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海上交通網に関する安全保障戦略と海上防衛・警備及びその法制度
プロローグ
 海洋の安全保障を、海上交通網の確立とその安全の確保、という観点から考察する場合、まず、シーパワー論から始めなければならないだろう。
 
 アメリカ海軍大佐(当時)アルフレッド・T・マハンが「歴史に及ぼしたシーパワーの影響(1660〜1783)」(「海上権力史論」)注1を著したのは1890年のことである。この一冊の書が、アメリカの海洋戦略の礎となり、やがて、そのアメリカの海洋戦略が、20世紀の「海洋世界」に大きな影響を及ぼしていくことになる。
 
 「海上権力史論」の中でマハンは、海洋史を紐解き、古来、海洋を適切に利用し得る力を持った国家が通商によって繁栄を得てきたという歴史的事実を示し、国家が海洋を利用し得る力を“シーパワー”と呼称して、海洋国家アメリカがそのような力、“シーパワー”を持つことの必要性を説いている。ここにおいてシーパワーは、単に海軍力といった国家の持つ排他的強制力のみならず、造船力や航海術、通商力、交易のための中継地と補給力、さらには国民の海洋気質といった、まさに国家をして海洋国家ならしめる“すべての力”である。海軍力はシーパワーの一部を構成するものであり、シーパワーを保障するための、言い換えるならば、必要に応じて“海洋を管制(シーコントロール注2)するための力”、として位置づけられた。
 
 この書を読んだ後の大統領セオドア・ルーズベルトは、「これは非常に良い本、賞賛すべき本だ。もしも、これが海軍の古典とならないとすれば大変間違っていることになる」との手紙をマハンに送っている注3。当初、「海上権力史論」が評価を得たのは、孤立主義の中にあったアメリカ国内ではなく、イギリスにおいてであった。世界の海を制するというイギリスの政策に正当性の論拠を与えたからである。後になって、アメリカがアジアとの関わりを深めるようになると、「海上権力史論」はアメリカでも広く知られるところとなり、シーコントロール理論がアメリカのネイヴァリズム(大海軍主義)の下敷きともなり、やがて、アメリカのみならず多くの海洋国家において“海軍のバイブル”となっていく。
 
 マハンが謂う“シーパワー”を普遍的な定義として歴史を溯れば、その発祥を地中海に求めることができる。地中海を舞台としたフェニキアやカルタゴの通商活動を吸収あるいは制したローマが、やがてその国力によって地中海を自由に使用し得るシーパワーを確立することになる注4。その後、スペインとポルトガルによる大航海時代が幕を開けると、地中海世界のシーパワーがインド洋、アジアの海、太平洋を啓開し、その海洋を舞台としてオランダが盛衰、やがてイギリスのシーパワーが7つの海を支配してパクスブリタニカの時代を形成、そのシーパワーは、イギリスの衰退の中でアメリカに受け継がれていくことになった。ローマによる地中海支配以降、歴史上のシーパワーにはシーコントロールの可能な海軍力が常に備わっていた。
 
 アメリカの海洋戦略は、アメリカ海軍の太平洋戦略と密接に関連して発展をしてきた。そのアメリカ海軍の太平洋戦略の基本は、1900年から1910年代を通じて形作られている。そこでは、旧大陸からの完全な独立を目指すモンロー主義と、アジアにおける権益を巡って太平洋のシーレーン注5の重要性が認識され始めた時代を背景として、マハンのシーパワー論がアメリカ海軍の政策立案者達に大きな影響を与えていた。1次、2次の世界大戦を通じて海洋は覇権争奪の場となり、その後の冷戦の50年間、パワーバランスの世界が海洋を支配していた。そのような20世紀の海洋において、すべての海洋国家の海洋戦略は、“アメリカの鏡”であった。
 
 今、20世紀の海洋を統べてきたアメリカ海軍戦略が姿を消してしまっている。“Naval Strategy is Dead”。1994年のアメリカ海軍学会誌「プロシーディングス」に掲載された論文のタイトルである注6。加えて、海運界のボーダーレス化、海洋における資源・環境などのグローバルイシューの顕在化と国際海洋法の基本構造の大きな変化の中で、今、海洋は全く新しいパラダイムの世界を向かえている。新しい海洋世界のパラダイムの中で、スロック、“Sea Lines of Communication(SLOC)” 注7の用語は、Consolidated Ocean Web of Communication(COWOC)に置き換えることが適当とも思える様相を呈している。
 
 本稿は、マハンのシーパワー論を拠り所としたアメリカ海軍の創設から冷戦の終わりまでを辿りつつアメリカの鏡であったともいえる20世紀の海洋世界の本質を探り、さらに、人類と海洋との関わりの歴史の中で生じた「海洋世界のパラダイムシフト」を回顧すると共に今日および将来の海洋世界の安全保障戦略、各国の防衛警備の現状、法制度を概観・展望して、人類の生存と持続的発展に不可欠である「海洋の安定化」の在り方について考察を試みるものである。








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