宗谷のすべて
−戦後の復興から栄光の南極観測船へ−
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昭和23年2月、小樽における引揚げ船“宗谷”。甲板上に並んだ応急の手洗い所に雪が積もっている |
“宗谷”引揚げ船となる
戦争は終わりましたが、大陸にも南洋諸島にも多数の邦人(ほうじん)が残されており、その数は700万人にも達したといわれます。こうした多くの人々が帰国の日を待ちわびていました。
日本に進駐したアメリカ軍を中心とした連合国軍は、東京にGHQ(連合国軍総司令部)を設置し、さまざまな指令を日本政府に発しました。在外(ざいがい)邦人の引揚げについても、10月1日に使用可能な船舶をすべて動員して引揚げ業務に当たることを命じ、“宗谷”も同日付で大蔵省(現:財務省)に返還され、船舶運営会に所属する引揚げ船として働くことになりました。
“宗谷”乗組員は一旦帰郷して散り散りになっていましたが、補修・整備を行う浦賀船渠(うらがドック)に再び呼び集められ、懐かしい“宗谷”と再会、ホールド(船倉)を改造して応急の船室にしたり、前後の甲板上にトイレや洗面所を増設するなど応急工事が行われ、10月南洋のヤップ島に向けて浦賀を出港しました。
第1回目の引揚げ輸送は、1,280名の引揚げ者を収容して浦賀に帰着して終了、続く第2回目は11月に出港してグアム、トラック島方面へ向かい1,520名の引揚げ者を収容して12月呉(くれ)に戻りました。
このころのGHQは、日本船を管理するための「日本商船管理局」(SCAJAP(スカジャップ))を10月14日に設置、“宗谷”を始めとする100総トン以上の日本船は連合軍の占領下にあって日の丸を掲揚することを禁止され、代わりにSCAJAP旗を掲げるとともに、船腹には識別のSCAJAP番号を大きく書かなければならなくなりました。“宗谷”は「S−119」と書くことになりましたが、わが国が国旗掲揚を許されるのは昭和24年(1949)1月になってから、SCAJAP番号を消し外航船にも日の丸掲揚の許可が出るのは、昭和26年(1951)9月「サンフランシスコ平和条約」を締結した後になってからのことでした。
“宗谷”は、またしても休む間もなく上海、台湾の基隆(キールン)、ベトナムのサイゴンと外地を巡って引揚げ者を収容し故国へと運びました。
そんなある日、昭和21年(1946)3月23日の朝、台湾からの引揚げ者を乗せて佐世保に立ち寄って呉に向かっている時のことでした。船内で、赤ちゃんが誕生したのです。赤ちゃんの父親の依頼で、名付け親になることになった船長は、迷うことなく“宗谷”の一字をとって「宗子(もとこ)」と名付けました。物資の乏しい中でしたが、赤飯を炊き家族ともどもお祝いをしました。暗く、厳しい毎日でしたが、心にぽっと灯り(あかり)がともるような、温かな出来事でした。
しかし、もっとも悲惨な引揚げ業務がこのあと待っていました。7〜8月に行った旧満州からの引揚げ者を収容した、いわゆる葫蘆(ころ)島引揚げです。敗戦と同時にソ連軍の進攻を受け、中国の内戦、殺戮(さつりく)と暴行と略奪…、葫蘆島に集った旧満州からの引揚げ者の姿は、とても悲惨で正視できない程でした。
“宗谷”はこの葫蘆(ころ)島引揚げを数回行い、その後、昭和23年(1948)までに、大連、北朝鮮などからの引揚げ輸送を行い、特にサハリン(旧樺太(からふと))からの引揚げ輸送は実に14回を重ねました。
石炭焚きで真っ黒い煙をはき、スピードも遅くエンジンも不調で故障に悩んだ“宗谷”は航海日数も長くなり、船内の衛生状態も悪化して故国を目の前にして衰弱や病気で亡くなる人も少なくありませんでした。亡くなった人たちを船内に残すわけにも行かず、麻袋に包んで海に流し水葬(すいそう)したのです。
こうした引揚げ業務も、昭和23年(1948)11月最後の引揚げ者839名を函館に運んで終了となり、6日小樽に回航されて引揚げ業務の総てを終了しました。
“宗谷”によって故国に戻った引揚げ者の総数は、実に19,000名近くにも達したのです。
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昭和21年8月、旧満州からの引揚げ者収容のため葫蘆(コロ)島に停泊する“宗谷” |
海上保安庁の灯台補給船へ
引揚げ輸送の任務を終えた“宗谷”は、特務艦時代からのグレーの軍艦色の船体を白帯の入った黒い商船風の塗装に改め、そのまま少数の要員を残して小樽に係船されることとなりました。
係船から、10ヶ月ほど経った昭和24年(1949)8月13日のことです。前年5月に創設された海上保安庁の係官たちが、小樽に係留中の“宗谷”の調査にやってきました。GHQの指示を受けて、民間からチャーターし灯台補給船として使用していた“第十八日正丸”を返還するに伴い、その代船を捜していたのです。係留されている“宗谷”は、太平洋戦争を生き抜き戦後は引揚げ船として休むひまもなく働き続け、すっかり疲れ果てた様な姿でした。
しかし、“宗谷”は使用可能と判断され、大蔵省より昭和24年(1949)12月12日付けで海上保安庁灯台部に移籍し、船主に返還された“第十八日正丸”の船長以下の乗組員が移乗、石川島重工業(現:石川島播磨重工業)に回航されて改装工事に着手されました。そして、翌昭和25年(1950)4月1日、スマートな真っ白な船体にコンパスマークも鮮やかな海上保安庁の煙突(ファンネル)マークを描いた、灯台補給船LL−01“宗谷”が誕生しました。
この当時、全国各地に設けられた灯台は、灯台守(もり)として灯台部の職員が家族とともに住み込みで灯火の番をしていました。岬の先端や孤島に立つ灯台は、どこも地の果てのような人里から離れた不便な所ばかりで、電気やガスや水道もなく、毎夜絶やさず灯火を守りつづけることは大変な苦労を伴ったのでした。
“宗谷”は、そうした全国各地の灯台にさまざまな物資を届ける灯台補給船として働くことになったのです。
補給物資を満載した“宗谷”は、全国の灯台を巡り灯台に火を灯す燃料の重油や軽油、暖房用の石炭、機材の部品や日用雑貨品などを運びました。実は、こうした補給物資に混じって、ささやかながら子ども達のための絵本やおもちゃなども届けられました。普段、厳しい生活を強いられて遊ぶ友達すらいない灯台の子ども達にとって、1年に1度姿を見せる“宗谷”は、なにものにも代えがたい「海のサンタクロース」だったのです。
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引揚げ業務が終了し、黒い商船風の塗装に改めて小樽に係留される“宗谷”。船尾に日の丸が掲揚されている |
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灯台補給船として働いた“第十八日正丸” |
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真っ白な船体の灯台補給船となった“宗谷”。海上保安庁が発足してもSCAJAP番号はまだ消されていない |
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前甲板に浮標識(ブイ)を乗せて航走する灯台補給船“宗谷”。こうした航路標識の整備も行った |
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