◎7 カメラは日記帳◎
平成13(2001)年7月、ギャラリーで受賞作家作品展が開幕し、ひきつづき公民館において授賞式と受賞を祝う集いが挙行された。海外作家賞にはラトビア共和国のアンドリュース・グランツ、国内作家賞に細江英公、新人作家賞はオノデラ・ユキ、そして特別賞が飛弾野である。写真家・飛弾野の誕生は町内だけではなく、町外の写真関係者からも歓迎され祝福された。翌日にはフォーラムが開催され、列席したパネリストらから、飛弾野の写真展を国内の主要な美術館に巡回させよう、といった意見も飛び出す。そして、東京から来たという女子大生から質問があった。
「日本を代表する写真美術館でご自身の写真展を開催するなど、今のお歳になって写真家として認められてゆくことについて、どう思いますか?」。
「僕が写真を撮っているのはね、僕のカメラは日記帳代わりで、僕の人生記録だと思ってね、ずっと撮っているんです。だからこれ(写真展)を持っていってね、みんなに見せてね、オレの写真どうだなんて、そういうような気持ちは私には無いんです。自分一人で楽しんでおるわけでね、私はさっきもちょっとお話ししましたが、学校出てから役場に入って40年間勤めたんですけれど、いつも弁当箱とカメラは離したことがないと。そういうことです」。
保育園長時代の園児と一緒に記念撮影
そういうことなのだ。飛弾野は写真家になりたいとは思っていなかった。カメラや写真という道具が、ただ面白かった。撮った写真をあげると喜ばれた。人を喜ばすことは自分を喜ばせることでもあったし、それは日記帳にもなった。だから、物質的な身体の維持を意味する″弁当箱″と同じように、飛弾野にとっての″カメラ″は精神的持続を意味し、それをいつも傍に置いていた。こう考えると飛弾野と写真との関係の輪郭がうっすらと見えてくる。飛弾野はかつて私に語ったことがある。「他所に行って、道ばたにどんなに綺麗な花が咲いていてもね、それを写真に撮りたいとは思わないんです。自分の家の周りに咲いている花の方がいい。どんなにちっぽけでヘンてこな花でも撮りたくなる」。こういった心から飛弾野の写真は産まれるのだが、この周囲への愛着心は一体どこから生まれるのだろう。そして、これからどこへ行くのだろう。飛弾野数右衛門という″写真家″は、本人の自覚の中では今も、そして永遠に誕生しないのかも知れない。
……………<ゆうざきてつし・東川町写真の町推進企画専門員>