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延長保育
 午後6時50分頃から延長保育のお迎えがピークとなります。子どもの顔がパッと輝く一瞬です。水蓮の花は、まだ薄暗い早朝に、ポッ(パッ)というかすかな音と共に開くといわれています。その瞬間にも似た子どもたちの表情はすばらしいものです。この「とき」は私たちにとっても、長い一日の責任を果たし、子ども達が笑顔を残して親と共に家路につくことを見届けた安堵の一瞬でもあります。
 織物産地の町、栃尾の朝は早い。午前6時といえば、各織物工場の織機は、ガチャガチャガチャガチャと景気よく稼動し、織機と織機の間を女工さんたちが、こまねずみのように忙しく立ち働くのです。これは、昭和初期から、ガチャマン時代(昭和30年代)の光景だったそうです。
 大正15年に設立された当園は、新潟県下でも草分け的な存在であり、一時保育、延長保育の歴史は60年もの長きに及んでおります。勿論、最初から現在のような形をとってはいなかったものの、延長保育(早朝も含めて)は、社会のしくみが随分変わったり、家族の形態が変化したりしても、その根底にあるニーズは変わらないということが、はっきり言えます。
 当園では、昭和30年代の後半から平成8年頃まで(約35年の時を刻む)延長保育の呼称を「居残り保育」といっていました。「居残りさーん」と4時以降に保育を受ける子どもたちを集めて、午後4時から6時30分くらいまでのいわゆる居残り保育(延長保育)を実施していたのです。
 さて、一例を紹介してみます。昭和30年代のはじめの頃のことであります。早朝6時30分ころから、幼い二人の女の子をつれて、保育園の玄関に立つ母親がおりました。夫がアルコール依存症のため、職がなく、自分が早朝から夜まで勤務の織物工場へ働きに出ている女性です。保母も出勤していない、寒い保育園の玄関においていかれる、2歳と3歳の幼い子どもも可愛そう。また置いていかざるを得ない母親も、もっと気の毒でした。この幼い子どもたちを園長の自宅で預かることにしたのは言うまでもありません。真冬の早朝は、まだ薄暗く、子ども達は我が家の暖かい布団から、いきなり外に連れ出されて、眠い眼をこすりながら歩かされてくるのです。朝食も食べてこないのは当然でした。毎朝、園長宅では、家族の人数プラス2人の朝食を用意して子どもたちを待つようになり、こたつを暖めて子どもたちの居場所を作るようになりました。いわゆる園長の自宅での「おこた保育」が始まったのです。早朝の「おこた保育」から端を発して、夜もお迎えが遅くなった子どもたちが、園長の自宅(寺の庫裏)のおこたにもぐりこむ日々が10年余りも続いたように記憶しております。これは居残り保育料金云々以前の問題であると思います。まずもって手を差し伸べてみる。素朴な援助の仕方がその親子に負担感を与えない。それでいいと思うのです。早朝の「おこた保育」は、この幼い二人の姉妹だけでなく、1人、2人と追加されたりしましたが、親の方にゆとりができれば、自然と通常の保育時間に登園できるようになり、そう大勢にならなかったので、10年余りも継続できたのだと思います。これは子どもにも、親にも、暖かい小さな灯がともったのではないでしょうか。そして私ども園長の家族たちも、心の中に暖かい小さな灯がともされ、保育の心とそして役割を理解し協力できたと思っています。その頃は、大正のおわりに保育園を創設した園長の妻が健在で(90歳位)、その老祖母から、児童福祉の心を直接学んだと思っております。例えば、雪の沢山降った寒い朝は、長ぐつの中まで雪が入り、小さな足は赤くなり、感覚もないくらい凍えております。この足をいきなり「おこた」で暖めると、かゆくなり、子どもはかえって苦痛を増すのです。老祖母は、自分の手で子どもの足を包み込んで、体温で暖めながらこすってやるのです。こうすることによって、子どもは気持ち良さそうに、苦痛もなく、ぬくもった足をおこたに入れることができるのでした。洋服がほころびていれば、アッという間につくろってやり、爪が伸びていれば、歌を歌いながら、パチンパチンと爪を切ってしまう。これは家庭で母親がやるべきこと等という理屈などは全く関係なしの保育でした。そこには働く母親の目の届かない部分を補完する保育者の姿がありました。子どもたちの中に、ちょこんと座って何かをやっている老祖母の横顔をなつかしく思い出します。
 今でも、「早朝おこた保育」の母子と交流をもっております。年に1回くらいですが、この家族の訪問を受けます。結婚して夫と子どもも一緒に来ますので8人に増えたこの一家の訪問はうれしい限りです。母親は(夫はその後あっけなく死亡した)、「生きていくのがつらいとき、この二人の子どものおかげでふんばることができたのです」と、しみじみ当時をふりかえり、感謝の言葉を言われます。今では、立派な女性であり、妻であり、母親になっている姉妹が、各々の家族に、幼かった頃の話をしている様は、本当に暖かくていいなあと思います。
 「あの朝ごはんのおいしかったこと……」と二人はふりかえります。決して豪華な食事ではなかったはずです。納豆ごはんだったり、ふりかけごはんだったかもしれません。しかしあの幼い二人の姉妹の心に「ポッ」と灯った小さな灯だったと思うのです。冒頭に記した蓮の花の音がこの姉妹にも聞こえたのだと思います。延長保育という、味も素っ気もないことばからは想像もできない、その子、その人のドラマがあることに改めて感動いたしました。
 その頃も、今も、子どもの心は変わらないと思いますが、その子を育てる親たち、子どもを取り巻く社会環境は大きく様変りしております。








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