日本財団 図書館


アジア都市の文化論・・・橋爪 紳也
◎1 遊園地のアジア◎
 ここ数年、アジア各地の遊園地について見聞を重ねてきた。都市における人々の楽しみ、娯楽について比較研究をしたいという想いから始めた作業だが、境界を超えて普遍性を有する「文明」のありようと、地域に根ざした「文化」の対立と妥協について考えさせられることがしばしばだ。
 二〇世紀後半、ディズニーランドやユニバーサルスタジオに代表されるアメリカ流のテーマパークビジネスが発展をとげ、世界中の娯楽産業に大きな影響を与えた。この間、遊園地の設計技術、およびマーケティングを含めた運営の方法論など、さまざまなノウハウが開発され、蓄積された。またラスベガスのテーマホテルや各地のテーマレストランあるように、その技法は他の都市施設と融合し、さらなる拡がりを見せている。
 アジア諸地域も例外ではない。たとえば日本や韓国など経済成長をとげた国でまず模倣され、テーマパークのブームがまきおこった。またオーストラリア、バリ島、タイのリゾートなどでも、観光とエンターテインメント・ビジネスとを結びつける遊園地の動向が注目される。
 観光を基幹産業のひとつとするシンガポールでも、早くから数多くのテーマパーク群が建設されてきた。神界・仙界をはじめ中国伝承の不思議な物語を具体化する「ハウ・パー・ビラ」、皇帝が支配したかつての都城を再現する「ハン・ダイナスティ」などが著名だ。また本格的な都市型リゾートを目指すセントーサ島は、複数のテーマパーク群とリゾートホテルが集積することで、島全体があたかも遊園地のように整備されている。
 大規模な都市型リゾート開発の動きは、東南アジア、東アジア全般に活溌であると見て良いだろう。そこにあって核となる役割を「物語」を重視する遊園地、いわゆるテーマパークという集客施設が担っている。テーマパークというアメリカ流のエンターテインメント・ビジネスは、娯楽産業における世界標準になりつつある。
 中国においても同様である。九○年代、国際観光客を招き入れようとする国策に呼応して、各地で官が主導する観光開発がさかんになった。国家旅游局は、九二年の「中国友好観光年」制定を端緒に、「中国山水風光游」「中国文物古跡游」「中国民族風情游」「中国渡假閑遊」「中国旅游年」というように、年度ごとにそれぞれ主題を定める観光キャンペーンを継続した。従来は外国人の立ち入りを禁じていた少数民族の住まう地域も順次開放し、エスニック・ツーリズムの振興もはじまる。この過程で、各種の民族文化を主題とするテーマパーク、いわゆる民族村が観光地に建設されたのだ。
 いかにも中国らしいテーマパークもある。西遊記を主題とする「東方神曲」、香港映画を主題とした広州の「東方電影世界」、軍が経営する「成都国防楽園」、アクロバットを主題とする河北省呉橋の「雑技大世界」など、実に多彩、かつ個性的だ。いっぽう道教のあの世を再現する四川省豊都の「鬼国神宮」、巨大仏像や石窟寺院のレプリカをならべる遊園地など、宗教や伝統芸能、民族文化に着目した遊園地も少なくない。中国にあっては、テーマパークというアメリカ流のエンターテインメント・ビジネスは、地域が誇りとする失われた地域文化を蘇生させ、さらには新しい地域文化の創造をうながす役割をも担っている。「文化の産業化」による娯楽産業の展開というだけではなく、「産業の文化化」がもたらす地域文化への波及効果にも注目するべきだろう。
 もちろん、いかに普遍性があるといっても、アメリカ流の「楽しみ方」が世界各地で受容されているわけではない。たとえば同じディズニーランドのアトラクションでも、東京とオーランドでは観客の反応が相当、異なっている。また設計と経営思想においても、必ずしもアメリカ流の「楽しみ方」のデザインが、そのままで各地で通用しているわけではない。地域独自の文化的文脈に沿うように翻案され、修正と変更がなされている。二〇世紀文明の所産であるテーマパークにあっても、多くの観光客を集めようとすればするほど、地域の文化について再考しなければならないわけだ。
◎2 アジア都市への視点◎
 「楽しみの流儀」に限るものではない。アジア諸地域の都市研究にあっては、文明と文化とのせめぎあいを考慮することが常に必要となる。
z0005_01.jpg
中国の広州世界大観
 いまさら「アジア都市」などと記すと、あまりに古い議論だと断罪されるかという懸念がある。「アジア都市」という響きから、まず想起されるのは、マックス・ウェーバーが唱えた東西比較、すなわち「東洋には西洋的な市民のゲマインデ(団体)としての都市」はないという見方であろう。日本の論者たちも、かつてはこの種の考えを受け入れて、みずからを遅れているものとみなし、西欧的な都市の近代化を受容した。それが機能的で秩序だった都市の構造や景観をもたらし、都市を維持・管理するシステムのありようなどを改めたとみなす。彼らの論調は、まず工業化・都市化の進展で農村共同体が崩壊し、個々人が都市に集住することを前提とする。やむをえず形成されたこの人口集積は、商工業によって支持されながら発展し、やがては自覚を持った市民層を形成、市政等に積極的に参画することで、結果的に西洋的な「市民の自治団体としての都市」となる。このような都市成長の過程が必然ととらまえられた。
z0005_02.jpg
シンガポールのテーマパーク「ハウ・パー・ビラ」
 しかしこの種の断定は、あまりにも西洋近代を肯定しすぎるきらいがある。西洋中心の史観である。「東洋停滞論」であり、ある種の「型」にすべてを収めようとする議論として批判されるところではないか。もちろん日本の中世にあって、さまざまな自治都市があり、また江戸時代の大坂や江戸などの大都市でも、かなりの都市自治があったことが知られている。たとえば京などでは、住民が相互に選出しあって、町の代表者を決めることになっていた。幕藩体制のもとにあっても、独自の民主主義が勃興していたと考えて良い。しかし従来の都市論では、その事実はアジアにあっては、むしろ「例外」とみなされてきた。
 ところが近年、欧米諸都市の活力が、一部では衰えつつあるという認識から、古い共同体の痕を遺しつつ、かつ雑然とした都市構造をもつ非西洋の都市的伝統、いわば「アジア都市」のありようの再評価がなされるようになる。わが国にあっても、新たなアジア観が、さらにはアジアの「都市観」が「文明論」の枠組みのなかで呈示されてきた。たとえば海運を媒介として中世に卓越したアジアにおける一大交流圏のありようが、最近、再確認されている。そこにあって拠点となった都市の役割、また市民が産みだした文化の豊かさは、実に豊かなものである。(たとえば角山栄「堺 海の都市文明」PHP新書 2000 「アジアルネッサンス」PH P研究所 1995「「生活史」の発見」」中央公論新社 2001)
 しかしいったい「アジア都市」なるものを、いかに定義するべきか。あるいはアジアにおける「都市的伝統」に支持された文化を、いかに解釈をなすべきかと考えはじめると、すぐさま困惑に陥る。それはそもそも「アジア」という呼称すら西洋社会が創った概念であるということができるからだ。極論すれば、非欧米かつ非アフリカという「補集合」がアジアであって、その内実はないとする見方もあるだろう。中近東、極東などの物言いも、確かに欧州中心の地理的認識にほかならない。
 そこに「都市」という言葉を連ねても同様である。実状と歴史を理解するほどに、「アジア都市」とは何かと、規定することすら不可能になる。東京からイスタンブールに至る広大なアジア地域には、信仰によって規範を定めるイスラム都市、古代中国に秩序の原則を遡る東アジアの都城、植民地やオアシスを源に文化混淆を特徴とする商都や港都など、あまりにも異なる都市の形態が散在する。西欧的「市民」の不在、アニミズムに由来する精神の残存など、「近代化」を是とする欧米の尺では計りきれない、むしろ彼らの規範では否定すべき多様性が分布している。
 しかし肝要だと思えるのは、この種の認識を前提としつつも、なおかつあえて「アジア都市」という類型を常に意識するという姿勢ではないか。たとえば友杉孝氏は、多様性を肯定しつつ、なおかつ「アジア都市」という概念を前提とすることの意義を強調する立場をとる。ヨーロッパ近代の都市文明を「光」とする時、「アジア都市」は「陰」として相対化されてきた。エキゾティズムの対象であっても研究価値は認められないとされてきたという。それが近年、その活力と、とらえどころのなさゆえに「光」に反転したとみなす。そのうえで友杉氏は、都市を「外部性を帯びる場」かつ「人々の記憶の媒体」と定めたうえで、海外貿易・コスモロジー・権力の三要素を分析対象として抽出し、相互の干渉が共時的な文化や通事的なストックを生成するという枠組みを示す。さらに近代化を果たした都市でも、高度化した市場経済・世俗化した社会・主権在民の大衆消費社会の三項から、共時的かつ通時的に分析することが可能だとしている。(友杉孝編著「アジア都市の諸相」同文館、1999)
 都市工学の分野にあっても、新たな潮流がある。西村幸夫氏は、都市計画学における「アジアの視点」の必要性を指摘している。アジアにおいては、いわば「近代化の多様性」を見ることができる。
 厳しいコントロールが実施されているシンガポールに対して、バンコクなどでは有効な規制力を持つ都市計画が実施されていない。ダッカでは英領時代の地積図が、いまだベースマップになっているといった具合である。アジア諸都市におけるこの多様性から固有の視角を見いだすことは、一見したところでは困難である。
 しかし.西欧都市とは異なる計画の前提があるという点に置いて、共通点があると西村は強調する。非西欧の諸都市であるがゆえに、西欧の理念的枠組みの相対化が必然となるのだ。たとえば都市と農村とが等価なものとして西欧では意識されるが、アジアでは決してそうではない。日本の都市計画にあっても、西欧的文脈のなかではなく、アジア的文脈において見直してみることで、その位置がより鮮明になる。わたしたちがこれまで無意識のうちに前提としてきた理念が必ずしもすべてに通用するものではなく、逆に適用可能性と限界が客観的に見えてくると指摘する。そこに「近代化の多様性」があるということだろう。(西村幸夫「西村幸夫都市論ノート」鹿島出版会2000)
 さらに西村は、アジア諸都市に共通する固有の理念が、その多様性のなかにあると述べる。たとえば「豊かな都市・貧しい農村」という構図が都市のなかにすら幾重にも織り込まれている点、人種・宗教による多彩な文化がモザイク状になっている点、加えてほとんどすべての地域が植民地化の経験を経て宗主国の影響がある点などだ。この種の特徴が、独立後の社会体制など多様化を増幅させてきた要因となる。重層的かつモザイク的に形成されてきたアジアの諸都市は、二〇世紀後半のわずかな時間で近代化の洗礼を受け、既存の都市のありようを大きく変えた。西欧では漸進的に見受けられた変容が、短期間に集中したことによって、「あらゆる面で過去と断絶した近代化」という様相を特徴としてみなすことができるという。この西村の認識には、考えさせられるところが少なくない。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION