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◆日本パスポートの使い途
 筆者の調べでは北朝鮮はこれまで少なくとも九通の日本旅券の偽造を行なっている。偽造の手口は大きく分けて二つある。第一は、密入国した工作員が実在する日本人になりすまして、堂々と日本の役所からパスポートを交付されるケースだ。本当に行方不明の人間を見つけ出して行なう場合もあれば、身寄りのない日本人を北朝鮮に拉致して行方不明にしてしまう場合もある。
 前者の例としては、一九八五年三月警視庁公安部が摘発した西新井事件がある。主犯格の工作員、自称「小住健蔵」は、七〇〜七一年頃日本に密入国し、在日朝鮮人の金錫斗に近づき、北朝鮮に密出国させるなどの活動を展開した。一方、「小住」は、七三年頃に福島県に本籍があり東京・山谷に住んでいた「K」さん(当時三十五歳)になりすまして「K」名義でパスポートのほか運転免許証を取得した。Kさんが一九七六年に死亡するまでそのパスポートで計三回海外旅行をした。
 その後、一九七九年頃、北海道に本籍があり、六一年頃から行方不明になっていた「小住健蔵」さん(一九三三年生まれ)になりすまし、やはりパスポートと運転免許証を取り、ソウル、パリ、香港などへ六回も出入国を重ねていた。
 次に、日本人を拉致してそのかわりになりすましたケースとしては、一九八五年六月、韓国国家安全企画部が摘発した、北朝鮮工作員、辛光洙を主犯とする事件がある。同部の調べによると、辛は七三年に日本に密入国をして以来、十余年間で六回も北朝鮮との間を往復し、在日朝鮮人を工作員として包摂する一方、韓国についての情報を集めるなどという任務を行なっていた。その辛に、金正日朝鮮労働党書記から「日本人を拉致して北に連行し、日本人として完全に変身した後、対韓国工作活動を続けよ」という指示が下った。
 それを受けて八〇年四月、工作員として抱き込んでいた李三俊、在日朝鮮人大阪府商工会理事長らに「(1)未婚者で親類縁者がないこと、(2)日本の旅券を一度も発給されたことがなく、前科もなく、顔写真や指紋が当局にとられていないこと、(3)借金や銀行預金がないこと、(4)長期間行方不明になっても騒がれる心配がないこと、などの条件にあてはまる、四十五歳から五十歳ぐらいの人物を探せ」と指示を下した。これを受けた李三俊理事長は、自身の経営する大阪市生野区の中華料理店にコックとして働いていた原敕晁さん(当時四十三歳)に目をつけた。原さんは独身で身寄りもなかったので前記の条件に適ったのだ。
 八〇年六月、原さんを貿易会社の社員にしてやるとだまして、宮崎県青島海岸に連れて行った。そこで待っていた北朝鮮工作員四人と辛らが襲いかかり、両手をしばって口をふさぎ、布袋に入れてからゴムボートに乗せて工作船に運び、辛が同行して北朝鮮に拉致した。辛は北朝鮮で原さんから経歴、家族構成、過去の生活などをきき出し、完全に原さんになりすました後、八〇年十一月に日本に再び密入国し、原さん名義でパスポートばかりか運転免許証、国民健康保険証まで交付を受け、たびたび海外旅行をしながら対韓国工作をつづけた。八二年三月には金正日書記の指令を立派にやり遂げたとして勲章までもらっている。
 八五年二月やはり「原敕晁」としてソウルに潜入したところ、仲間の工作員が自首したために韓国当局に逮捕された。原さんの消息は八〇年六月以来まったく不明であるが、その身内の一人はこの安企部の発表がある直前の八五年六月中旬に法務省から「原さんは北朝鮮で無事にいる」という連絡を受けてびっくりしたと証言しているのである(『週刊朝日』八五年七月十二日号)。
 原さん以外にもう一人、パスポートを偽造するため北朝鮮に拉致されたと思われる日本人がいる。三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さんである。一九七七年九月十八日親兄弟とは音信不通でひとり暮しをしていた久米さん(当時五十二歳)は職場の同僚に「いま能登半島の温泉にいる」と電話をかけてきて以来、行方不明になっている。
 ところが翌九月十九日に久米さんが泊った旅館の主人の通報で、久米さんをそこまで連れてきた在日朝鮮人Q[李秋吉]が、外国人登録法違反で逮捕された。取り調べの中でQは、「北朝鮮工作員から『五十二、三歳の日本人男性で身寄りのない者を北朝鮮に拉致する。頭の程度は問わない。戸籍謄本を取らせて九月十九日夜、能登町宇出津海岸で待っている工作員に引き渡せ』と指令を受け、金に困っていた久米さんに近づき、密貿易を手伝わないかとだまして、戸籍謄本を取らせて宇出津海岸の旅館まで連れてきて、昨夜、海岸に待っていた北朝鮮工作員に久米さんを渡した」と自白したというのである(『週刊朝日』八五年七月十九日号)。乱数表、暗号表などの証拠も押収されている。
 久米さんに戸籍謄本まで取らせていることからしても、Qが逮捕されなければ先に見た辛と同様に、北朝鮮工作員が久米さんになりすましてパスポート等を取ろうという計画があったことはほぼ間違いないだろう。
 日本人を拉致してその人になりすますという手口を用いるためには、植民地時代の日本語教育を受けた世代の工作員以外は困難だろう(一九五九年以降帰国した在日朝鮮人は日本で逃亡する恐れが大きいので不適格だという)。だから、一九八〇年の時点で四十五〜五十歳の人間を拉致せよという指令が出ているのだ。
 もう少し若い工作員に持たせるパスポートは、別の手口で偽造される。北朝鮮が自国で日本旅券を作る方法で、にせパスポートということだ。ただし、パスポートにはにせ物を作られないように紙や印刷方法に様々な工夫がなされている。また旅行番号をどのようにつけているのかということは秘密になっている。したがって、にせパスポートを作るという作業はかなりの資金と技術が必要となるたいへんなことらしい。西側のある国の公安関係者の推計によると、大韓機爆破犯の金勝一、金賢姫が持っていたもの位精巧なにせパスポートを作るためには、少なくとも数千万円はかかるという。国家ぐるみで取り組まなければなかなか精巧なにせパスポートは作れないのだ。
 これまで判明している北朝鮮が作ったと思われる、にせ日本旅券は次の七通だ。(1)「蜂谷真一」名義→大韓機爆破犯金勝一が八四年八月から使用、(2)「蜂谷真由美」名義→同事件犯金賢姫が八四年八月から使用、(3)「高橋けいこ」名義→金賢姫と一緒に工作員教育を受けた金淑姫が八六年八月からマカオで使用、(4)「中尾」名義→よど号ハイジャック犯、柴田泰弘が八八年五月日本国内で逮捕された時に使用、(5)ヨーロッパで失踪したAさんのパスポートとナンバーが酷似しているもの→柴田が日本入国前、海外活動用として持っている、(6)ナンバーMG0209115、Aさんのものと二ケタちがい→日本赤軍コマンド、戸平和夫が使用、(7)ナンバーMG0209123、Aさんのものと一字ちがい→同じく戸平和夫が使用。
 にせパスポートを作るためには、莫大な資金とともに、人的事項に関するそれらしい情報が不可欠だ。(1)、(2)を偽造するにあたっては、前述した工作員「小住健蔵」の指令を受けて動いていた在日朝鮮人、李京雨(日本名宮本明)が実在する蜂谷真一さんに近づいて人的事項を調べたことは、大韓機爆破事件の際、日本でも広く報ぜられた。李京雨は八三年八月(にせパスポートが使われる一年前にあたる)、蜂谷さんに一緒に東南アジア旅行に行こうと誘って、パスポート申請を代行してやっている。この際人的事項を調べ、北朝鮮の組織に通報したのであろう。事件が報道された時、関係者の間では、よく蜂谷さんが東南アジア旅行中に拉致されなかったものだという声が上っていた。
 (3)は、使われた時期からみて、今回問題になった女子学生Bさんのパスポートが、偽造の材料となったことも考えられる。
 ハイジャックをして北朝鮮に渡った柴田が、国外に出るためには当然、北朝鮮当局の指令あるいは承認がなければならないと考えるのが常識である。したがって、(4)、(5)は北当局が柴田のために偽造してやった可能性がきわめて高い。特に、後述するように、北朝鮮は柴田が逮捕された八八年、ソウルオリンピックを妨害するために、赤軍派などの日本人を使ったテロを計画していた疑いが濃い。(6)、(7)は、北朝鮮がよど号犯らのルートで日本赤軍とも連携していた証拠ともいえよう。(5)、(6)、(7)を作る際は、当然のこととしてAさんの持っていた本物のパスポートがたいへんよい材料を提供していることだろう。
 これまで書いてきたことは次のようにまとめられる。北朝鮮はこれまで十五人の日本人((1)石川県の漁船員三人、(2)福井・新潟・鹿児島県のアベック三組六人、(3)三鷹市役所警備員の久米さん、(4)大阪市中華料理店コック原さん、(5)「恩恵」と呼ばれる女性、(6)今回問題となったヨーロッパで失踪した三人)を拉致した疑いがたいへん濃厚である。
 北朝鮮が日本人を拉致する目的は次の三つが考えられる。第一は非合法の工作活動を目撃されたケース、第二は工作員の日本人化教育の教師として使うため、第三は工作員が使用する日本人パスポートを偽造するため、である。前記十五人のうち、(1)は第一のケース、(5)は第二のケース、(3)、(4)は第三のケースだと断定できよう。また、(2)は第二のケース、(6)は第二と第三の両方である可能性が高いといえるだろう。
 つまり、今回問題となった、ヨーロッパで失踪し北朝鮮から手紙を送ってきた三人の日本人学生は、工作員の日本人化教育と工作員の使う偽造パスポート作りのために、北朝鮮が国家ぐるみで拉致、拘束している可能性が高いということだ。
 最後に、日本人を拉致するというたいへんな危険を冒して北朝鮮が何のために工作員に日本人化教育を施し、偽造日本人パスポートを持たせて活動させているのか、ということを考えてみたい。日本には朝鮮総聯という物心両面で必死になって北朝鮮に仕える組織がある。それなのになぜ、日本人になりすます必要があるのか。
 この問題を解く鍵は、一九七四年八月十五日に起こった文世光事件にある。事件の概略は次の通りだ。日本国内で活動していた北朝鮮の工作員が日本生れで日本内で反朴政権運動に加わっていた在日韓国人、文世光に接近し、北朝鮮の工作員として教育し、韓国に渡って朴大統領を狙撃するよう指令を与えた。
 文世光は知り合いの日本人夫人と肉体関係を結び、彼女の夫の旅券を入手し、大阪府警の交番から盗まれた拳銃を持って韓国に入国。八月十五日に黒塗りの大型乗用車で乗りつけ高位層の関係者を装って警備の目をくらまし、独立記念式場に潜入して朴大統領を狙撃しようとし、大統領夫人を射殺して現場で逮捕され、当局の取り調べで以上の経緯を自白し、裁判の後死刑に処せられる。この事件に対して日本のマスコミ、世論は「疑問点が多い、KCIAの陰謀ではないか」という見方が支配的となる。一方、韓国の世論は、日本を舞台にして展開されている北の対南工作活動を座視している日本の責任だという意見が強まり、その直後の日本外相の不用意な発言も重なり、反日デモが連日起きた。デモ隊は、ソウルの日本大使館に乱入し日章旗が引きずり下され、ガラスが割られるという事件にまで発展。後日伝わってきたところによると朴大統領は一時、日本との断交をも検討したという。
 
 
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