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第1部 海上交通網に関する安全保障戦略と海軍力
1 20世紀の海洋戦略史(太平洋)
 ハルフォード・J・マッキンダーが地政学に基づく政治と外交の在り方を唱えたのは、1904年の講演「地理学からみた歴史の回転軸」においてであった注8。この講演の中に、「ロシアはかってのモンゴル帝国に代るべき存在となり、…フィンランドやポーランド、インドや中国に圧迫を加えている。…いずれ近い将来ロシアに社会的な革命が起こって、これまでこの国の発達を制約してきた地理的な要因を巡る考え方に大きな変更を迫る…」との予言的なくだりがある注9。マッキンダーはマハンの「海上権力史論」に大きな影響を受けたといわれる。マハンのシーパワー論は、マッキンダーを始めとする世界の多くの戦略家達に受け入れられたが、何といっても最も強い影響を与えたのがアメリカ海軍に対してであったことは間違いない。だが、アメリカ海軍太平洋戦略の策定にあたっての思考には、マハンのシーパワー論が影響を及ぼしたといわれる地政学の論理がフィードバック的現象をもって取り入れられていくことになる。海洋国家繁栄のためのシーパワー論とは異質な、地政学的な意味でのランドパワーを封じ込める意味を持ったシーパワー論が登場してくるのである。
 
(1)アメリカ太平洋海軍戦略の誕生
a 戦略家の誕生から戦略の誕生まで
「海上権力史論」の書かれた時代
 何故、アメリカは孤立主義の中で大海軍主義を受け入れることができたのであろうか?この、相反するとも思えるものの両立の理由を考察するには、「海上権力史論」の著された時代背景を認識する必要がある。
 
 1775年から足掛け9年の独立戦争に勝ち抜いたアメリカは、1783年に独立を果たす。独立とはいえ、当時のアメリカの領地は現在のメイン、ペンシルベニア、ジョージア州等の東部だけであり、北米大陸の中部および西部はスペイン領、北部はイギリス領であった。1787年になって合衆国憲法が制定され、1789年にワシントンが初代大統領に就任する。建国当時のアメリカ政府が目指したものは、自由と民主主義の確立と領域の確保であった。そのためアメリカは旧大陸たるヨーロッパにおける紛争に関わることには消極的であった。さらに第5代大統領モンローは1823年の議会への教書の中で、[1]両米大陸に対するヨーロッパ諸国による植民地活動の拒否、[2]ヨーロッパ諸国から両米大陸への政治的干渉の拒否、[3]アメリカによるヨーロッパ諸国の内政への不干渉、の三原則、所謂モンロー主義(新旧大陸の相互不干渉)を表明する。当時のヨーロッパは、パリ和平会議によって戦争が終息した状態にあり、産業革命に後押しされて植民地活動が再び活発になっていた。太平洋側では、ロシアが毛皮会社設立のためにアラスカから北米大陸西岸を探査しつつ南下しており、それに対抗してスペインがカリフォルニアへの植民を進めていた。そのような状況下、アメリカの取った外交・防衛政策の基本が、相互不干渉という孤立主義だったのである。この孤立主義が、後のアメリカの「国益防衛圏の防衛」とでもいうべき考え方につながり、それが日米による太平洋戦争の遠因ともなっていったと思われるのだが、それは後に触れることとして、いま少しアメリカの歴史を追ってみる必要がある。
 
 孤立主義の中で、アメリカは西へ西へのフロンティア政策を推し進めていく。1845年にテキサス併合、1848年にカリフォルニア領有、1867年にアラスカ買収、“明白なる天命”、「マニフェスト・デスティニー」による西部開拓は、アメリカを太平洋岸へと導き、さらにその先にある海洋の支配へと乗り出させる歴史でもあった。
 
 アメリカンフロンティアが終結する1890年、マハンが「海上権力史論」を著している。ところで、アメリカの太平洋での活動は、西部開拓と並行してなされていた。1841年に土佐から漁に出て難破したジョン万次郎がアメリカの捕鯨船に救助されたように、そのころアメリカ捕鯨活動は日本近海にまで及んでいた。ちなみにその頃のアメリカの捕鯨船は、大西洋岸マサチューセッツの港から南米ホーン岬を回って太平洋に出ていた。1853年に浦賀に来航したペリー艦隊の目的は、清国における交易のための中継基地と、太平洋捕鯨のための補給基地の確保であったとされている。「海上権力史論」は、生産地と市場を結ぶ海運業、そのための船舶と船員の質、航海技術、中継基地の有無など、海洋を利用し得るこれら全ての力をシーパワーと称し、シーパワーが海洋国家の繁栄を約束するとして、さらにそのシーパワーを維持するためには海洋を制する(シーコントロール)能力のある海軍力が必要であることを説いている。このシーパワー論が西部開拓後のアメリカのフロンティア・スピリットを海洋に向かわせるきっかけと理由を与えることになる。
 
孤立主義と海洋戦略
 1890年代は、アジアにおける権益を狙って、列強が挙って太平洋やインド洋の島嶼の獲得に乗り出した時代でもあった。1894年にオランダがロンボク島を、1896年にはフランスがマダカスカルを領有、1899年にはイギリスがソロモン群島をドイツが南洋諸島を占領。アメリカも、1898年にハワイを併合する一方、スペインに勝利してグアムとフィリピンを領有する。なお、アメリカはプエルトリコも得ていたが、カリブ海は依然としてイギリス海軍のシーコントロールの下にあった。マハンは兵力を大西洋に集中しておくことの必要性から、艦隊を太平洋に分けることに反対しており、いかにして大西洋においてイギリス海軍を牽制しつつ太平洋のシーコントロールを得るかが、アメリカ海軍の大きな課題となっていた。
 1904年、アメリカはパナマを独立させて運河建設に着手する。このパナマ運河の建設は、アメリカ艦隊に両洋における機動運用を約束するものとなった。同年の年次教書において、セオドワ・ルーズベルト大統領は、「西半球諸国間の安定と秩序そして繁栄をもたらすために、合衆国はモンロー主義に従って国際警察軍としての役割を果たすこともあり得る」とした上で更に、「モンロー主義を主張し…極東において戦場を限定するために努力し、さらに中国の門戸開放を維持することによって、合衆国と人類全体の利益のために行動した」注10と述べている。両米大陸におけるアメリカの力の確立と、モンロー主義の太平洋への拡大であった。この声明は、「ルーズベルト・コロラリー」と呼ばれる。モンロー主義に基づく「干渉を拒む領域(換言すれば、国益防衛圏)」が太平洋に及び、マハンの唱えた「シーパワーを支える海軍力」は、「アメリカの国益防衛圏を防衛するための海軍力」となり、そのための海軍戦略がマハン自身の手によって作り出され、やがて日本海軍との対立を招いていくのである。「孤立主義」の中における「シーパワー論」という逆説的論理の中から生まれたアメリカの太平洋への進出、それを支えるための海軍力は、「不介入(孤立)」と「介入」という二律背反するアメリカの外交戦略を形作ることを可能にしたともいえよう。
 
歴史がマハンに与えた影響
 1896年に退役し、海軍大学で戦略の教鞭をとっていたマハンは、清の門戸開放宣言や義和団事件といった時代の中で、アジアへの関わりに深い関心を抱くようになっていた。中国の市場争奪にアメリカが指導的な役割を果たすべきだと考えていたマハンは、1900年に「アジアの問題」を著して注11、中国における通商活動の振興や欧米思想の流布、それを可能とするシーパワーの必要性を説いている。この頃のマハンには地政学的発想が芽生えていたのではないだろうか。「アジアの問題」の中でマハンは、中国への大陸世界(即ちロシア)の進出に対抗して、海洋国家たるアメリカ、イギリス、ドイツそして日本が協力して「シーパワー」を結集することの必要性を説いている注12。ここでの「シーパワー」には、10年前にマハン自身が「海上権力史論」で展開したシーパワー論とは明らかに異質なものが含まれている。「アジアの問題」で提唱される「シーパワー」には、大陸世界たる「ランドパワー」を封じ込める力としての「シーパワー」の意味合いが明らかに入り込んでいる。海洋を利用し得る国家の力としてのシーパワーは、地政学的なランドパワーに対抗した用語としての「シーパワー」とは意味合いが異なったものであったはずだ。
 
 マッキンンダーはその著書「デモクラシーの理想と現実」注13において、将来、ユーラシア及びアフリカからなるハートランドに「ランドパワー」が出現し、ハートランドの縁辺部に当る三日月地帯(クレセント)にある海洋国家のシーパワーを圧倒することになるとして、海洋国家である母国イギリスに警告を発した。これがカール・ハウスホファーらのドイツ地政学と融合し、地理的な力の対立としての「シーパワー対ランドパワー」論が発展し、後にヒットラーにも影響を与えていく。アメリカではニコラス・J・スパイクマンが、1942年に「世界政治におけるアメリカの戦略」注14を著し、ハートランドの力を封じ込めるためのリムランド(マッキンダーのクレセントに当る地帯)の結束を説くことになる注15。これが「ランドパワー」に対抗する意味での「シーパワー」である。
 
マハンとアメリカの太平洋海軍戦略
 ハワイとフィリピンの領有によって、アメリカ海軍による太平洋のシーコントロールが現実的なものとなっていた。1903年、マハンは、今後欧州よりも東洋の方が重要になるとして、艦隊の集中場所をそれまでの大西洋から太平洋に移すことを主張する注16
 
 1904年に日露戦争が始まる。この年アメリカ国内では、カリフォルニアにおける日本人移民問題が顕在化していた。マハンはこの日本人移民問題を取り上げ、強固な黄禍論を展開していく。カリフォルニア州議会が排日決議を提出し、「(日露戦争の終結で)除隊された兵隊が我が国の太平洋岸に押し寄せてくる」との警告を発するなど、日本人移民排斥運動がエキセントリックな高まりをみせるなか注17、マハンも、「ロッキー山脈以西をアジア人で埋めてしまう権利を認めるくらいなら、私は、明日にでも戦争する方を選ぶ」など、対日脅威論を煽るかのような発言をかなりヒステリックな口調で繰り返していた注18。この頃のマハンには、ヨーロッパについてはヨーロッパ列強間のパワーバランスで安定を図れるが、大国不在のアジアでは覇権による安定が必要との戦略的思考があったのではないだろうか。アメリカがその覇権国になるためには太平洋にシーパワーを確立せねばならず、そのためアメリカ海軍を太平洋に集中する必要があったのだろう。マハンが必要性を説いたシーパワーを支える健全な意味での海軍力が、政治的目的を達成するための純軍事的合理性に基づく海軍力に、マハン自身の手によって変貌していったといえる。1906年、アメリカ海軍は日本を仮想敵とする「対日オレンジプラン」の作成に着手する。
 
 孤立主義のアメリカを海洋に進出させたマハンのシーパワー論は、マッキンダー等の地政学の誕生に大きな影響を及ぼした。マハンは地政学的な意味における海洋国家論を自らのシーパワー論と巧みに絡ませ、アメリカの太平洋海軍戦略を構築していったのである。アジアにおけるアメリカの国益を守るための介入フロントとしての太平洋、そしてまた、両米大陸へのアジアからの介入を拒否する防衛フロントとしての太平洋、つまり、西方に対する孤立と介入というパラドックスの中で、アメリカの太平洋海軍戦略の原形が固まりつつあった。1914年にマハンは他界する。その年、パナマ運河が開通した。
 
b 日米開戦まで
アメリカ理想主義の国際デビュー
 第一次世界大戦(1914-1918)は、ヨーロッパのパワーバランスによる安定を破綻させるものであった。ウッドロー・ウイルソン大統領は、パワーバランスに代る国際協調によるの安全保障制度を提案する。国際連盟構想であった。ウイルソンが1918年に掲げた「14ヶ条声明」は、民族自決、軍縮、国際紛争の平和的解決等を標榜したものであった。しかし、ウイルソンの理想主義は世界に恒久的な安定を齎すものではなかった。フランスのクレマンソー首相が、「国際連盟の設立には、人種的平等宣言、それに移民の自由化を認める必要があるが、アメリカはそれに合意できるのか」と質したのに対しウイルソンは、「(黒人問題や日本人移民問題から)南部や西部出身の議員の了解を得ることは困難」との見解を示している注19。道徳と国策は別物である。クレマンソーは、「平和維持の唯一の方法は、わが方を強大に、可能性のある敵国を弱小にしておくことだ」と語り注20、また、「神でさえ十戒であるのに、ウイルソンは14も要求する」と述べたそうである。しかしウイルソンの「新外交」は、アメリカが孤立主義の殻を打ち破って国際政治のリーダーとしてのデビューを飾るものでもあった。その後アメリカは「旧外交」に回帰していくのであるが、アメリカの戦争は民主主義のためのもの、民主主義のための宣教師として世界を理想の国アメリカ化したい、との理念がアメリカの精神となった。
 
ターニングポイントとしてのワシントン会議
 1920年に国際連盟は設立されたが、アメリカ議会は国際連盟条約の批准を拒否した。ウイルソンは条約批准を求めての遊説中に脳梗塞で倒れる。代って、軍縮を掲げたウォーレン・ハーディングが大統領に選出された。アメリカはイギリス、フランス、イタリアそして日本に呼びかけてワシントン軍縮会議(1921−1922)を開催する。ワシントン軍縮会議は難航を極めた。アメリカ:イギリス:日本の主力艦比率を5:5:3とする案に対して劣勢となる日本が強く反発したことと、軍縮のための廃艦措置に対して各国海軍軍人が不満を抱いたからであった。
 
 日本海軍の指針としての1907年度「帝国国防方針」では、その軍備として「対米主力艦比率70%の保有」の方針が示されていた。これは、進攻する側の艦隊は防守する艦隊に対し50%以上多くの艦が必要であり、アメリカ艦隊が日本へ進攻する場合、日本としてはアメリカ艦隊の最低でも70%の艦を保有していなければ防衛できない、との根拠にたったものであった注21。一方アメリカ海軍では、日本近海までの進出によって戦力が40%減少するとの分析があり注22、それがアメリカ:日本を5:3(日本の保有艦は米の60%)としたい理由であった。それが達成できなければ、主力艦隊をもって中部太平洋(ハワイを根拠地)から西部太平洋に進出し太平洋の制海権を握ることを基本とする「対日作戦計画:オレンジプラン」は成立し得なかったのである。60%と70%の僅か10%の差は双方にとって譲れない10%だった。難航する局面を打開するためアメリカは、アメリカ海軍はウエーキ、グアム、フィリピンを、日本海軍は南洋統治領を平時に海軍基地化しないとの条項を提案する。結局この案が取り入れられることになるが、これが後のアメリカ海軍の「太平洋島嶼飛び石作戦」を生み出す。
 
 1922年、国際的孤立の回避、天井知らずに膨張する海軍予算抑制の必要性等々を考慮した加藤友三郎海相の苦渋の決断によって条約は合意された。
 
 なお、ワシントン会議は日英同盟の廃棄を決定するものでもあった。この時期、日英同盟は既に形骸化していた面があった。それでも、アメリカにとって日本との戦争を想定する場合に日英同盟の存在は明らかに邪魔であったし、軍備の面からも、この同盟がある限りアメリカとしては日英に相当する海軍力を準備しておかないわけにはいかなかった。アメリカにとっては、日英同盟の廃棄は海軍軍縮とリンケージされたものであったのだ。しかし、アメリカ自身がいきなり日英同盟廃棄を提案しては、日本に対して益々不利の感を与えてしまうだろう。ワシントン会議において日英同盟廃棄を持ち出したのはイギリスであった。イギリスの提案は、日英同盟を発展させて日米英の3カ国協調体制を構築するというものであった。これが原案となり、審議の末、フランスも含めた「太平洋の4カ国条約」が合意され、日英同盟は“発展的解消”ということで廃棄された。当初、日本の世論としては、世界での日本の孤立化を避けるために日英同盟を継続した方が良いとの意見が大勢であったが、原敬首相の「これからは日英同盟だけでは事足りず、対米関係改善が重要」との意見もあって注23、力関係としてイギリスよりもアメリカを重視する考えが強くなってきており、アメリカを取り込んだ協調体制の方を選ぶ形となった。
 
 ワシントン会議の結果について、当初日本の国内世論は決して悪くはなかった。不平等な軍縮には応じたものの、国際的孤立を回避し、加えて対米協調の体制を手に入れた、つまり、「実を得た」との評価が強かったからである。しかし、不平等な海軍軍縮の現実は、日本国内、特に軍部を中心として、不満とアメリカに対する警戒心をしだいに醸成していくことになる。一方アメリカにおいては、ワシントン会議の結果、その太平洋海軍戦略の実行の可能性が大いに高まり、中部太平洋からの海軍力の機動展開という海軍の作戦構想が具体化されていくことになるのである。アメリカと日本の太平洋を挟んでの対決の構図は、軍縮の産み出したアイロニーであった。
 
アメリカの太平洋渡洋作戦の誕生
 ワシントン会議に続き、巡洋艦の保有比率及び補助艦の軍縮について協議するジュネーブ会議、ロンドン会議が開催されていくが、日本の海軍部内では、ワシントン条約の是非を巡って艦隊派(ワシントン条約に不満を持つ主として軍令部育ちの将校)と条約派(軍縮と対米協調を重視する軍政に携わる将校)の対立が生じていた。当時の海軍予算は国家予算の32%を占めるまでになっていたが注24、それでも会議を通じて対米劣勢に追い込まれていく現状に対する艦隊派の不満は募る一方であった。軍縮のための会議が、国家の面子を回復するための会議へと様相を変えていた。当時日本海軍では、アメリカの主力艦が太平洋を渡洋中に日本の潜水艦で撃沈し漸減していくとの作戦を立案しており、そのため78,500トンの潜水艦を必要としていたが、ロンドン会議において52,700トンとなるに至り注25、艦隊派の不満は限界を越えた。条約は破棄され、対米軍備拡張が推し進められていく。
 
 一方アメリカ海軍では、太平洋戦略を可能ならしめるための礎石が着々と築かれ、幾つかの斬新な作戦が誕生していく。それらの中には、海兵隊のアール・H・エリス少佐による太平洋島嶼奪取作戦「ミクロネシィア前進基地作戦」もある注26。これらの太平洋作戦は、海軍上層部というよりもむしろ、海軍の知識層から生み出されている。その間、日本海軍では艦隊派と条約派が争っていた。日本の「絶対国防圏」は、アメリカの「国益防衛圏」の中に飲み込まれていった。
 
(2)アメリカ海洋戦略の終わり
a 冷戦の海洋
ソ連海軍の拡張
 太平洋戦争において日本海軍に勝利したアメリカの太平洋海軍戦略は、冷戦の時代に引き継がれた。冷戦の時代の太平洋は、アメリカの軍事戦略と、それを拒否するソ連海軍の対応という図式を呈していた。
 
 1960年代に入って、アメリカの軍事戦略はそれまでの大量報復戦略から柔軟反応戦略の時代となり、海洋においては、即応展開が可能で事態に柔軟に対応できる空母機動部隊が海軍の主役となった。海洋を渡り、敵海岸線付近の水中、水上及び上空に排他的な空間を作り、そこから陸上に対して実施する空母のパワープロジェクションが、勝利の方程式であった。太平洋のSLOCは、ハワイ、ミッドウェー、ウェーク、グァム、フィリピン、そして日本を巡るものであった。アメリカのシーコントロールがユーラシア大陸を取り囲むかのように伸びていくのに対抗して、ソ連もまた海軍力の拡張を目指した。
 
 ソ連が海軍力増強の必要性を認識したのは、1962年のキューバ危機において圧倒的なアメリカ海軍によるキューバ隔離線を前にして反転せざるを得ない屈辱を味わった時であるとされている。しかし、ソ連がその海軍力を質量共に著しく増強させたのは、デタントの時代といわれた1970年代であった。1969年にニクソン政権が誕生し、「ピンポン外交」を機にして米中接近が図られ、それに伴い米ソの間も緊張の緩和する時期を迎えた。戦略核兵器において米ソのパリティーが生じ、アメリカはベトナムからの撤退があり、ソ連としてもヨーロッパにおいてNATOと対峙し、さらにアジアでは「チャイナカード」を突きつけられた形となってのデタントであったといえる注27。そのような中においてもなお、ソ連海軍の増強が続いていた。
 
 ロシア海軍はピヨートル一世(1672−1725)の時代に創設された。18世紀後半には、バルト海および黒海を制海し、1806年には世界一周遠洋航海を実施している。その後日露戦争に敗れるまでの間、ロシア海軍は順調な発展を遂げていくのであるが、ロシア革命がロシア海軍の建艦思想を一変させることになる。バルチザン戦争の教義が海軍にも持ち込まれたのである。マハンによる「制海権思想」が否定され、沿岸用の小型艦艇と潜水艦による陸戦の支援が海軍の主任務となった注28。大量の在来型潜水艦が建造されたのがこの時期であった。その後スターリンが共産圏のリーダーとしての力の誇示を目的として、外洋海軍の建設に回帰する時期もあったが、フルシチョフ政権になってからは、戦略核を重視する軍事政策のもとで海軍は縮小されていった。キューバ危機はそのような時期において生じたのである。
 
 1970年代のソ連海軍増強時代に話を戻そう。1972年から73年にかけて、ゴルシコフ海軍総司令官はソ連海軍機関誌「モルスコイ・スボルニク」に「戦時と平時の海軍」注29を著し、「わが海軍は、核戦争から通常戦争までの各種の任務に対応できるバランスのとれた海軍でなければならない。自由に使用できる海軍力を持たない国家は大国の地位を保持できない」と述べ、国家繁栄のための海軍力の必要性を謳い上げる。当時、これはマハンの理論そのものではないかと評された。しかし、実態としてソ連海軍の兵力整備は、アメリカのシーコントロールを拒否する能力に重点を置いて進められていった。最新鋭の原子力潜水艦を次々と開発・就役させ、世界の海軍史上類を見ない大潜水艦部隊が作り上げられていった。ソ連海軍の原子力潜水艦は、1969年に攻撃型52隻、戦略核搭載型40隻であったものが、10年後の1979年には、攻撃型80隻、戦略核搭載型91隻に増勢しており、年平均8隻の割で建造していった計算になる注30。当時アメリカの空母は13隻態勢にあった。単純にいえば、アメリカ海軍の空母1隻に6隻強の攻撃型原潜を対応させることができたことになる。なお100隻近くあった在来型攻撃潜水艦は、シーレーン破壊に充当して余りあるものであった。
 
アメリカ海軍による対潜水艦戦(ASW)キャンペーン
 アメリカにとって、増勢するソ連の潜水艦は空母機動部隊の作戦と長く伸びた洋上の兵站線に対する最大の脅威となっていた。1978年、アメリカ海軍は、「シープラン2000」を作成し、洋上に展開したソ連の潜水艦から西側諸国のSLOCを防護するための対潜水艦作戦(対潜作戦、ASW)キャンペーンを、同盟諸国と共に地球的規模で展開していくことになる。「SLOCの防護」が海軍の主要な目的の一つとなった。1979年、ソ連がアフガニスタンに進攻し米ソは再び緊張の時代を迎える。レーガン政権が誕生し、「強いアメリカへの回帰」が始った。
 
 ソ連太平洋艦隊の玄関口に面する日本としては、シーレーンの防護のための兵力整備と日米安全保障条約の実効性の確保は防衛上の大きな課題となっていた。P−3CやF−15が導入され、日米防衛協力のための指針に基づく「シーレーン防衛のための日米共同研究」が開始されたのは1982年である。日本の「1000マイルシーレーン防衛構想」が述べられたのもこの頃のことであった。
 
シーコントロールの完成
 レーガン政権になってアメリカは次々と新戦略を発表していく。「同時多発戦略」(1981.1)、「新海洋戦略」(1981.3)、等々、SDIが発表されたのは1983年3月である。そして1986年1月、アメリカ海軍の作戦に大きな転換をもたらす「海洋戦略」注31が発表される。
 
「海洋戦略」に先立つ1984年の秋、アメリカ海軍は戦後最大規模といわれた太平洋艦隊演習(US Pacific Fleet Exercise‘84)を日本および韓国との共同演習と連携させる形で実施している。複数の空母機動部隊が、既に展開しているソ連の攻撃型潜水艦を駆逐しつつ中部太平洋から西太平洋へ進出し、最終的にはソ連へのパワープロプロジェクションを想定するものであった。戦略的には日本海軍に勝利した太平洋戦争とあまり変わってはいない。問題は戦略が古いか新しいかではない。その頃、アメリカ海軍では一つの大きな不具合が浮かび上がっていた。それは、アメリカ海軍がその目的とするシーコントロールを完成するためではなく、シーコントロールを拒否する潜水艦の排除に多くの資源と労力を割いているという戦略上の矛盾であった。このような不具合を解消するために誕生した「海洋戦略」は、海洋からのソ連封じ込めを謳った国家軍事戦略であり、平時の内からアメリカ海軍をソ連近海にプレゼンスさせ、緒戦をソ連の防衛圏において戦い、開戦当初から陸上の敵中枢部を破壊し、有利な形での戦争終結を企図するものであった。「海軍力を地球規模で展開し、ソ連を一層北へ、一層奥へ、氷海に下にまで封じ込める」、がスローガンとなり、波打ち際までソ連を封じ込める作戦が練られていった。アメリカの15隻展開可能空母と600隻艦隊、それに同盟戦略がその基盤であった。実現すれば、まさに完全な形のシーコントロールの達成であり、「歴史の終わり」ならぬ「海洋戦略の終わり」であったろう。1989年、アメリカは再び太平洋艦隊演習を実施する。「海洋戦略」を実証し、その意図と能力をソ連に認識させるものであった。その年マルタ会談があり、冷戦は幕を閉じていった。
 
「冷戦の終わり」、「歴史の終わり」、…そしてアメリカ海軍の「海洋における戦略」が、その後、本当に消えてしまうことになる。
 
b 冷戦後の海洋
湾岸戦争と「…From the Sea」
 1991年の湾岸戦争は、アメリカ海軍の兵力整備および作戦の両面に対して大きな影響を与えるものとなった。大国間の戦争発生の危険性が減少し変わって地域紛争が多発する冷戦後の情況に鑑み、アメリカ海軍では湾岸戦争における教訓を基に、海軍をドクトリンの面から基本的に考え直してみることの作業が始った。その途中成果として、1992年に、「…From the Sea」が海軍のホワイトペーパーとして発表された。「…From The Sea」については、その位置付けが不明確なところがある。冷戦後の地域紛争に対処するための海軍戦略であると評する向きもあるが、新たな戦略のための指針と考えた方がよい注32
 
「…From the Sea」はその冒頭で、「大規模な戦争の生起する公算が減少する一方で、我が国の国益に影響を及ぼす地域の不確実性が増大する時代に入った」と述べ、さらに「本戦略上の指令は、「外洋における戦闘」から「海上から実施される統合作戦」への根本的な変更を示すものである」としているように、従来の「シープラン2000」や「海洋戦略」に示される外洋(open sea)での海軍作戦から、地域紛争に対処するための沿岸海域(littoral sea)での統合作戦へとアメリカの海軍戦略を移行させることを表明するものであったといえよう。もっとも、海上核戦力や空母機動部隊等の兵力は不可欠とも述べており、保有海軍兵力を冷戦後の世界に軟着陸させるためのレトリック的なものも感じられたのだが、翌1993年に「ボトムアップ・レビュー」が発表され、ほぼ同時に発生する大規模地域紛争への対処と平時のプレゼンスがアメリカ海軍の兵力整備の基準となり、これが「…From the Sea」と相俟って、沿岸海域での統合作戦がアメリカ海軍の主作戦として位置づけられることになる。
 
「…From the Sea」を作成した時点では、未だ冷戦後の世界が流動的であるとの判断から、2年後までにこれを見直すこととされていた。これに基づき、2年後の1994年に改訂版として「Forward…From the Sea」が発表された。「Forward … From the Sea」は、海上からの統合作戦を成功裡に実施するための、速やかな沿岸海域への進出と、地域紛争抑止のための前方展開の重要性が強調されたものであり、そのために伝統的な海軍の機能も維持することの必要性が示されている。
 
海洋戦略と海軍戦略
 冷戦後の海洋に、アメリカ海軍に対抗し得る海軍力はない。シーコントロール能力とは絶対値的なものではなく比較値的なものである。どの程度の海軍力を持てば海洋あるいは特定の海域を排他的なものにし得るかは、彼我の海軍力の差を持って論じられるものだからである。アメリカの国益に対して脅威となる海軍力が小さくなればなるほど、アメリカとしてはシーコントロールのための投資を小さくすることができる。マハンの理論はここにおいて生きてくる。シーパワーは、シーコントロール力を持つ海軍力を常に海洋にプレゼンスさせることによって安定する。如何なる国に対しても、シーコントロール能力を持とうとする野心を起こさせないこと、それが平時におけるシーコントロールである。「…From the Sea」では、シーコントロールについて触れられていない。つまり、「海洋における戦略」がない。「Forward…From the Sea」では、それを“前提条件”としている注33。この“前提条件”としたものこそ、真の海軍戦略であるはずなのだ。“前提条件”は、“仮定”にすぎない。“仮定”は往々にして努力の対象から忘れ去られ遂には“絵空事”になってしまうものだ。ポエニ戦争の後、地中海においてローマに敵する海軍力がなくなり、地中海の防衛が海軍から沿岸陸軍に移され、やがて地中海に力の真空地帯が生じてオスマン・トルコの侵入を許したという戦史を思い出す必要がある。
 
さて、「海洋戦略」と「海軍戦略」とは別のものとして定義づけられる。「海洋戦略」とは、海洋をいかに利用するか、つまり利益に適った方法で海洋を利用するための「謀」である。言い換えれば、シーパワーを獲得し維持するための「国家戦略」である。「海軍戦略」は、「海洋戦略」に貢献するために海軍が用いる「計」であって、言い換えれば、シーコントロールを達成するための「軍事戦略」である。
冷戦において、「海洋戦略」は「海軍戦略」そのものでもあった。冷戦は双方からの抑止戦略の相互作用によって形作られており、そこにおいて、平時と有事の境界は曖昧なものとなっていた。アメリカ海軍は、ソ連を洋上から封じ込めるために、同盟国と共同して地球的規模でのシーコントロールを達成しようとする。ソ連はそのようなシーコントロールを拒否するための海軍力を展開した。海運、漁業、国際海洋法など、海洋を巡る全てのものが米ソの海軍戦略と深い関わりを持っていた。シーパワーを巡る角逐はシーコントロールの角逐でもあった。冷戦における米ソ双方の海軍戦略は、地政学的にいえば、平時のうちから繰り広げられる「シーパワー対ランドパワーのグランド・ストラテジー」であった。その意味において、海洋にシーパワーを巡る争いが有ればあるほど「海洋戦略」と「海軍戦略」は同質のものとなっていく。逆に、地域紛争への対処が海軍の主任務となり、海洋のコントロールといった海軍本来の任務が既成の事実となっているような世界では「海軍戦略」は「海洋戦略」から遊離していくものである。シーコントロールの欠如は海軍戦略を消滅させ、やがてシーパワーを不安定なものとする。
 








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