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産経新聞朝刊 1991年5月16日
写真指さし「この人です」
「先生に間違いない」 金元死刑囚 16枚の中から迷わず
 
 「私の先生は、この人に間違いありません」―。大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫・元死刑囚(二九)は十五日、日本側捜査当局が持参した十六枚の写真の中から、埼玉県出身で、失跡当時東京都豊島区に住んでいたA子さん(三五)の写真を選んだ。爆破事件発生発生から約三年半ぶり、A子さんの失跡から十三年ぶりに、恩恵が実在の人物であることがわかった。二人の幼い子供を託児所に預けたままら致された可能性の強いA子さん。“教え子”に望郷の念をたびたび語っていたA子さんは今、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)でどんな生活をしているのか。
 A子さんの家族は警察の照会に対し、「恩恵」であることを否定していたが、新たな有力情報をもとに、再度確認を求めたところ、四月末になって認め、公安当局は高校時代の写真も入手した。
 警察庁の漆間巌・外事一課長や埼玉県警捜査員ら計四人が十四日、この写真を持って韓国に渡った。十五日午前中、ソウル市内の施設で、国家安全企画部のメンバー三人が立ち会う中で事情聴取が行われた。
 韓国側の捜査方法に従い、日本側は持参した十六枚の女性の写真を一枚ずつ金元死刑囚に手渡し、確認を求める作業に入った。写真は信用性を高めるため、A子さんに似たような女性の写真を織り交ぜた。
 まず、最初の写真。少し迷った末、机の手前に置いた。二枚目、三枚目…。明らかに違うので机の前方に置いていく。
 そして、七枚目を手渡した時、「あっ」と声を上げた。六、七秒後、彼女はせきを切ったように言った。「ウンヘ(恩恵)先生を若くして、太らせれば間違いありません」
 日本側が用意したA子さんの写真は十七歳当時のもの。A子さんは二十二歳の時に失跡し、金元死刑囚の日本人化教育係にあった時は二十五、六歳だった。
 日本側の聴取は、今回で四回目。今回、新たな恩恵情報を思い出した。
 「(北朝鮮に)連れて来られたのは夏だったのよ、と彼女はいってましだ」「船で連れて来られる時、狭い所に押し込まれ、食べ物もないし、などと話してました」。漆間課長らは、改めて記憶力の確かさに驚いたという。
 
 金賢姫きょう会見
 
 【ソウル十五日=黒田勝弘】韓国の情報機関、国家安全企画部も十五日夜、記者会見し、日本の警察当局が「李恩恵」の身元を確認したと発表し、これに関し金賢姫・元死刑囚が十六日午前、あらためて記者会見すると明らかにした。
 金元死刑囚は、身元を写真で確認した後、上気した表情で「大変うれしい。一日も早く無事に日本に帰ることができ、あんなに会いたがっていた子供と再会できるよう祈っています」と語っていたという。
 
 失跡当時 池袋のキャバレーに 「売れっ子」と期待…
 
 A子さんは失跡当時、東京・池袋のキャバレー「ハリウッド」に勤めていた。関係者によると、A子さんは池袋の別のキャバレーに三、四年勤めた後、昭和五十三年三月からこの店に移り、歩いて二十分ほどのアパートに住んでいたという。
 店では「ムードのある女性で売れっ子になる」と期待され、日給一万円のほかに、五千円程度のチップを受けていた。
 店長によると、この年六月ごろ、A子さんが当時三歳の男の子と、一歳の女の子を預けていた新宿区高田馬場にあるベビーホテルから「引き取りに来ないが、どうしたのか」と店に連絡が入り、初めて失跡がわかったという。
 店長は埼玉県内に住んでいたA子さんの兄に連絡して、子供を引き取ってもらい、アパートを訪ねると、部屋は、台所の流しに出前のどんぶりが残されたままで、近くに買い物にでも出ているような印象だったという。
 
 
 
 
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