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 灯台守の生活を描いて、昭和32年(1957)大ヒットした映画「喜びも悲しみも幾年月(いくとしつき)」(監督:木下恵介(きのしたけいすけ)、主演:佐田啓二(さだけいじ)、高峰秀子(たかみねひでこ))の1シーンにも、撮影当時実際に灯台補給船として活躍していた“宗谷”が登場します。
 また、灯台補給船時代の昭和29年(1954)、“宗谷”に思いもよらぬ仕事が舞い込んできました。敗戦後、長らくアメリカ軍に占領統治されていた奄美諸島(あまみしょとう)の日本への返還が決まったとき、日本のお金を同島に運ぶ仕事をすることになったのです。なんと9億円も!
 12月の深夜に鹿児島で現金を手早く積み込んだ“宗谷”は、真夜中に出港、漆黒(しっこく)の闇の中を一路南下して奄美大島の名瀬(なぜ)に到着しました。極秘の任務を無事終えて、盛大な「日本復帰祝賀式典」が市内の特設会場で予定どおり行われたことはいうまでもありません。
 こうして5年半ほど灯台補給船として働いた後の昭和30年(1955)夏頃、南極探検(当初は、観測ではなく探検と呼んでいました)に用いる船の話がにわかに起こったとき、耐氷構造の“宗谷”に白羽の矢(しらはのや)が立ったのです。
 当時、海上保安庁の灯台部長は、病気のため3ヶ月で部長職を辞任したにもかかわらず、健康を回復した後に強く希望して灯台部に復帰した土井智喜(どいともよし)部長でした。土井部長は灯台部の仕事に大いなる誇りを持ち、僻地(へきち)で働く灯台職員に対し深い敬愛の念を抱いており、各地の灯台に物資の補給をする大切な“宗谷”を手放さなければならないことに、偲び(しのび)がたい思いを感じていました。
 しかし、“宗谷”は昭和30年(1955)11月、正式に南極観測船となることが決まり、東京在泊中の“宗谷”船上で、灯台部としての解役式が行われました。土井部長はその席上で、「灯台部として“宗谷”と別れるのは偲びがたいが、国民に少しでも明るい希望を与えることができるなら、誇りを持って“宗谷”を南極観測船にご用立てしようではありませんか・・・」と、目に涙を一杯ためて訓示しました。この訓示は灯台部関係者の心を打ち、それまでのわだかまりも消えて人々の心はひとつになったのです。
 かくして“宗谷”は、昭和30年(1955)12月24日、灯台部所属の灯台補給船から、第三管区海上保安本部所属の巡視船に配置換えとなり、南極への第一歩を踏み出したのでした。
 
航海船橋部を改装し煙突も延長した灯台補給船“宗谷”。船名が“そうや”と一時期かな書きになった
 
灯台を敬愛した土井灯台部長
 
日本学術会議 茅会長の申し入れを承諾した海上保安庁の島居長官
写真提供:朝日新聞社
 
日本の南極観測参加にいち早く賛同した日本学術会議 茅会長(右端)と、隊長を引き受けた永田教授(左下)
写真提供:朝日新聞社
 
南極地域観測統合推進本部の第1回総会にて演説する文部省 松村大臣(中央)。右端に茅会長の姿も見える
写真提供:朝日新聞社







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