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◎6 写真家の誕生◎
1 写真の町−私自身の回想
 私が飛弾野とはじめて会ったのは昭和60(1985)年。その前年、東川町の有志から依頼を受け、与件や期待には決して応えてはいない「写真の町」という構想を起案し、提案した。時の町長・中川音治は二ヶ月間熟考し、その提案内容を丸々実行に移す決心をした。以来17年に亘り、中川を″産みの親″とするなら、後任の町長・山川は″育ての親″として、写真の町づくりとその主要施策を継続し、今日にいたっている。
 実は、この提案をした時、飛弾野の存在やその活動のことは全く知らなかった。そして、飛弾野と東川町が歩んだ、まさに″写真の町″と呼ぶにふさわしい歴史的事実を、この執筆のために調査をはじめた昨今まで、私は全く知らずにいた。この記述の中に登場した上田亮一(現・東川町議会副議長)はじめ多くの人々は写真の町づくりの影の推進役だった。例えば、カメラクラブの若手メンバーだった森下滋は写真の町を宣言した時の助役である。飛弾野と足跡を共にし、その洗礼を受けた人々が私の提案を支えてくれていたのだ。無知でいたことが恥ずかしい。
 町がこれだけ写真の施策を行っていれば、写真に関わる者ならしゃしゃり出てくるものである。ところが飛弾野はただの1度も自分から写真を見せようとはしなかった。口出しも一切無かった。毎年行われる東川賞授賞式には町民として必ず参列し、いつも正装して客席に座り、嬉しそうに笑って拍手を送っているだけである。何も知らぬ私は、飛弾野の明るく飄々とした人柄に触れ、その笑顔の下にちょこんとすまして結ばれた蝶ネクタイを毎年見れるのが秘かな楽しみだった。
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道路愛護共励会、2年連続1位となる(昭和27)上田亮一さん(左)と岡島博さん(右)役場。
2 こだわり−飛弾野写真との出会い
 最初に見た飛弾野の写真は20点程であった。1回目のフォトフェスタに「我が家の古写真展」という、町民に参加を促す展覧を行ったが、あまり集まらず、当時のフォトフェスタ推進室長・福家一博が飛弾野を訪ね、借りてきた。それはガラス乾板ネガには不向きな現代の印画紙でプリントされていた。そのためにネガに備わっている細やかで豊かな描写は損なわれ、写真に秘められた力は半減して見えた。飛弾野と初めて会ったとき、もっと見せて欲しいと伝えたが、「オレの写真なんてロクなもんじゃない」と笑顔で語り、見せてくれようとはしなかった。その後も会うたびに話しかけたが、ニコニコしているだけ。この「オレの写真なんてロクなもんじゃない」という言葉を私は何度聞いたことか。
 飛弾野の写真をまとまった形で見ることができたのは東川町にギャラリーが出来た翌年の平成4年(1992)。貸館の日程が埋まらないために、飛弾野は頼まれて40点程の展示を行った。この写真も印画紙の関係で写真の引力を存分に発揮してはいなかったが、私には驚嘆する内容であった。ついに家に押し掛けると、また「ロクなもんじゃない」と笑いながら、ファイリングした80点程の写真を見せてくれた。
 私は密着焼きも見れないだろうかと頼んだ。ネガを全て焼き付ける密着焼きは一切つくられていなかった。ネガは長尺のままクルクルと巻いて紙の箱に保存されている。これでは今のようなスタイルの密着焼きをつくることもできない。ネガは千本近くありそうだ。これを整理してプリントを作成すれば″宝の山″かも知れない。しかし、その作業を全く欲のない、しかも高齢の飛弾野に期待することはできない。以来、飛弾野の写真に私はこだわりを抱くようになった。
3 写真家誕生−写真展「昭和の東川」
 飛弾野へのこだわりを当時写真の町推進室長だった山森敏晴も忘れることはなかった。教育委員会の社会教育課長に転属した後も、脳裏に刻み込んだままでいた。町の予算を得ることは困難だが必ず実現したい。平成11(1999)年、山森は国策の中から、ある助成金を見つけ、助役の小坂忠や現・推進室長の伊藤直哉らと相談し、申請する。翌年、申請は認められ、半年の期間をかけてネガは整理された。全ての密着焼きもつくられ、700点の小型プリントと160点のオリジナル・プリントも作成された。
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東川賞を受賞する飛弾野さん
 同年12月、写真の町東川町文化ギャラリーにおいて「飛弾野数右衛門写真展・昭和の東川」が開催された。飛弾野は生まれた時から現在まで、戦時期と旅行以外、東川を離れたことがない。大きな時代の流れに翻弄され、あるいはそれとは関わりなく生きた名もない地域と個人の歴史。飛弾野の写真はその記憶を重ね合いながら、昭和という時代の側面を証言するものだった。そして、この展覧が東川賞候補にノミネートされ、翌年3月27日に行われた第17回東川賞審査会において満場一致で特別賞に選出された。
 同日中に飛弾野へ受賞についての打診があった。飛弾野にとっては寝耳に水。晴天の霹靂。どうも自分のことのように思えないが、他人事でもないようだ。ましてや自分の町が主催している。「オレの写真なんてロクなもんじゃない」が、了解するしかない。飛弾野は最後に「喜んでお受けします」と返答した。飛弾野の写真がはじめて世に認められ、自分が写真家の一員であることをはじめて自覚した瞬間であった。写真家・飛弾野数右衛門はこの瞬間に誕生した。3月27日、それは奇しくも87歳の誕生日でもあった。








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