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犬達が生きていた! 再会を喜ぶ北村隊員と「タロ」(左)と「ジロ」(右)
 
沖縄出身の嘉保甲板長
 
初のオブザーバーのメロイ氏(右)と三田操舵長(左)
 
 しかし、この航海で“宗谷”の船体が非常に傷んできていることも分かりました。そこで、大きなヒビの入ったスペクタクルフレーム(プロペラ軸を支える枠)を新しく換えて、緩(ゆる)んだリベット1,500本を打ち直しました。もはや、“宗谷”による南極観測は限界に近づいて来たのです。
 第5次南極観測は、明田船長以下94名の乗組員と村山隊長以下36名の観測隊員を乗せて昭和35年(1960)11月12日東京を出発、翌昭和36年(1961)5月4日無事東京に帰ってきました。ヘリコプターによる輸送実績は昨年に近い121トン、村山越冬隊長以下16名の越冬隊員も送り届けました。
 ついに、“宗谷”最後の南極観測となった第6次観測は、昭和36年(1961)10月30日、明田船長以下96名の乗組員と吉川虎雄(よしかわとらお)隊長以下18名の観測隊員を乗せて東京を出発しました。第6次は主に、昭和基地の閉鎖に伴う撤収作業でした。昭和37年(1962)2月16日南極を出発、この日をもって“宗谷”は思い出深い南極に別れを告げることになったのです。そして、昭和37年(1962)4月17日東京日の出桟橋に帰港、6回に及んだ南極観測船の役目を無事に終了したのでした。
 
北の海の巡視船として
 南極観測船としての業務を終了した“宗谷”は、通常の巡視船として用いるための復旧工事を昭和37年(1962)6〜8月まで浅野船渠にて行いました。
 そして再び白い船体となった“宗谷”は、8月1日より巡視船として北海道に派遣され、持ち前の砕氷能力を生かして北洋海域のパトロールに従事し、昭和38年(1963)3月からは、正式に北海道の第一管区海上保安本部に所属する巡視船として、北の海で活躍することになりました。
 この当時、過酷な冬期の北洋で着氷による転覆や氷海における遭難など、多くの海難事故や病気などが発生しても、思うように助けに行ける巡視船がないのが実情でした。“宗谷”は、南極で鍛えた持ち前の砕氷能力を生かしてそれまでは困難であった氷に閉じ込められた漁船の救出、冬期の北洋における医療活動、流氷観測などに大きな威力を発揮しました。
 昭和37年(1962)9月、東太平洋上で操業中のマグロ漁船から頭痛を訴えて吐血した重病患者発生の知らせを受け、“宗谷”は緊急医療救助に出動します。途中別のマグロ漁船で発生した盲腸(もうちょう)患者を“宗谷”船内で緊急手術した後、吐血した重病患者を硬膜下血腫(こうまくかけっしゅ)と診断、横浜へ搬送して病院に収容し一命を救助しました。
 また、昭和45年(1970)3月には、択捉(えとろふ)島南方の単冠(ヒトカップ)湾において操業中の沖合底曳漁船(そこびきぎょせん)19隻が流氷群に前進をはばまれ、猛吹雪の中で航行不能になり、8隻が遭難し乗組員30名が死亡又は行方不明になるという史上最大規模の流氷海難事故が発生します。“宗谷”は、流氷群を押し分けて砕氷前進し、悪天候をついて捜索救難活動を行って生存者の救出に活躍しました。
 このようにして“宗谷”は、海難救助出動350件以上、救助船125隻、救助人数約1,000名に及び、「北の海の守り神」とまで呼はれるようになったのです。
 そして、竣工から40年を経過した昭和53年(1978)7月、ついに解役(船としての役割を終え引退すること)が決まり、“宗谷”は全国14の港を「サヨナラ航海」して巡(めぐ)り一般公開を行い、多数の人々を迎えて最後の仕事を精一杯勤めました。
 長い汽笛の音を残して、長く親しんだ函館をついに離れ解役の地東京へと向かったのは、昭和53年(1978)9月28日のことでした。
 
南極観測業務を終え、第一管区海上保安本部の巡視船となった“宗谷”
 
去り行く青函連絡船をバックに、函館における最後の一般公開を行う“宗谷”







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