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解剖学実習を終えて
 城地 亜彩子
 わたしが初めてご遺体を前にした時は、大変緊張した。私の目の前にいらっしゃる方は「寡黙な人」ではあったが、どこか威厳にれ、祖父が亡くなったときのことを思い出さずにはいられなかった。私の祖父が亡くなったのは、私がまだ小学生のときであった。学校の合宿に参加している最中に祖父の容体が急変し、祖父の家に着いた時はもう帰らぬ人となっていた。初めて祖父の遺体の前に座ったとき、私はその静けさに緊張したのを覚えている。それは私にとって初めての「死」への対面であったが、特別の感慨も無く、どこか「無」に近い、威厳のある静けさに張りつめたものだけを感じていた。
 医学部受験を決意して勉強を始め、脳死問題、受精卵や初期胚の取り扱い等について改めて考えたとき、ヒトの「生」や「死」というものについて余り考えることの無かった自分に気がついた。「生」と「死」は、いまだに答えの見つからない問いではあるが、解剖実習は私にとって「生」と「死」に向き合わせてくれる貴重な体験であったと感じている。
 解剖実習の体験は、最初に感じた情緒的なものばかりではなかった。むしろ、実習が始まると、ヒトの体の構造の複雑さ、機能の巧妙さに本当に惹きつけられた。特に胎生期に機能していた構造物の遺残は興味深かった。それは、ご遺体の「生」を感じた瞬間であったように思う。胎生期、ヒトは母胎に守られ、これだけの潜在能力を生み出して生命が誕生し、それぞれの人生の中でその潜在能力をあらゆる所で発揮し、いずれ「死」に至る……そのダイナミックな流れに触れたことが大変な勉強になった。実際は、限られた時間内での実習であり、試験に追われて、知識的にも精神的にも未熟な自分に何度も向き合う辛い面もあったけれど……。
 解剖実習が終了したとき、二つのことを感じていた。一つは同じ実習チームの人達に対する思いである。このニヶ月間余り、共に実習に取り組んできたメンバーは、気がつけば近い存在であった。人間の「生」や「死」に向き合う医療とは、一人で抱えるにはあまりにもそのハードルは高く、必ず支えあったり協力し合ったりしなければ超えられないものだと感じた。むしろ一人で多くの難題に取り組み解決しようと考えることは傲慢なことなのかもしれない。そういう意味でも、協力し合える仲間が出来たことは本当に嬉しくもあり心強くもある。いま一つは、ご遺体に対する思いである。生前に使われていたと思われる何点かの遺品をご遺体とともに納めたとき、ご遺体の「生」を感じ再び緊張した。私達のために貢献してくださったこと、多くの事を学ばせてくださったことに頭が下がる思いであった。これだけ多くの体験をさせて頂いたご遺体に対し、心より感謝の気持ちを贈りたい。








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