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◆新しい指導体制の形成
 黄長Y書記の亡命事件に関していえば、北朝鮮からの初めての高級幹部の亡命であったために、韓国と日本のマスメディアには、いずれも事態を過大評価したところがある。金日成総合大学の総長、イデオロギー担当の党書記、最高人民会議議長などを歴任したが、亡命前の黄書記は実質的な意味での権力者でも、偉大な思想家でもなかった。その亡命も指導部内の権力闘争の結果であったというよりは、彼自身が金正日時代のイデオロギーや指導体制から排除され、公開的に批判されることを恐れた結果にすぎなかった。
 また、それに続く崔光国防相と金光鎭総参謀長の相次ぐ死去も、何らかの政治的理由によるものではない。何よりも、もし二人の軍要人が現体制に反旗を翻したとするならば、金正日書記は「裏切り者」のために盛大な国葬を挙行し、その遺体を愛国烈士陵に祭ったことになるのである。また、もし二人が反体制派によって殺害されたとするならば、国防相と総参謀長が殺害されたのだから、これは立派なクーデターである。しかし、それを思わせるような異変も、軍隊の移動も伝えられていない。
 要するに、黄書記の亡命事件は「御用学者」が「御用済み」になり、粛清を恐れて逃亡したにすぎなかったし、その黄書記が亡命後に語っているように、金日成存命中に最高司令官と国防委員長に就任した金正日書記は、金日成死後、将軍たちの大規模な進級と厳しい監視を通じて、軍部を完全に掌握しているのである。黄書記はまた、北朝鮮指導部内に「強硬派と穏健派の対立」が存在するとの見方を完全に否定し、「一人独裁下には、“派”という概念もない」とか、「金正日を拒否する勢力はない」と断言している。
 もちろん、北朝鮮指導部の団結がそれほど強固なものであるのかについて、異論がないわけではない。過渡期とはいえ、金正日への忠誠心や党・軍・民の団結を訴える宣伝扇動や思想運動が熱心に展開され、金正日書記と少数の側近に権力が集中されているのは、むしろ、広汎な政治的団結を維持することの困難性をも示しているとみるべきだろう。本年二月の金正日誕生五五周年の慶祝行事でも、「金正日同志に対する絶対的な崇拝心であり、透徹した領袖決死擁護精神である」赤旗思想が掲げられ、党・軍・民の「三大一致」を要求する「(金正日同志の)独創的な軍重視思想」が強調された。
 しかし、金日成死後三年を経て、ようやく金正日書記を中心とする「革命の最高首脳部」が輪郭を現し、新しい指導体制が形成されつつある。実妹である金慶喜とその夫である張成澤(党組織指導部第一副部長)は別格として、書記局では崔泰福、金己男、金国泰、人民軍では次帥の趙明録(総政治局長)、金永春(総参謀長)が金正日体制の核心勢力だろう。そのほかに、呉克烈(党作戦部長)が金正日書記および労働党と人民軍のパイプ役になっている。また、組織的には、金日成主席死去三周忌中央追悼大会で、人民軍と労働党に続いて、社会主義青年同盟(崔龍海)だけが代表演説を担当したことが、青年組織の重要性を示すものとして注目される。
 今後のスケジュールとしては、これらの核心勢力を中心にして、労働党と人民軍の若返り人事を断行した後、一〇月一〇日の労働党創立記念日と前後して、金正日書記が正式に労働党総書記に就任するとみるのが順当だろう。現在、それを可能にするために、国際環境を整備し、食糧を調達することに全力を尽くしているが、かえって正式就任の実現が国際環境を改善し、食糧調達を可能にするという側面も存在するからである。たとえば金正日が労働党総書記に就任すれば、江沢民主席の北朝鮮訪問が実現し、これまで以上の中国からの食糧援助が約束されるに違いない。
 ただし、国家主席への正式就任は、建国五〇周年記念日に当たる明年九月九日前後まで延期される可能性がある。また、懸念されている旱魃の被害が深刻化したり、潜水艦事件や黄長Y亡命事件のような不測の事態が発生し、再び金正日書記の労働党総書記への就任が困難になるようなこともありえなくはない。しかし、そうなれば、それが政治危機の出発点になることは、すでに指摘した通りである。
 
 
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