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解剖学実習を終えて
 小野 嘉文
 私は入学以来、解剖学実習を医学生としての最初の難関であろうと思っていた。人体の全ての形態を閲し尽くそうという途方もない学問に対して、絶壁を見上ぐるかの如き心地で、触れる前から圧倒されていたのである。加えて、既に亡くなられた方を眼前にすることに、臆病な私は身の竦むような思いであった。実習の始まる時期が近づくにつれ、私は憂鬱の募っていくのを禁じえなかった
 当初からのおそれと違わず、実習を進めるうちに必要とされる知識は膨大なものになっていった。聞いたこともない用語の数々に辟易し、怒濤のような日程に、半年は十年のようにも思われた。しかし、予習が不充分であったり、その結果として作業が疎かになったりしたとき、日を追うごとにその内部までが顕にされていく御遺体を前に、「とりかえしのつかないこと」をしている感覚を覚えるのである。その都度、私は解剖との新鮮な関係を取り戻した。御遺体は一言も不満を洩らさない。その無言の圧力に私は、申し訳ない気持ちでいっぱいだったのである。私の解剖学実習は、こうした御遺体との、決して通うことのない一方的な「対話」の埒のあかない繰り返しの場だったように思える。
 いま、こうして「解剖学実習を終えて」という文章を書けるということはたいへんな幸運であると思う。幸運というと語弊があるかも知れない。解剖学を理解するためにきわめて重要な作業であるということである。文章を書くときは、いろいろと考えて書くのが常である。そうすることで、私の中で、解剖学実習が徐々に消化されていくような気がする。解剖学実習は特殊な学問であり、実習を終えて、試験をパスすればそれで善しとすることはできない性質のものだと思う。微細を極めた知識や技術などの実際的な方面が注目され勝ちだが、解剖学(特に実習についてであるが)は、もっと観念的な構えでもって向き合うべき学問であろう。生命を失った人間と直面し、それを学ぶ目的のために使わせていただくという作業のもつ意味を考えなくてはならないのである。私達は、膨大な人体の骨格、筋肉、臓器、そして神経について、それらの名称、相互の複雑な連関、さらには臨床的な知識までを、全く無知の状態の頭に詰め込まなくてはならないという難儀に苦しんで、解剖学について俯瞰的に眺める余裕がなかったのである。その状態は、機械的に知識を増やしてゆくこと、果ては、そうした知識を得ること自体に快感を覚えてしまうことを招き勝ちである。それが一般的に医学生が常識から外れているといった印象や、医師が患者に興味を示さないといった批判の一誘因となっているのではないだろうか。
 しかし事実、実習中に観察して、記憶しなくてはならない事項はもはや理不尽な量のように思える。これから先に医師に必要とされる知識に比べたら物の数ではないかもしれないが、確かに現在の私たちにとっては到底扱いきれぬ分量である。余裕がないのは当然なのである。私も、実習に取り組んでいた半年間、たえず知識を詰め込んでは、同じ量を失ってゆくという、殆ど空しい作業を繰り返していた。私にあったのは、知識を得る充実ではなく、次々に知識が失われてゆくことから来る焦燥だった。先生は、一度でも頭に通すことが重要である、そのうち定着するものだ、と仰る。私はそのアドバイスに救われながらも、決して甘えてはならないと自らに言い聞かせ、医師という職業への道程の険しさを改めて痛感せざるをえない。
 ここで、自戒の念をこめて、私の心にちくりと刺さった一言を紹介したいと思う。これといって特別な意味を含まなかったかも知れないが、どうも引っ掛かるのである。それは、実習中に、ある一人の先生が冗談めかして口にした言葉だった。「君達はもう普通の人間じゃないからね」これには、私達が、御遺体を目の当たりにし、それを仔細に眺めることに慣れてしまった異常な現実に対する皮肉を感じる。しかし、これは私達が、これから医師を目指すに当たって意識しなくてはならないことである。医師という職業の特殊性、少なからぬ異常性をしっかりと理解する必要がある。その異常性に、自らがエリートであるという解釈を見出すのは愚かなことである。専門的な知識を身に付けていくほどに、「普通」ということを意識しなくてはならない。最早、私達の常識とするところ全てが、社会一般の常識と符号しないという事実を受け止めなくてはならないのである。同時に責任と使命の生ずることも肝に銘じてこれからの学生生活を送ってゆきたいと思う。
 最後に、私達の実習のために、献体して下さった方々、御遺族の方々、および、実習中多大な御迷惑をおかけした先生方、技師の方々に深い感謝の念を表して、結びとさせていただきます。ありがとうございました。








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