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No.14/36
船がはこぶII
1. “新田丸(にったまる)”
 “新田丸”が建造された当時は、海外へ行くには船に頼るしかなく、時間もとても長くかかったので、快適な船旅が過ごせるように船内には色々な工夫がされていました。例えば欧州航路の場合は長旅と暑いインド洋が考慮され、世界初の試みとして、一・二等食堂、一等の客室、理容室、美容室には最新式の冷暖房装置が取り付けられました。他にもボードデッキには見晴らしの良い好位置にベランダ、カード室、スポーツ室が設けられ、さらに上部構造のトップには開閉式の覆いが付いたプールがありました。また“新田丸”は日本が開催しようとしていた最初のオリンピックに備えて、日本郵船が建造した客船で、選手の鍛錬(たんれん)のため姉妹船に比べ幅の広いスポーツデッキを持っていました。“新田丸”が竣工したのは、昭和15年(1940)3月でした。当日東京芝浦の岸壁では皇族、政財界の名士を招いて盛大な披露(ひろう)が催され(もよおされ)、関西への披露航海の船上では、梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)、川端康成(かわばたやすなり)、辰野隆(たつのゆたか)、大沸次郎(おさらぎじろう)らの文化人による「閑談会」も開かれました。また、名古屋港に入港したときには、地元の名士を招待し盛大な就航レセプションが催され、この時に用意された日本酒の4斗樽(とだる)は400樽に及んだといわれます。こうして華やかなデビューを飾ったものの、予定(よぎ)の欧州航路は第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の余波を受け閉止寸前の状態にあり、ロサンゼルス航路への変更を余儀なくされます。しかし、この航路にも戦雲はすでに垂れ込めてきており、翌年9月、海軍徴用(ちょうよう)の命令を受けるまでに勤めた航海はわずか7回に過ぎなかったのです。これが客船“新田丸”の短い舞台となりました。昭和17年(1942)5月に呉工廠(くれこうしょう)で改造工事が始まり、洋上の麗人(れいじん)から日本海軍の軍艦として姿を変え、“沖鷹(ちゅうよう)”と命名されました。同年11月、改装をすべて終え、航空母艦“沖鷹”は軍籍に入り横須賀鎮主府(ちんじゅふ)の所轄となりました。実は、当時の世界情況は、優秀商船建造と航空母艦との関係を深く結びつけており、各国とも一朝時ある時には速かに(すみやかに)空母に改造し得るような、特殊な設計があらかじめ施されており、“新田丸”も建造に先立ち昭和12年(1937)に施行された、「優秀船建造助成施設」によって、最初から有事の際は空母への改装を運命づけられ、この諸条件を内蔵していたのです。昭和18年(1943)12月3日、トラック諸島からの帰途において、鳥島の近くで潜水艦“セルフィッシュ”の魚雷により海の藻屑(もくず)となり、短い一生を終えました。
 
 
 
2. “飛鳥(あすか)”
 平成3年(1991)10月28日、日本郵船の新しい客船“飛鳥”が三菱重工業長崎造船所の岸壁を離れました。“飛鳥”には戦前の客船黄金時代の伝統を引き継ぐという想いがこめられていて、その大きさも、太平洋戦争勃発の年に三菱造船長崎造船所で建造された、当時日本最大になる予定の“橿原丸(かしわらまる)”を意識して造られています。(“飛鳥”・28,717トン、“橿原丸”・27,700トン)。“橿原丸”は、進水前に海軍に買い上げられ航空母艦“隼鷹(しゅんよう)”と改名して竣工(しゅんこう)されたため、客船としての姿は誰も見ることのできなかった幻の客船なのです。このようなことから、“橿原丸”が“飛鳥”の基準とされたのです。かつての郵船の客船がそうであったようにオープンスペースを広くとるための、なだらかな船尾部と広いプロムナードデッキに、戦前の名船のゆったりとした感じが復刻(ふっこく)されています。さらに船体にはスマートさを演出するための金と青のラインが引かれていますが、青い方はジャパンブルーとよばれる日本の伝統色で、藍染めの青・濃縹(こきはなだ)と呼ばれる色です。船名の“飛鳥”も、日本文化の黎明期(れいめいき)である飛鳥時代に因み、新客船時代の黎明期を担うものとして名付けられました。因みに、おなじ日本郵船の客船でありながらバハマ船籍の“クリスタルハーモニー”のファンネルには、郵船の伝統・赤の二引(にびき)がありません。日本船籍の客船“飛鳥”のために大切に取っておかれたのです。
 
 
 







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