毎日新聞朝刊 1999年12月14日
記者の目 村山訪朝団 評価できる政党外交=与良正男(政治部)
◇正常化、外務省の出番だ
村山富市元首相を団長に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問した超党派訪朝団と朝鮮労働党との合意により、1992年秋以来中断していた日朝国交正常化交渉が再開する見通しとなった。
90年9月、交渉の道を開いた故金丸信・自民党元副総裁と社会党の田辺誠副委員長(当時)らの訪朝から9年余。私は「金丸訪朝団」を同行取材し、「戦後の償い」を認めて「土下座外交」と非難されていた真っただ中、本欄で「それでも道を開いた点を評価する」と書いて、多くの読者から「なぜ、あんな理不尽な国に……」と批判をいただいた経験がある。
同じおしかりを受けそうだが、その気持ちは今もそんなに変わらない。村山訪朝団も北朝鮮ペースだった印象が強いが、新たなスタートに立ったと見たい。次は政府・外務省の出番であり、むしろ、大切なのは今後である。
私なりに、この9年間を振り返ってみたい。
「風穴どころか扉が開いちまった」
金丸氏が訪朝後、自慢げに語った姿を思い出す。北朝鮮は「朝鮮半島統一」をスローガンとし、当時、北朝鮮、韓国がそれぞれ日本と国交樹立することは「半島分断の固定化につながる」と拒んでいた。それが、訪朝団に「政策を変えた」と宣言し、国交正常化交渉を始めたい、と言い出したのだから、驚いたのは金丸氏だけではなかった。随行していた川島裕・外務省アジア局審議官(現事務次官)も興奮していたと記憶する。当初は、北朝鮮にスパイ容疑で抑留されていた第18富士山丸の船員が釈放されれば、大成功と言われていたのだから。
しかし、その後、私が得た証言によれば、実は北朝鮮側は「金丸氏が訪朝すれば、こうした提案をする」と、ごく一部の関係者に事前に伝えていたという。金丸氏は当時の最高実力者。ソ連という後ろ盾を失いつつある中、求めていたのは日本からの「補償」であろう。「人情家・金丸氏」を、「船員釈放カード」で揺さぶったと言えなくもなかった。
続いて「一郎、『お前に来てほしい』と言っている」と金丸氏が要請し、翌月、訪朝したのが時の自民党幹事長、小沢一郎・現自由党党首。そして、翌91年初め、招こうとしたのが、大蔵省に大きな影響力を持つ竹下登元首相だった。
結局、竹下氏は行かなかった。だが、北朝鮮は、それだけ日本国内の政治事情を熟知しており、したたかだということだ。北朝鮮側からすれば、国=現体制を守るためには、それは、当然のことでもあろう。
一方、外務省は、そのころ、国交正常化に慎重だった。当時は米国が北朝鮮に大きな関心を示していなかった事情もあったように思う。ここに中国との関係正常化を「米国に先を越された」と悔しい思いをしていた金丸氏ら(歴史に名を残す名誉欲もあったろうが)と相違があった。結果、北朝鮮側は「米国と協議すれば日本はついて来る」と踏んで、対米協議重視に切り替えた、と私はにらんでいる。
北朝鮮の核開発疑惑と朝鮮半島危機。カーター元米大統領の訪朝による危機回避。そしてテポドン発射と米朝協議、金大中(キムデジュン)・韓国大統領の太陽政策。北朝鮮と「敵対」するよりも、ミサイル発射や核開発を何とか抑止し、「共存」する方向に進みつつある、その後の国際情勢の変化は周知の通りだ。
今回、外務省は村山訪朝団を全面支援した。米韓に後れを取りたくない、あるいは日米韓の足並みが乱れては逆に北朝鮮を利するという理由からだったように思える。その意味で、ほとんどパイプがない外務省に代わり、村山氏や、「金丸訪朝団」以来、関係を保ってきた野中広務自民党幹事長代理らが、政府間交渉の道筋をつけることは批判されるものではない。
私も、拉致(らち)疑惑の被害者や家族のことを考えると胸が締めつけられる。だが、一方で日本社会全体として、過去の植民地支配に対する反省が薄らいでいるばかりでなく、朝鮮の人々に対する差別意識がどこかに残っていないか。韓国に対して行ったものと同様の植民地支配に対する謝罪と補償は避けては通れないのだ。
米朝協議が一進一退であるように、今後の政府間交渉もすんなりとは進まないだろう。だが、拉致疑惑やミサイル発射も、武力解決を選択しないとすれば、忍耐強く、そして、こちらもしたたかに外交交渉を続けていくほかない。まず率直にモノを言い合うことが肝要であり、だから、その場を作ること=国交正常化が必要なのだ、と言えばカマトト過ぎるだろうか。
なぜ国交正常化交渉が、北東アジアひいては日本の安全保障にとって重要か、それが国益につながるのか否か。これまで政党外交の陰に隠れてきた外務省も、まず、国民に分かりやすく説明する時期である。
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□写真説明 金容淳(キム・ヨンスン)朝鮮労働党中央委員会書記(右)の前でスピーチする村山富市団長=平壌市内で1日、同行記者団撮影
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