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「マンガ原作とアニメーション―漫画家魂―」
松本零士(漫画家)
「男おいどん」「キャプテン・ハーロック」「銀河鉄道999」「戦場まんがシリーズ」「宇宙戦艦ヤマト」「わが青春のアルカディア」他多数。
 
 松本―私が外国語をしゃべると破滅的な言葉の使い方になるので、日本語でお許しください。昨夜もフランスのプロデューサーと会っていましたが、destiny(運命)のフランス語はfatalでよろしいかと聞いたら、それは最期の瞬間だと言われてしまいました。
 私の印刷された漫画が初めて売られてから、今年でちょうど50年目になります。スタートが非常に早くて、中学3年生(14歳)の時の作品が本になってしまったからです。その本には、自分で勝手に「100万円」という最大級の定価を書き込んでいました。今で言えば1億円ぐらいの感覚で、当時の子どもが考え得る最高の値段でした。
 私は1938年生まれで、18歳のときに列車で上京し、本格的に漫画の仕事を始めました。それから今までずっと漫画を続けています。ですから、線路を見るたびに、あの日あの時に、あの汽車に乗らなかったら、自分はどうなっていただろうかと考えます。人生におけるスタートライン、一番大事な瞬間というものは誰にでもあります。自分が、あの時、あの列車に乗る選択をした結果、今こういう仕事をしている。これは運命みたいなものだと思わざるを得ません。
 今、私の家を訪れる若者たち―日本に限らず外国の人たちもいます―がこの道を選ぶと聞くと、その若者の目を見つめて、「後悔はしないか。墓はないぞ」と必ず問いかけます。それでも「やる」という男女には、「それならば覚悟を決めてやれ」と励ますことにしています。私自身、漫画家として一度も動揺したことはありません。
 私は、18歳から20歳ごろまで、早稲田のあたりで友人たちと過ごしました。その頃、同じく漫画を描いている京都出身のガールフレンドが鶴巻町に住んでいました。私が友人と一緒に彼女のアパートに行って、「こんばんわーっ!」と下から大声で呼んだら、彼女は「ハーイ」と返事をして下りてきましたが、突然目の前から姿が消えました。玄関前に開いていた水道工事の穴に気付かずに音もなく落ちてしまったのです。
 私の青春は、下宿で、いろいろな大学に通っていた大勢の友人たちと一緒に、6年間にわたって格闘して過ごした青春でした。その想い出のすべてが糧となって、今の自分を支えてくれています。下宿は、ある者がない者を食べさせるという、いわば友人同士の互助会で、そのお陰で全員が生き延びて、今やみんないいオヤジとなって活躍しているのです。
 1年あまり前、フランスのダクトパンクというミュージシャンが突如、私の家にやってきました。彼らは言いました。「私たちが5歳の時に、両親と一緒に『キャプテン・ハーロック』(フランスのタイトルは『キャプテン・アルバトーレ』)を観ていました。今度私たちの歌をそんなキャラクターで演出してくれませんか。両親からも励まされて来たのです。」5歳と聞いて、私は「ノー」とは言えませんでした。
 実は、私が5歳の頃、太平洋戦争中でしたが、兵庫県の明石で「クモとチューリップ」という、日本製ではそれまでで最も素晴らしいアニメーションを観ました。1943年か44年のことです。それが自分にとっての刷り込みになりました。それで、人間は5歳までに自分の一生の道を決める触媒を受け取るというのが、私の確固たる信念になったのです。
 私は「クモとチューリップ」を観たとき、アニメーションを作りたいという思いに目覚めました。幸いなことに我が家には当時映写機がありました。父親がパイロットでしたので、大変機械好きで、子どものために35ミリの映写機とフィルムを家に置いていたのです。そこで奇怪なことになりました。軍人の父が太平洋上でアメリカ機動部隊のベテランたちと空中戦を演じていた頃、私は家で「ミッキーマウス」や「ベティブルー」などアメリカのアニメーションを壁に映して喜んでいたのです。幸いだったのは、私がそれらのアニメーションを楽しんでいるうちに戦争が終わり、父親も無事に帰ってきて、自分の夢を持続できたことです。
 ところが、後に手塚治虫さんと話をしていて、腰を抜かしたことがあります。私が5歳の時にアニメーションを観た明石の同じ映画館で同じアニメーションを、当時15歳の手塚さんが観て、やはり同じような志を立てていたというのです。しかも、そのアニメーションの上映期間は1週間しかなく、その映画館でしか上映していなかったのですから、間違いなく5歳の私と15歳の手塚さんは同じスクリーンを睨んで、同じように感動し、同じような志を抱いたのです。そして、やはり手塚さんのお宅にも映写機がありました。年齢こそ違いますが、同じような運命の輪の中にいたことを知って、2人でのけぞりました。
 さらに、もう1人、のけぞった人がいます。石ノ森章太郎です。彼は宮城県で生まれ、私は九州で生まれましたが、生年月日は全く同じなのです。1938年1月25日。時間も1時間か2時間の差しかありませんでした。この3人がアニメーションを志していたのです。
 実は、この3人、警察に捕まったことがあります。早稲田大学のあたりにフィルムや機材を扱う映画好きの闇屋さんがいました。私たちは、その人から、ディズニー、フライシャー、その他、大量のアニメーションフィルムと映写機を買いました。9ミリ半、16ミリ、35ミリなど、大量のフィルムを買うので、映画を商売にしていると疑われ、警察に踏み込まれました。私が「研究用です」と答えると、刑事さんは「研究用ならいい」と言うので、「もっと買ってもいいか」と聞いたら「勝手にしろ」と言われました。そして帰り際には、「頑張れよ」と言い残して帰っていきました。
 この同じ出来事が、同じ日に、3人の身の上に起きました。そこで、私たちはこれを少し誇張して、「自称日本3大アニメマニア芋づる事件」と言って威張っていました。「自称」と付けたのは、必ず「自分のほうがもっとすごいぞ」と言い出す人がいるに違いないからです。
 そのうちの2人はもうこの世にいません。私はそれがとても寂しいです。なぜなら、今、ダクトパンクが訪ねてきたり、フランスのプロデューサーと話をしたり、世界各国の人が訪れてくれるようになって、情況が大きく変わりつつあるからです。つまり、我々の仕事に国境がなくなりつつあるのです。ですから、我々にとって今は、最も大事な時です。これからいろいろな国の人たちと触れ合い、共同で仕事をしていく時なのです。そういう時に、3大アニメマニアと言っていた仲間の2人がいないのは、とても辛いことです。
 
 私には、物語を描く上で一番大事にしていることがあります。それに目覚めたのは、下宿生活で長い間風呂に入れず皮膚病を患った時でした。
 実は私よりもひどく患っていた学生が他にいて、1年間も風呂に入っていない早稲田大学の学生もいましたし、東京大学の医学生なのに毎日胃が痛いと唸りながらも風呂に入らないつわものも私の部屋の向かいに住んでいました。その医学生に「自分で腹を切ったら(手術をしたら)どうだ」と言ったら、「今は歯を食いしばって頑張るんだ」と答えていましたが、その彼は今、病院の院長になっています。それで彼には「お前が腹を切るときには俺がうまくやってやる」と言われています。そういう“同志”が、私にはたくさんいるのです。
 下宿で患った皮膚病というのは陰金田虫です。1年間も風呂に入らなければ誰でもなるのですが、私は「暗黒の青春」だと思っていました。それでも、私たちにはこんな合言葉がありました。「ライオンは風呂に入るか。ワニは歯を磨くか。ライオンは風呂に入らなくても、百獣の王である」。私が自分の名前を横文字で表記するときに、ReijiではなくLeijiとするのは、Lionから来ているのです。
 ある時、その病気の治療法が新聞に出ているのを発見しました。病気の俗名ではなく学名が書いてあったので、学名なら平気で口にできますから、薬屋に行って薬を求めたところ、薬屋は「白状しろ。お前も陰金田虫なんだろう。白状すれば治るんだ」と言いました。そして、その通り、あっという間に病気は治ってしまったのです。このときに私は、ものを描くことについての確信を得ました。「同志諸君、悩むことはない。この薬を買えば治る。そして、若者が貧乏なのは当たり前だから、恥じることではない」。そういうことを描こうと思ったのです。
 これが自分にとって、最初で最大のスタートになりました。何のために描くかという断固たる意志、目的意識が生まれたのです。目的意識がないものは創作の名に値しません。
 陰金田虫のことを描いたら、日本中の同志から山のような手紙が来ました。「俺も今、真最中だ。しかし前途はばら色に輝いている。」そして、恋人を思うある女性からも「私の彼が元気になりました。本人になりかわってお礼を申し上げます」という手紙が来ました。私はその時、同じ悩み、同じ思い、同じ目的意識を共有する物語を描くべきである、という確信を持ちました。
 人が創作に至るまでの過程は、まずコピーから始まり、そして模倣、応用、改良、発展と進みます。発展の次が創造なのですが、多くの優秀な若者たちがそれ以前の段階で倒れていきます。私が、発展から創作、創造へと進めたのは、つまり個性を確立できたのは、まさに下宿の中で同志諸君と悪戦苦闘したことが目的意識を生み、創作の世界に踏み込むことを可能にしてくれたからです。
 ゲーテも、シェークスピアも、夏目漱石も、陰金田虫物語は書いていない。これは世界最初の皮膚病に関する物語であると、胸を張って言えます。創作、創造の名に値するものは、世界で最初であることが最も大事なのです。世界で最初のものを描く世界に踏み込めない限り、創作家にはなれません。
 何のために描くか、そして創作という名に値するものを描けるかどうかが一番大事である―友人たちに支えられ、下宿で悪戦苦闘した結果、私はそのことに目覚めたのです。ですから、そのときの同志、友人のことは、1人残らずはっきりと覚えています。
 
 私は36歳のとき、「宇宙戦艦ヤマト」という作品で初めてアニメーションの世界に踏み込みました。しかし、下宿にいた頃すでに、撮影台を自分で組み立てて、自分だけでアニメーション作りを始めていたのです。最初に買った16ミリ撮影機は、アメリカ製のベルハウエルという、従軍カメラマンが使う小型のカメラで、3万5000円でした。
 実は、死にもの狂いで17万5000円を貯めて、立派なカメラ屋に行き、本格的なカメラを買おうとしました。しかし、ぼろぼろの姿の私がいくらカメラを指差しても、店員は「高いですよ」と言うだけで、こちらを向こうともしませんでした。そんなふうに相手にされなかったので、仕方なく中古屋に行って3万5000円のカメラを買ったのです。
 そのときに私は誓いを立てました。あの高い方のカメラ屋では生涯絶対に買わないと。そして、その後も中古屋でずっと買い続けました。だから、私は今、志を持った若者を侮ることはしません。若者の未来を侮ると、その若者の可能性から生まれるものから痛烈なしっぺ返しを受けることになるのです。外国の人も含めて、すべての子どもたちを侮ってはいけません。脳細胞の数は世界中の人がすべて同じです。能力は同じなのです。
 私がああいうキャラクターを描くのはなぜか、と最初に聞いたのはフランスの記者でした。これは返事のしようがありませんでした。自分の感覚だとは思っていますが、説明はできませんでした。ところが2年前(2000年)に、私の故郷から一枚の写真が出てきました。
 その写真には、着物を着た絶世の美女が写っていました。隣には旦那さんが、日本刀をどっかと構えています。問題はこの女性の顔です。女性には4分の1ヨーロッパ人の血が流れていました。そして、私は知らず知らずのうちに、子どもの頃からその女性の顔を復元していたのです。18歳のときにはすでに、「機械化美人の生涯」という物語で、彼女の顔をそっくり復元していました。また、他の女優さんの顔にも修正を加えて、その写真の女性の顔そっくりに描き替えてしまっていたのです。初めてその写真を見る何十年も前のことです。ですから、私がこの仕事をしているのも、遺伝子の作用によるものに違いないのです。
 自分の顔を鏡で見ても、どうしても自分とヨーロッパとは結び付きません。私はどちらかといえば縄文人やクロマニヨン人の系統で、棍棒を持たせてくれたほうが似合うのです。しかしなぜ、この写真があるのか。この女性の本籍は私と同じですし、その刀は今、私の手元にあります。ですから何らかの関わりはあるはずですが、ミッシングリンクがあるため、女性が隣のおばさんなのか、先祖の知り合いだったのかもわかりません。ともかく、120年か130年ぐらい前に接触があったのです。この写真は、友人の弟が館長を務める博物館に贈ることを約束してしまいました。「しまった!」と思っているのですが、すでにカタログにも載っているので仕方がありません。
 人間というのは、ものすごい数の遺伝子の情報を受け取って生き、さらにその遺伝子を自分の子どもを通じて未来に送るという、運命の輪の中の1つを担っているのではないかと思って仕事をしています。
 CGを使うようになって、漫画家の部屋もコンピュータだらけになっていますが、最近、赤ちゃんの顔を見るたびに、偉大だなあとしみじみ思います。地球上にあるどんなコンピュータよりも、赤ちゃんがDNAで受け取っている情報のほうが遥かに巨大なのです。そう思うと、赤ちゃんはものすごくかわいいし、偉大に見えます。世界中の若者はそうした遺伝子の塊なのです。だから、みんなに元気で生きて欲しいと思います。
 
 私はこれからも漫画を続けていきますが、描くのはすべて自分で経験したことです。そして、よい経験も悪い経験も、一応は元を取っています。下宿で患った皮膚病も、その薬のパッケージには今、私の絵が使われています。経験して悪いことは何もないのです。殴られなければ、痛さはわかりません。もっとも、いつも殴られていたのではおもしろくないですから、たまには一発ぐらい殴って勝ちたいですがね。そうしたいろいろな経験が創作するうえでモノを言うのです。
 創作には経験が必要で、写真や本を見るだけでは参考になりません。自分がそこに身を置く必要があります。ですから、私は世界中をさ迷い歩きました。そうして自分の体験したことを、それとなく物語の中に組み込んでいます。
 ただ、自分には永久に描けないと思えることが1つあります。それは栄華を極めた王侯貴族の物語です。そんなものには全く縁がないからです。貧乏人ならいくらでも描けます。頑張る青年ならいくらでも描けます。しかし、王侯貴族は無理です。まあ、それは描けなくても構いません。
 最後に私のペンネームの意味をお教えしましょう。零士とは「終わりなきサムライ」という意味です。話もエンドレスになってしまいますので、このへんで終わりにします。
 皆さんは、夢を賭けて頑張ってください。私はハーロックにこう言わせています。「俺は俺の旗の下に生きる」と。自分の信念は絶対に揺らぎません。自分の信じるもののためなら命を捨てても構わないけれど、他人の言うことに左右されて死ぬつもりはありません。これは恐らく皆さん1人1人が胸の中に持っていることだと思います。国が違っても、互いに互いの信念に敬意を払いながら、信じるものを大切にして、仲良く頑張りましょう。







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