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宗谷のすべて
−誕生から終戦まで−
昭和12年12月頃の川南工業香焼島造船所の全景。右側に建造進む第107番船(後の“宗谷”)が見える
 
誕生のひみつ
 “宗谷”誕生の話をするには、まずこの船を建造した川南(かわみなみ)工業という造船所のことから語り始めなけれはなりません。
 川南工業の創業者川南豊作(かわみなみとよさく)は、日露戦争の始まる直前の明治35年(1902)、富山県礪波(となみ)郡の農村に生まれました。県立富山水産講習所に学び、大正8年(1919)に設立間もない製缶工場に実習生として勤務を始めます。しかし、独立を志して退職、自ら工場を設立し成功すると、新たにソーダとガラスの製造事業を始め、コスト削減には船による大量輸送が必要と知って造船に目を向けます。
 昭和11年(1936)3月、川南社長は、長崎県の香焼島(こうやきじま)という所に12年間閉鎖されたままになっている松尾(まつお)造船所という工場があることを聞きつけ、直ちに視察に向かいます。陸軍将校が決起(けっき)し、首相官邸(かんてい)などを襲撃(しゅうげき)した、あの「二・二六事件」の起こった翌月のことでした。
 ここで、不思議な人と出会います。案内人をつけて荒れ果てた造船所に到着し、さっそく中に入ろうとした時です。
 「入っちゃいかん、ここは松尾さんの工場だ!」ボロをまとったような老人がそう言って立ちはだかります。事情を説明して、ようやく通してもらいましたが、聞けばこの老人、吉田三茂(よしだみつしげ)といって松尾造船所の守衛長(しゅえいちょう)をしており、閉鎖されてからも12年間恩ある松尾社長のため手弁当で毎日警備に来ているというのです。よく見れば服も守衛の服でした。
 この話に感動した川南社長は、直ち(ただち)にこの松尾造船所を買い取ることに決め、松尾孫八(まつおまごはち)元社長に顧問への就任を要請、吉田にも守衛長を任せることにします。
 このような人々で再建すれば必ずよい会社ができると確信したからです。吉田守衛長は不幸にして間もなく病に倒れて亡くなりますが、川南社長は社葬(しゃそう)をもって弔い(とむらい)、住まいの跡に碑(ひ)を立てて、その人徳を称えたのでした。
 松尾造船所では、直ちに昔の工員が呼び集められ、炉(ろ)に火が入り工場が生命を吹き返し始めました。川南社長も工場に泊り込んで再建を陣頭指揮(じんとうしき)し、わずか3ヶ月後の6月には、記念すべき復興初の第101番船“下松丸”(くだまつまる)の起工を行い、高らかに槌音(つちおと)が響き始めました。
 このころ、ソビエト連邦(現:ロシア連邦)は、カムチャツカ半島沿岸で使用する、音響測深儀(おんきょうそくしんぎ)を装備した耐氷型貨物船3隻を建造可能な造船所を探していました。そして再建間もない松尾造船所が、この船3隻を受注することになったのです。そして、その2番船が後に“宗谷”となる船だったのです。
 
川南工業の創業者 川南豊作社長
 
昭和14年に建てられた吉田守衛長の碑
 
復興した松尾造船所初の建造船“下松丸”の進水式
 
ソ連の船から日本の船へ
 昭和11年(1936)9月18日、松尾造船所はソ連通商代表部より耐氷型貨物船3隻の建造を受注、竣工予定を第1船が昭和12年(1937)6月末、第2、3船が同年9月末として、総額316万8千円で契約を締結します。
 自信を深めた川南社長は、その直後の9月27日、松尾造船所を含めて事業を統合し、資本金500万円で川南工業を設立しました。
 そして早くも1ヶ月後の10月31日、この耐氷型貨物船の第1船が川南工業松尾造船所(翌12年4月より、香焼島造船所と改名)の第106番船として、急ぎ起工されました。実質初受注の第105番船“第二青山(せいざん)丸”に続いてわずか2隻目の受注船です。続いて第2船も同じ31日に、第107番船として資材置き場に急遽(きゅうきょ)造成された船台(せんだい)であわただしく起工されました。この船が後に“宗谷”となる船だったのです。
 第107番船は、工場の関係者が取り囲む中、船台に据えられた(すえられた)キールに最初のリベットが打ち込まれました。喚声(かんせい)が上がり、工場が活気に包まれました。
 
第107番船の起工式。最初のリベットがキールに打ち込まれる







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