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黙  祷
 唐澤 千裕
 納棺の際のこの黙祷はまさに感無量だった。三ヶ月間の思いを胸に静かに手を合わせた。
 三ヶ月前、初めて御遺体のお顔を拝見したあの日。「きれいなお顔だな」と、思ったのを覚えている。しかし、実習に対する私の心構えは甘かった。先輩達から、「大変だよ」と、聞いていたものの、それはやはり経験してみなければわからないことだった。この実習中、私が痛感し続けたのは、自分の無能さであった。技術的にも、精神的にも未熟なことが何よりももどかしかった。そして、自分自身のことだけで精一杯になっていく中で、自分の人間性が次第に見えていった気がする。この肉眼解剖学の実習では、他の授業と同様に医学の知識を学んでいるわけだが、私にとっては、それ以上のものを得ているように思えてならなかった。
 実習中は、本当にたくさんの人にお世話になった。要領の悪い私を手伝ってくれたパートナー。支えてくれた友達。そして、頭の下がる思いで一杯なのは、常に優しく教えて下さった先生方である。自分の勉強不足のために剖出が進まない時など、全面的に先生に頼ってしまうことが多かったが、そのような時でも嫌な顔ひとつせず教えて下さった。夜十時過ぎまで残っている私達にも付き合って下さった。そして、私が忘れられないのは、実習中に、森先生が私達に何度も言って下さった次の言葉である。「私達は、君達の先生ではない。君達の目の前にある御遺体こそが君達の先生である。そして、この肉眼解剖の授業が終了するのは、君達が、御遺体から学べるものを全て学んだと思った時である」実習に対する熱意が失せ、実習自体を放棄してしまいそうになった時などにこの言葉が思い出され、姿勢を正される思いがしたものだった。
 実習中の三ヶ月間は、私にとってとても貴重な時間であったと思う。実習を終えた私の心の中には、様々な思いがあるのだが、最後に御遺体に対する気持ちを述べておきたい。
 −私の大切な「先生へ」−
 将来医師を目指しているにしては、技術的にも精神的にも未熟すぎる私の「先生」になって下さって本当に有難うございました。そして、納棺の際、あなたのお孫さんの、「おじいちゃんへ」というお手紙を拝見した時、私は胸が一杯になりました。
 あなたの人生を物語っていたあなたの体は本当に美しかった。私は、あなたからとてもたくさんのことを学ばせていただきました。あなたの究極のボランティアを私は決して無駄にしない。それだけは約束します。本当に有難うございました。








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