日本財団 図書館


解剖学実習を終えて
 渡辺 友紀子
 ニヶ月に及んだ解剖実習もとうとう終わりを迎えました。この実習、すなわち故人とご遺族のご厚意のおかげで、私たちは本当にたくさんのものを得ることが出来たと思います。それは自らの経験によって裏付けられた知識であり、故人の御身体から窺い知れる死や病といったものが逆説的に示唆してくれる生の輝きであり、それによって鼓舞される「治したい、癒したい」という感情であり、そして医師・医学生に課せられた責任が非常に重大であるという実感でした。これらはすべて医師となるために必要不可欠なものだと思いますが、中でも私が最も強烈に感じたのは、医学生の責任の重さでした。
 私は自分の進路を決めるにあたって随分悩んだせいもあってか、医学といえども数ある道の中の一つでしかないし、医学を特別視する必要はないと考えていました。平たく言えば「普通」でありたいとずっと思っていたのです。
 そんな私は解剖が始まって二、三週間が過ぎた頃、ふと違和感を覚えました。それまでの私は、「献体してくださった故人のために」「ご遺族のために」「私自信立派な医師になるために」解剖に取り組んでいました。しかしそれだけでいいのだろうか。故人はご自分のために献体されたわけではない。ましてや私のためでもない。病を抱えて生きる人々のため、この世界のために医学の発展を願って、家族や友人と共にかけがえのない時間を過ごしてきたその御身体を私たちに託されたのだ。そう考えると、私たちは、故人とそのご遺族のためには勿論のこと、将来私たちが医師となったときに出会うであろう患者さんのためにも、真剣にこの実習に取り組まなければならないのではと思いました。言い換えれば、私たちは故人とご遺族の方に対して責任があるのではなく、もっともっと多くの方に対して責任を負っているのだと思い当たったのです。
 このとき、私は「普通」でありたいと思う心の裏側で、自分の責任について真正面に見つめることを避けていたのではないかと気付きました。相次ぐ医療過誤が問題となり、「インフォームド・コンセント」の重要性が叫ばれている中、医師の責任は非常に重大だと知っているつもりではいましたが、実際は「それは医師になってからの話で、まだ何年か先のことだ」という甘えが自分の中にあったのです。私はそれまで実感として捉えていなかった責任の重さをこのとき初めて認識しました。
 納棺の日、私は最後の黙を捧げる前に、教えられ、与えられてばかりだった自分が少しでも責任を果たせたのか考えました。実習には精一杯取り組んだつもりでした。しかしまだ足りなかったのではないか。そもそも実習だけで足りるのか。様々な考えが頭をよぎりました。結論としては、最終的にきちんと責任が果たせるのは故人が必要だと思い描いていた立派な医師になったときだ、という曖昧なものしか得られませんでした。今はまだ具体的にどんな医師になればよいのかわかりません。しかし医学生として勉強していく中で、ゆっくりであっても着実にそのイメージを明確に描き、それに一歩ずつ近付けるよう努力していきたいと思っています。
 最後になりましたが、私たちに貴重な経験をさせてくださった故人とそれに賛同してくださったご遺族の方々、ご指導してくださった先生方、同じ班の皆様に御礼を申し上げるとともに、故人のご冥福をお祈り申し上げます。
 本当にありがとうございました。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION