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学問の探究と死の再認識
 大津 義晃
 「このおばあさんからいただいた知識を多くの方々のために使いたい」そう思いながら始めた解剖学実習も瞬く間に終わってしまったような気がします。
 まず、実習初日の私たちの雰囲気が今でも忘れられません。きれいに清掃された実習室と解剖台に横たわるご遺体と私たち。全体が緊張感に包まれていたようでした。
 ところが、いざ実習が始まってみると頭の中は混乱しつづけていたように思えます。去年からの講義や、実習の前の予習で、頭の中では一通り分かっていたつもりだったのですが、ご遺体を前にすると知っているはずのものまでが初めて見るもののように感じられました。
 時には剖出失敗や種々の不都合で、サジならぬピンセットを投げたくなるようなことも多々ありましたが、冒頭の通り自分の目的を少しでも果たしたいと思い、悔いの残らないように納得のいくまで見て、触れて、動かして、確認することに努めました。第一に、献体された方々の気持(故人の意志)は何だったんだろうと考えてみると、ただ刻むわけにはいきませんでした。
 献体して下さった多くの方々と、夜遅くまで指導して下さった先生によって、私は二つの大きな糧を得ました。一つ目は、解剖学、学問は奥深いものだということ。先に述べましたが、実習前には一通り分かっていたつもりだったのに、いざ解剖学実習が始まると頭の中が混乱するほど体の中は複雑であり、しかし機能的であると分かりました。また機能からみると体は皆同じかもしれないが、その構造については百の人間がいれば百の構造があると、実際に自分の目で確かめられました。ただ、それらを理解することは私を大変苦しめてくれました。これは、私も学問の奥深さを垣間見ることができたためと思いたいです。同時に、解剖学を学ぶには絵やコトバだけでなく、実習が欠かせないと痛感しました。講義や教科書では理解できなかったことが実習で理解でき、大変うれしかったことがあります。網嚢(のう)などの三次元的な関係を多く理解できました。
 もう一つは、「死」の再確認。たしかに私も自分の身内が亡くなったことがあり、死というものを感じたことはありましたが、三ヵ月以上「死」に直面し続け、「死」を単に忌み嫌うものだけに片付けてしまってはいけないと感じるようになりました。医療現場に立とうとする者として、自分自身の問題として、誰もが経験する死についてもっと考えるベきだと自覚させられました。まだまだ現段階では答が出ていません。
 ところで、世間的にはタブーとされる解剖を私たちが無事終えることができたのは、やはり解剖学だったからだと思います。一般に遺体は手厚く葬るものとされています。私たちも故人の尊い意志とご遺族の気持ちに協力していただき、その意に反することのないように解剖学をしたのです。どういうことなのかというと、遺体は手厚く葬るという幼い頃から知らず知らず身につけてきたことと同じく、解剖学ではご遺体で学問することが故人の意志を尊重する(=手厚く葬る)ことなのではないでしょうか。私は他の人に解剖学実習を説明するときに、このように言っています。
 解剖学を通して学んだことや得た知識を利用して、これからの人生をもっと意義のあるものにしていきたいと決意を新たにしています。








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