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[連載] 仮設の間道[5] 極道
坂入 尚文
高市のあるたいていの町には庭主がいる。
庭主が仕切るのは庭場、極道が仕切るのは縄張りと言うように区別することはできるが、これに興行の権利が重なる。
この三者は同じ地図上に重複していて、それぞれのシノギで暮らす人々を、総称するとヤクザとなるのだろうか、現在ではこれらの区別が難しくはなった。
ついでながらおさらいしておくと、極道は昔、博徒と言った。
見世物小屋の立つ程の大きな高市に、香具師が集まり、博徒も賭場を開いたというのだから、三者は祝祭を掠めて生きていたのだ。
庭主は見世物興行の分方と同じように、高市の前後、神社仏閣や行政との調整に忙しいが、
それより大変なのが、外部からどっと押し寄せる各家名との調整で、これに失敗すると高市は大混乱に陥る。
遠路を走り、困憊のうちに立ち去る人々を仕切るのには、超人的な度量と、今日で言う情報の収集が必要になる。
そのためにだけではなく紛争を避けるためにも盃事を催す義理場を多く設け、外交に力を注いでいた。
庭主からすれば年に一度の高市を訪れる人たちは旅人ということになる。
旅人も又、外部の情報を知る大切な客人となっていた。旅人の多くは地元に帰れば庭があった。庭主も又、旅を掛ける事があった。
旅を掛けない庭主も居る。
もし庭場にいくつかの高市、いくつものボサ高、平日に商売のできる場所があれば、庭の中だけで生計を立てることは難しくない。
そしてそういった庭に、時流から離れたテキヤの心性を見ることができるのは、又当然のことでもある。
北海道余市市。私には古い兄貴分が居る。私の一人旅は新粉細工から始まっていて、その頃からすでに十数年が経った。
駆け出しのものは普通ガリ所場(一番端の悪い所場)を貰い受ける。
ところがここでは、二年目になって驚く程の天場所を貰い受け、高市にはちょっとした混乱が起きた。
それでなくとも人だかり、周囲の店が迷惑を被る。余程の家名か裏があっての事と、古参のテキヤ達はいぶかしがった。
松坂屋という興行の家名は、北海道のテキヤの中ではあまり知られていなかった。
つまり、うっかり手の出せないのをいい事に、私もかなり派手に売り出していたのだった。
小樽や余市などの庭を仕切っていたのは、両国家という家名。両国家は新興のテキヤ組織から、影に日向に圧力を受けていた。
そこにぽっと私が浮いたような形、ヤバイとも感じたが、次の高市での役銭にも事欠くような貧乏旅だったのが幸いした。
一歩たりとも引く訳には行かなかったのだ。
余市の手板(現在では地割りを記した紙)を入れたのが現在の兄貴で、数年後、別の高市中に盃を交す事になる。
後になってこの時の事を聞くと、飯も食えずに苦労しているのを見かねて、としながら、珍しいネタを大切にして高市を栄えさせるのが庭主の役目、旅人を世話するのも庭主の役目、かなりの圧力を受けたが、高市をシモリするのが俺の役目だと答えた。シモリ。これを私は死守と解釈している。
両国家の一人が北海道に流れ着いたのは明治時代。小原三郎という名が残っている。
幾度もの戦争で開拓や石炭、盗り放題の資源で潤った時代、その陰に隠れながら、内地と比べればテキヤの歴史は新しい。
それだけでなく、六月から九月、短い夏に集中して行われる高市は、業界にテキヤ王国と言う言葉を残す程盛大なものだった。
高市だけではない。テキヤ王国と言われるようになったのは、テキヤが、博徒の、極道の領域までを、仕切ることになる歴史と風土があったからにほかならない。荒くれのヤン衆や炭坑夫、遺棄された開拓民、先住民や強制連行の外国人、それやこれやで食い詰めた人達にとって、高市は又とない飯の種でもあった。
小樽にしても余市にしても、日本海側の高市は六月なかば近く、鰊の選別や出荷を待って、さながら群来のように行われたようだ。
それを狙って内地からも、どっとテキヤが押しかけた。
反面、冬場は何もない。冬場を高市のシノギで越せない者も多かった。
それらをすべて含めて、テキヤになる事は王国に参入する意味を持っていた事が、テキヤ王国という言葉の中に読んで取れる。
余市に生まれた兄貴は、祖父が四国からの開拓民だった。
伯父は根室でヤスヤス堂という金魚店を成功させ、母は金魚や小鳥などの店を持った事があった。はやれば何でもやった。
インコは家に飛びこむ習性がある。窓の開いた家を見付けるとインコを放つ。すると鳥籠が売れる。
同時に餌が、これはインコが死ぬまで売れた。兄貴の大好きな商売の秘訣を私は幾度か聞いている。
父は戦争中、配給の食糧しか口にしない堅物で、人前に出るのが嫌いのようだった。いつも家でダルマを作っていた。
兄貴が初めて高市に出たのは昭和21年、母親の手伝いをした。当時小学校四年。
十年程して小原三代目、秋川千代重氏の舎弟となる。
この方は暴れ者で、家には槍が飾ってあった。実際に使われたことがあるらしき話を、兄貴からは聞いているが………、
話を元に戻して兄貴の高市は平取の方面だった。
汽車で出掛け木賃宿で毛布にくるまった。
ネタは海ほうずきかヨーヨーだった。ヨーヨーはゴムの乳首を切り、鼻の洗浄器で色粉を溶かした水を注入した。
坂(私のこと)ヨーヨーの発明はお袋だと書いといてくれ、その通りここに書く。
冬の間は汽車や廻船で、根室や積丹まで天秤棒担いで商売に行くこともあった。雪の峠を越えた事もある。
金魚は主に漁師が買った。雪の中を三月、群来が来る前が売れた。
金魚オーイ金魚オーの掛け声は春を告げる風物詩だと語るが、金魚売りが俺の体を鍛えたと言う兄貴の精力には、幾度となく驚いている。
父が死ぬと冬の間はガサ(正月の飾り物)を作るようになった。
スゲは農家にたのんだが、〆縄は自分で編んだ。夏の間はボク屋(花木屋)も、これは十年位続けた。〆縄は現在もやっている。
少しの失敗など、どこ吹く風と生きて来たが、一度大あわてした事があった。
昭和31年頃、九州の島という親分が初めて北海道へ金魚すくいを持って来た。
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早速和紙で真似たところ、30分のうちに、全部の金魚をすくわれてしまう。
父親の妹の旦那が旭川の親分だったので、助六というチリ紙を贈って貰ったところ、列車一両分が届いた。それを15年間使う。
この眉ツバ的おおらかさの話を、私は疑っていない。
たとえば見世物小屋で働いていた頃、稚内の分方が、生きた毛蟹トロ箱二杯、どんと置いて食えと言う。
北海道ではすべての寸法が大きい。テキヤならではとも言えるかも知れない。
おおらかである。飲む時は夜明けまで、運転が危いと心配すると、明るくなる前に帰るのは余計危いと言う。
さくらんぼを食べ始めると、ワンパック食べ尽すまで手を止めない。
借地の立ちのきを告げられると、あわてず家を、そのまま隣の土地へ移した。
高市で分厚くなった財布が、翌日にはペラになっている。すべてが万事なり行きでしかない。
そうしていつしか神農会会長として高市を仕切るようになった。
両国家が業界三本の指に入る組織に編入したのは数年前のことだ。ここで暮らし向きが大きく変わった。
けっして兄貴の望みではなかった。おおらかではあるが、少しずつボサを育てて行く楽しみもあった。
地方のテキヤの生き方もある。何も売れない日を幾百と過して来た。
小樽などの高市が規制を受けると、それからの数年間は地獄となった。
久しぶりに会うと目が充血している。起きるとそのまま、居間でガサを作った。眠くなるとソファで寝る。
カラーコピーの鯛を厚紙に貼った。それを切り抜く。仕入れの金が無かった。
夜は刑事の目を盗むように、歓楽街へタコ焼を売りに行く。タコも居間のテーブルで切った。寸暇を惜しんだのだ。
商売から戻るのは明け方、それからぐるりと又同じ日々だ。
この生活は無理だと言った事がある。するとこうであった。
若い者も居る。自分が引けばすべてが潰れる。一分でも一秒でも、死ぬまでは続ける。私は何も言うまいと思った。
徐々にではあるが、高市は元に戻りつつある。当然ながらこの数年間の苦労で兄貴はすっかり老けた。
今年、数年振りに古平の高市に兄貴を訪ねた。二日間の私の売り上げ二万数千円のボサ。兄貴の店だけが少しは売れている。
イカピリカラ揚、大盛200円。手羽先から揚一本50円。100円ショップに負けられないと元気だ。酒を飲んだ。
昔の話に花を咲かせる。テキヤなあ、知ってるか、雨垂香具師て言うんだ。どういう意味か聞いた。
軒先三寸お借りしますって言うだろ、雨垂に濡れて商売するってな、極道が馬鹿にしたもんだ。
それとな三寸って解るか。三寸(露店)じゃないぞ、これっぽっちって意味だ。
長年の疑問が解けた。どうしても寸法が合わなかったのだ。匕口は九寸五分、露店は概ね七尺、ううむと思った。
すると、これっぽっちって解るか。小さな熱いハートがあるって事だ。冗長は持って生まれたの感が強い。
ケータイまで油にまみれて、この人はテキヤだ。生きて来たと同じ様に、代紋も仮の歴史なのだ。
私の手元に兄貴の作ったガサがある。こっそり納屋から盗んで来たものだ。
20センチに10センチの縦長、ビニール袋の口はたどたどしく切った色紙をホチキスで止めてある。
中には小さな竹の箕に、コピーした笹、寿と印刷された紙の盃、あの切り抜きの鯛、小判、松、おかめと、交通安全、梅らしき花。
解らないのが、背景に菖蒲のホンコンフラワー。何の脈絡もない。取って付けた出たらめとも思えて御値段ひっそりと130円也。
もし聞けば、勝負と言うに違いない。
庭場とは仏教から来ていると教えてくれた人が居る。香具師は下層僧侶の末裔なのだと。そうかも知れない。
それではテキヤとは何なのか。射的が語源であるので、陰陽道と関りがあると。そうであるかも知れない。
しかし、兄貴を見ていると、そんな関りに意味を求めるのがむなしくなる。
極道である。せめてこれっぽっち。出たらめにホンコンフラワーをくっつける。勝負だ。
そう言って笑いながら、こうしてここでも歴史は確実に狂って行く。
<飴細工師>カット=坂入尚文








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