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2004年1月号 『中央公論』
北朝鮮経済はもはや死んでいる
深川由起子(ふかがわ ゆきこ)
(東京大学大学院総合文化研究科教授)
小泉訪朝と7・1措置
 日本では拉致事件報道にすっかり埋没しているが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は小泉訪朝直前、二〇〇二年の七月に自らも「一九四六年以来、最も大胆」とする経済措置を打ち出していた(以下ここでは7・1措置と称する)。これまで伝えられたところが正しければ主たる内容は、(1)大幅な公定価格改定と賃金引き上げ、(2)賃金決定方式の転換とインセンティブの強化、(3)計画の分権化、企業や工場の「自律的」運営拡大、(4)北朝鮮版外貨兌換券「パックントン」の廃止と為替レートの引き下げ、(5)配給制、社会保障制度の改定などであり、たしかに経済運営全般にかかわる広範なものであった。
 中でも目を引くのは(1)の点で、表(次頁参照)が示すように、米はキロ当たり八チョン(○・○八ウォン)から四四ウォンヘ五五〇倍、トウモロコシが四七一倍など食糧品の引き上げ幅が際立って大きく、電力六〇倍、生活用品二〇〜四〇倍、交通費一〇〜二〇倍などとなったほか、住宅や教育費の引き上げも報道されている。
 物価の上昇に合わせ、賃金も大幅に引き上げられたが、農民、炭鉱労働者、科学者では一〇〜二〇倍、軍人・公務員で一四〜一七倍などとなっており、近年のエネルギー重視と技術力重視のキャンペーンを反映した引き上げ幅となっている。賃金決定では労働時間や成果によって差をつけることが導入され、インセンティブが重視されるようになった。
 一方、(3)の点では企業や工場単位で一種の「独立採算」制が導入され、収益によって労働者への支払いも変動すること、輸出の三倍までの輸入権限を付与することなどが報じられている。さらに(4)の点では一ドル=二・一五ウォンだった為替レートが一気に一五〇ウォンに、一元=二五ウォンも四〇ウォンまで引き下げられた。(5)では配給制の廃止や、医療、教育サービスの有償化といった報道と、供給強化の報道が錯綜している。
 以上のように包括的な7・1措置と並行して、北朝鮮は中国との国境に近い新義州に経済特区の準備を進め、他方で韓国との協力による開城工業団地の開発にも乗り出してきた。前者は初代の特区長官に招いたオランダ国籍の中国ビジネスマンを中国が脱税容疑で逮捕したことで大きな挫折をみたが、後者は南北鉄道の連結とともに完成し、二〇〇三年十一月にも一〇〇〇名を超える韓国の企業人が三八度線を越え、陸路で訪朝している。このため、一部、特に韓国では同措置が「開放」とセットになった「改革」を模索したものとの希望的観測が浮上した。実際に北朝鮮の側でも最近ではしばしば「改革」という言葉を使用するようにさえなってきている。
表 北朝鮮の7.1経済「改革」措置 (単位:ウォン)
  単位 公定価格調整
調整前 調整後 引上げ幅(倍)
(価格引き上げ)
1kg 0.08 44 550
トウモロコシ粉 1kg 0.07 33 471
ディーゼル油 1kl 1 38 38
電力 1kWh 0.035 2.1 60
地下鉄料金 1区間 0.1 2 20
幼稚園入園料   3 50 17
家賃 平壌基準 0.03% 1m2 当たり2
(賃金)
生産労働者 110 2000 18
鉱業従事者 6000
貿易会社課長など 150 3000 20
(為替レート)
1ドル= ウォン 2.15 150
1円= ウォン 25 40
生産は伸びず
 ただし、約一年が経過した現在では同措置は北朝鮮経済に大きな改善をもたらすことにはならず、むしろ副作用が指摘されている。一つは最近の脱北者の証言に共通するように、生産の増大は起きず、依然として物不足が深刻化し、さらにインフレが進行し始めたことである。7・1措置は突き詰めれば労働力、資本などの投入を増やし、生産を増大させることを目標としていた。このためにまず、闇市場における「市場価格」を公定価格に取り込んで価格差を縮小し、さらには「成果主義」を取り入れた賃金決定や企業の裁量拡大によって生活のために離散していた労働力を公式(国営)部門に再投入しようとしたとみられる。
 このことは7・1措置以降も四十五歳未満の女性の商業行為を禁止して企業所や企業に勤務させようとしたこと、農民市場で販売の許可されていた米などの食糧と工業製品の販売を中止するなど、労働力の動員を図る動きとして続いてきた。ただし、動員されてもエネルギーや原材料の不足で生産は進まず、したがって、引き上げられたはずの賃金も支払われないため、結局、また生活防衛に向けた個人の「事業」に戻る者が跡を断たず、もくろみはあまり成功したとは言えなかったようだ。
 また資金面では、北朝鮮は非公式市場などを中心にドル化が進み、当局は二〇〇二年十二月には対外決済をドルからユーロに切り換えるなどしてドルの公式部門への回収を図っていた。しかしながら、ドル選好は変わらず、回収も進まなかったとみられる。そこで、今回は、さらに対ドルレートを引き下げたうえで二〇〇三年に入ってからは「人民公債」を発行し、ドルのみならず、家計に退蔵されたウォンの動員までが進められた。しかしながら、北朝鮮では一九九二年にも新券発行の際に一定以上の旧券の交換に応じなかった過去の例などが存在する。
 こうした経験に加え、極端な物価調整を目の当たりにしたことでインフレ期待も強く、資金を早いうちに物資に転換しようとする動きや売り惜しみの横行なども加わって物価の上昇が続いた。措置後、一年の間に多くの自由市場の物価は再び二〜三倍に達したといわれる。どの程度インフレが反映されているかはともかく、非公式市場における為替レートは引き下げ後も一ドル=四〇〇〜五〇〇ウォン、さらに二〇〇三年八月の闇市場では九〇〇ウォンに達したという報道がみられるまでになった。
闇市場は伸び、貧富の差は拡大
 次に、生産増大に向けた動員とともに流通面での「改革」も志向された。7・1措置後は一時期、米などの場合、国家供給所に国定価格で提供することが重視され、これ以外の工業製品の場合も国営販売店を経由するなど、むしろ流通管理を強化しようとする動きがみられた。しかしインフレの進行とともに国営供給所への販売は早晩、「市場」価格を下回るようになり、十分な供給を確保できないことから需要もまた拡大しないなど悪循環が続いて結局は立ち行かなくなった。このため、従来、米以外の食料品などに限定されていた「農民市場」は米や工業製品までを追加した「総合市場」として追認されることとなった。
 さらに貧富の格差がいっそう拡大しているという指摘も多い。7・1措置では、米など食糧品価格は極端な例としても、全体に物価の引き上げ幅のほうが賃金引き上げ幅よりも大きかった。措置以前に闇市場で既にきわめて高価な価格が成立していた財が、予定どおり公定価格で公式市場に再び提供され、また実際に賃金が支払われていれば、それでも生活の改善が多少は可能であったかもしれない。しかしながら、公式市場への提供は行われず、また賃金支払いも多くの場合、滞りがちであったため、大半の国民にとって生活条件はさらに悪化したとされる。反面、軍や政府の幹部関係者、医師や科学者など何とか賃金支払いが保障された層の生活条件は確保された。中国や韓国からの物資をうまく回す才覚を発揮する人々の存在も伝えられてきた。
 以上のほか、7・1措置以降は実際には税金と変わらない各種料金の納付が増え、家電使用料や、家屋に対する土地税、水道料、農地に対する使用料も増えている。このため、賃金が支払われ、また各種の負担がどの程度の環境となるか、またその算出過程などで蔓延する収賄の存在などにより、貧富の格差は以前に比べて複雑化したとみられる。また、「税」負担のみならず、かつては無料が基本であった医療や教育サービスも供給が滞り、実質的には有料と化しているのが実態であるとすれば、格差は人的資源の劣化にもつながる深刻な問題となりつつあるといえよう。
「改革」か「計画の営繕」か?
 以上のような7・1措置が発表されて以来、研究者の間ではこれが遅ればせながら中国やベトナムの「改革開放」に学んだものなのか、それとも北朝鮮が過去、経済困難に直面するたびにバラバラに繰り返してきた弥縫策をまとめたものにすぎないのか、をめぐって議論が続いてきた。
 前者の立場に近い意見の多くは、前述したように、この措置が小泉訪朝の直前に発表され、その後も韓国を対象とした金剛山・開城工業団地の特区指定などが続いたこと、自身の経験に基づく中国の後押しが陰に陽にみられたことなど、同措置が「開放」とセットで進められてきた点を重視する。たしかに外国人を行政のトップに据えた新義州の運営方法に加え、価格の実勢化やドルの集中、為替レートの切り下げ、賃金格差の認定を準備した7・1措置は、これだけをみれば外資導入をテコとした経済再建への期待を反映したものにみえなくはない。
 実際、対外経済関係の改善については失敗を繰り返しつつも、一九九〇年代の羅津・先鋒地域の開発以来、北朝鮮は経済特区については外部と遮断する形で比較的能動的に取り組みを続けてきている。対外経済関係の改善を本気で願うのであれば、国内経済にも一定の改革が必要、と考えるようになっても不思議ではない。
 しかしながら、7・1措置の報道を見る限りでは、全体にはむしろ疲弊が続く中で綻びの目立つ計画経済を立て直そうとしたという方が正確に見える。
 まず、何といっても価格を引き上げてはみたものの、「改革」初期の中国とは異なり、価格の自由化そのものが認められたわけではない。しかも原材料調達から生産、販売まで企業の裁量が認められる一方で、流通面では国営市場への集中が志向されてきた。公式製品を含めた「総合市場」が認められたのは価格調整が許されないため、時間の経過とともに再び闇市場価格が形成され、公式市場への商品集中が再度難しくなった結果にすぎず、意図したものではなかった。
 計画の「営繕」に失敗して「市場」を追認するのは、最初から「市場」を志向して改革を進めることとは根本的に異なる。なぜなら体制の意思の有無と政治的基盤は政策の継続を大きく左右するからである。「改革」当初の中国は、そもそも人口の八割近くが農村に居住する農業国であった。このため比較的価格の自由化が容易で、かつ増産インセンティブの働きやすい農業部門からの改革が農民の所得を上げ、国内市場を拡大させ、郷鎮企業の発展を可能とした。「開放」が次第に沿岸部を潤す一方、「改革」が農村で一定の成果を上げたことは都市への人口移動圧力を緩和し、「改革開放」の継続性に寄与したと考えられる。
 またベトナムの場合には伝統的な華人資本の存在などで農業部門、特に米には強い対外競争力があり、しかも市場移行においては国際社会の支援を手厚く受けることもできた。両国ともに「改革開放」の優先順位を自ら設計する余地は北朝鮮に比べてはるかに大きかったのである。
 これらに対し、寒冷地で農業資源にも恵まれない北朝鮮では農業の比重は小さく、肥大した軍事経済部門は旧ソ連型の司令統制によって長年、維持されてきた。比較的都市化率も高く、教育水準の高い同質社会であるだけに情報伝達も早い。このためインセンティブ改革の容易な農業部門から、そして体制への影響が少ない地方からの漸進的・実験的改革は困難であり「改革」が体制に与える圧力は中国やベトナムの比ではない。
 しかも体制という点では中国の場合には毛沢東からケ小平へという権力基盤の交代があり、党内の闘争は存在したにせよ、全く違う経済運営を試みる政治的余地も存在した。これに対し、世襲により神格化された権力継承を行ってきた北朝鮮の体制ではこれまでの経済運営、特に農業政策の失敗と軍事経済への傾斜の二つを自ら否定することは政治的に容易ではあるまい。結果として体制への影響を最小化できると思われるような対外プログラムについては比較的大胆な政策が打ち出せるものの、7・1措置のように国内政策面では戦術の転換にすぎず「計画の営繕」にとどまっているものと考える方が自然だ。
 ただし今回の措置で明らかになったのが、もはや相当の準備を重ね、十分な意図を持った措置をもってしても、もはや統制経済の「営繕」が不可能になりつつある、ということであるとすれば、むしろ状況は厳しい統制経済の下にあった時代より深刻、といわねばなるまい。
 露呈されたのはドル化はもはや止められず、人民公債によるウォンの動員もままならず、軍を除いて公的部門への労働力動員にも限界があるという姿であった。価格を調整してもインフレ期待が強まっただけであり、国営市場の正常化もまた、ならなかった。最大の目標であった動員の難しさの根底に政策不信の深い浸透があるとすれば、たとえ今回の措置によって多少、生活が改善する人々が発生し、短期的には亡命が相次いだ周辺のエリートをつなぎとめることができたとしても、従来はなかった「格差」の浸透はやがては社会全体の不安定要素を一層増幅させる可能性を否定できないだろう。
 意図した市場化ではないまま、実態を受け身でその都度、追認する状態を続ければ、政策信任はますます失われ、一貫性を欠いて次第にイデオロギー上の辻褄を合わせることも困難となるかもしれない。結果が多少似ていたとしても、「営繕」の失敗は市場への移行を意味するのではなく、むしろガバナンスそのものの危機につながる可能性に留意しておく必要があるといえよう。一九九四年の核開発危機に比べ現在の危機がはるかに深刻になっているように、経済面においても時間は北朝鮮の味方ではなかったのである。
対外経済関係と日本というカード
 おそらく北朝鮮自身も痛感しているとおり、7・1措置をめぐる手詰まり感が今後に顕在化した場合、抜本的打開の道は対外経済関係の改善に期待せざるをえないだろう。実際、「苦難の行軍」を続けてきた北朝鮮経済の「小康」状態が伝えられる背景には、韓国との貿易や直接投資受け入れがそれなりに進んできたことが挙げられる。
 7・1措置により必死に動員した家計の退蔵ドルが、わずかに一〇億ドル程度とみられる点を考えれば、北朝鮮の対韓国貿易六・四億ドル(二〇〇二年)は極めて重要な外貨源となっている。韓国は日米とともに北朝鮮の核開発放棄を迫る一方、朝鮮半島における有事と北朝鮮のガバナンスが失われるような事態は何としても避けたい、とし中国とともに北朝鮮を支援し、南北交流を維持してきた。韓国がドイツの経験から学んだことは絶対に性急な一対一の通貨統一などを行わず、かつ国境を越えた労働力の移動を防ぎつつ、時間をかけた交流から統合に進むしかない、という点である。日米との関係がぎくしゃくしようともこれを譲る可能性は少ないといえる。
 ただし韓国だけでは負担に限界があることもまた事実で、北の側もこれをよく認識している。現状の「小康」状態がいつまで継続するかの保証はない。これまで北朝鮮と世界の対話が継続してきた背景には、経済的破綻にもかかわらず体制が崩壊せず継続してきたことがあった。しかしながら、時間の経過とともに計画経済のガバナンスが崩壊するようであれば、「体制の弱さ」が新たな北朝鮮のリスクとなる可能性も排除できない。逆にいえば、北朝鮮経済の活路がますます対外経済関係の改善にしか存在しなくなれば、日本が握るカードの価値は大きくなる。「次のリスク」を見極めることは日本には欠かせない視点である。
 そもそも日々、日本のメディアの洪水に押し流されていると、米国と日本の関心は大きく異なるという点は見落とされがちだ。米国の北朝鮮利害はしょせん、一にも二にも核拡散の防止にあり、拉致家族問題の解決でも、北朝鮮経済の破綻でも、朝鮮半島の混乱でもない。十一月に筆者が訪れたワシントンではもはや現状維持(status quo)というものは存在せず、時間の経過はそのまま核の危険度が上がることである、とする意見が専門家の大半の意見であった。
 しかし、他方でイラク情勢の展開にともないネオコンの立場もまた微妙であり、すべての計画放棄と徹底した査察実施を条件に北朝鮮への援助を申し出る「ビッグ・ディール」を構想する政策グループもごく少数ながら存在する。核拡散さえ止められるのであれば、あらゆる妥協は可能、とする点で両者に本質的な差があるわけではない。どこかに多様な見方を残しておくことで最後の柔軟性を確保する米国の伝統的対外構造は、たとえブッシュ政権下の北朝鮮政策においても変わりがないようにみえる。
 こうした米国と比較するとき、拉致問題の文字だけで思考が完全停止し、感情論に走りがちな現在の日本は、はるかに硬直的だ。感情論は冷静な外交を不可能にし、かえって拉致家族問題解決への糸口を失わせ、何らかのきっかけで米国のアプローチが大きく変わった際に韓国や中国、ロシアからはもちろん、米国からも取り残されるリスクを日本に残すにすぎない。7・1措置が対外開放しかなくなった北朝鮮の「始まり」となるのか、あるいは「終わりの始まり」となるのかはまだ定かではない。しかしながら、もはや韓国の在中国領事館業務が不可能となるほどの大量脱北者が出始めている現実は経済ガバナンスの崩壊に進む可能性を示唆し始めているといえよう。
 経済ガバナンス崩壊にともなう北朝鮮の混乱、あるいは日本にとって第三の輸出市場である韓国の混乱は、引っ越すことのできない近隣国として、さまざまな問題を新たに提起してくるだろう。日本にとっての朝鮮半島問題は核拡散と安保問題だけではないし、拉致問題だけでもない。多様なシナリオを想定・準備する過程で冷静に日本の「国益」を再定義し、行政のレベルではシナリオに沿って対応を点検しておく作業が必要となっている。7・1措置が「始まり」に転化するなら対応は難しくない。しかし「終わりの始まり」となるならば対応はずっと複雑になるからだ。われわれは長い歴史の上で、日本が朝鮮半島の混乱を他人事として座視できたことはほとんどなかったことを想起し、あらゆる事態に備える努力を欠かすことができない。
著者プロフィール
深川 由起子(ふかがわ ゆきこ)
1958年生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業。米エール大学大学院修了。
長銀総合研究所主任研究員、青山学院大学助教授を経て現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。朝日新聞アジアネットワーク客員研究員。
 
 
 
 
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