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読売新聞朝刊 2003年2月8日
警察庁「北朝鮮シフト」 数百人の工作員… 活動把握へ態勢作り
 
 北朝鮮危機の高まりに歩調を合わせ、警察の警備、公安部門が「北朝鮮シフト」ともいえる捜査態勢を取っている。その背景には、数百人もの北朝鮮工作員が潜入している疑いが強いのに、実態がほとんどつかめない現実がある。警察当局が抱く危機感は、これまで慎重な発言に終始していた警察トップが、記者会見でスパイ防止法の整備の必要性を示唆するところにも表れている。(編集委員 清武英利、社会部 山本広海)
 ◆突如消えた「A3放送」 
 〈中国の活動などの監視にあたる人員を極力減らし、北朝鮮による国内の工作活動の捜査に重点を置くこと〉
 警察庁警備局が昨年九月下旬、こんな指示を出していた。極秘指示を受けたのは、アジア諸国の諜報(ちょうほう)活動の監視と取り締まりにあたっている警視庁外事二課など全国の外事部門。日朝首脳会談で、北朝鮮の金正日総書記が、日本人拉致を認めた直後のことだった。
 北朝鮮による国家的な犯罪が明らかになったことで、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)や在日社会の動揺は避けられない。闇の中にあった工作員組織や非公然活動が表に出てくる可能性もある――警察当局にはそんな判断があった。捜査を強化したのには、もう一つ、「スパイ天国」とまで言われる日本国内の活動がさらに、とらえにくくなっていたこともあった。
 警察庁警備局が、「A3放送」と名付けた北朝鮮のラジオ放送がある。
 「A」は、英語の「Amplitude modulation(AM放送)」を示し、「A1」は通常のモールス信号、「A2」は中波のラジオで聞けるモールス信号、そして「A3」は五けたの数字を朝鮮語で読み上げる特殊な中波放送だ。
 警察当局は、この放送で流れる五けたの数字一つ一つが、日本に潜む北朝鮮工作員一人一人に指示を伝える暗号とみる。暗号の数が百あれば、工作員も百人いるという分析だ。そのA3放送が、一回の放送で読み上げる暗号数は、一九七〇年代から年々増え続け、九〇年代後半には六百から八百を数えた。
 だが、二〇〇一年一月以降、全国各地の警察の傍受施設は、A3放送を全く傍受できなくなった。警察の解析力が進歩したため、暗号電波を使うのをやめたと指摘する警察幹部が多い。
 ◆工作指示は万景峰号で 
 暗号電波に代わって、工作員への伝達手段になったのが、電子メールと、新潟港を寄港地とする北朝鮮の不定期貨客船「万景峰(マンギョンボン)’92号」(9672トン)だった。
 その実態の一端が、警視庁公安部が先月、摘発した万景峰号スパイ事件で明らかになった。四九年に密入国し、在日朝鮮人の男性になりすました北朝鮮工作員(72)は、万景峰号内で朝鮮労働党統一戦線部の指令書を受け取り、五人以上の補助工作員を率いて対韓国工作活動をしていた。
 一方で、万景峰号は、常に五人以上の朝鮮労働党幹部が乗り込んでおり、朝鮮総連幹部らを招いて指示を下す「船内招致指導」にも使われていた。
 昨年十一月に新潟港に入港した万景峰号には、日本政府から「各地の組織に指示する」として入国を拒否されていた統一戦線部の姜進哲(カンジンチョル)・幹部が乗船していた。姜幹部は上陸しなかったが、万景峰号には朝鮮総連幹部が乗り込んでおり、船内で総連運営の指示が与えられたと、新潟県警は見ている。
 ◆難民「20万」対応は困難 
 工作員の部屋から押収された統一戦線部の指令書には、男の名前の横に「17」で始まる四けたの数字がスタンプで押されていた。この数字は、工作員番号を示すコードナンバーで、配下の補助工作員にもつけられていた。
 補助工作員のコードナンバーには「8」や「9」から始まるものもあった。公安部では、コードナンバーの数字は、けたごとに分類などを表し、数字はそのまま工作員数にはあたらないが、これまでの捜査や工作員の供述などから、日本に潜伏する工作員は数百人に上るとみている。ただ、その警察当局も、潜伏する北朝鮮工作員の活動をほとんど把握できていない。
 警察庁幹部が恐れる事態がある。朝鮮半島有事の際に、半島から大量の避難民が押し寄せ、それと呼応して「スリーパー」と呼ばれる潜伏工作員が活動を始める――そうなったら、現在の警察力では対応できないと、幹部は言う。
 押し寄せる避難民の数は、九四年に法務省が少なくとも十万人と想定し、当時の内閣安全保障室が「大量避難民対策」マニュアルを作ったこともあった。警察庁では「今ではその倍の二十万人と想定した方が現実的だ」という。だが、そうした事態に対して、警察庁や防衛庁、法務省、海上保安庁などが連携して研究や準備を進める動きはない。
 「やらなければならないとは思うが、権限も限られているので動きにくい」「九四年の対策マニュアルがあるので、それほどあせる必要はない」――危機が迫っていることは承知していながら、各省庁の足並みは依然、そろわない。
 ◆行政・法に盲点 
 ■住民票の取得に本人確認せず スパイ行為は刑事責任なし
 日本の行政システムや社会慣習の盲点を突いた工作員の犯罪に、「背乗(はいの)り」がある。主に、ホームレスなど身寄りのない人になりすまして潜伏するもので、警察庁は、背乗りを防ぐため、昨年七月、総務省に対し、住民票の取得などの際に本人確認を徹底するよう文書で要請した。
 全国の市町村の住民課では、住民登録や印鑑証明の届け出にあたって、身分確認をほとんどしていない。過去の背乗り事件では、これに目を付け、本人と偽って住民登録や印鑑登録をした上で、住民票や印鑑証明の交付を受け、運転免許証やパスポートを取得していたことが明らかになっている。
 米国では同時テロ後、中東地域からの入国者を対象に、入国審査時に、指紋押なつや顔写真の撮影を義務付ける制度を導入した。同じ人物が複数の偽造パスポートを使って、出入国を繰り返すことを防ぐことなどが大きな狙いだ。それに比べると、日本はようやく、工作員が入り込む盲点をふさぎ始めた段階だ。
 「万景峰号については、政府内部で寄港を制限する動きが出てきたが、工作員をどう封じるのか、真剣に論議する時期に来ている」と警察庁幹部は言う。
 ◆スパイ防止法、トップが示唆
 「日本が外国の工作活動の舞台になっていた。今後、何をするべきなのか、おのずから結論が出るはず。法的な問題も考える必要がある」。警察庁の佐藤英彦長官は先月三十日の定例会見で、そう述べた。スパイ防止法の必要性を示唆する発言は、警察トップとしては異例だ。
 万景峰号事件で摘発された工作員は、来週中に、刑法の公正証書原本不実記載容疑で書類送検される。だが、罰則は、五年以下の懲役、または五十万円以下の罰金に過ぎない。在日朝鮮人になり代わって外国人登録証を受けていたという容疑で、韓国の協力者に対して工作活動をしていたというスパイ行為については、今後も刑事責任を問われることがない。
 
 写真=報道陣と総連関係者らが見守る中、入港する万景峰号(先月15日)
 写真=万景峰号スパイ事件の工作員が住んでいたマンション(東京・中野区で)
 
 
 
 
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