているのは、タイやヒラメやオコゼなど、魚たちだろう。
 彼らの山里を、私たちはあまりにも忘れていた。私たちがこの瀬戸内海を本当に資源として生かして21世紀を生きるためには、海彦であると同時に山彦として、情報時代に置き忘れられた、この海の底に住む、私たちの地球の仲間である魚たちの幸せを考えることが、いつかは私たち人間の幸せにもつながってくるのではないかと思います。
 瀬戸内海に住む私たちは、海彦であると同時に、山彦として、瀬戸内海の山里をもう一遍考え直す。そして何を大切にすべきかを考えることで、私たちの瀬戸内海だけにある、幸せがたぐり寄せられるんじゃないかと考えております。







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