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◎若者の引き籠りと表現行為◎
筑紫………映像で言うと、僕ね「ぴあ」の映画の審査というのを今年やりましたが、もう二度とやらない(笑)。審査する映画ほとんどみんな同じなんです。ただ、自分の3メートル四方以外には何も興味がないんですよ。だからそこに時代はあまり流れでてこないのね。ものすごく、世間の中でナイーブな自分を、それこそ違う意味でのナイーブなんだけど、精緻に撮るんだけど、だから何なのと言いたくなります。映画というものはもう少しパブリックなものだから。そこに籠っちゃってて、それ以外に何も出てこない。僅かに出るのは、公園のブランコなんですよ。たくさんの作品を見ると、公園のブランコがものすごく多いですね。それで僕は腹を立てたら、実はあなたが最初でなくて、国際コンクールに若者の作品が出ていくと、審査員は「我々は何度、日本の、ブランコの絵を見せられたか。いい加減にしろ。ほかに表現の仕方ないのか」と言っているんだそうです。それは、多分、自分の内なる世界から僅かな外側のシンボルがブランコにしかない。公園は安全区域じゃないですか。その映画はその先には何があるか分からないところへ出ていかないですよ。
 幸い外と関わらざるを得なかったのだろうと思いますね、昔はね。否応なしに入営させられちゃう。そして中国に連れていかれるし、いろんなことがあって、その中で社会人としての自分の、社会人としてのプライベートライフがあるじゃないですか。だからそこがクロスして、個人を撮っているようでも、そこにどっか世の中のことが関係しているわけです。
 今は世の中と付き合わないでいけますからね。今、この国には100万人の引き籠もりがいるだろうといわれています。引き籠もりなんて人類最大の贅沢です(笑)。東南アジアで、引き籠もっていたら全部飢え死する以外ない。誰が食糧をドアの外まで持ってきてくれますか。だから、僕も撮る人も大変だと思うのですよね、若い人もたいへんだなと思うのだけど。逆に日本の伝統的な私小説がグーッと映像にさえ出てきちゃう。内に向いてるのだけどね、だけどそれでどうなのと言いたくなるわけです。その中を通り越して、普遍性を持っていればいいんですけど、あまりそうでもない。
平木………学生だけじゃなくて、リクルートでやっている写真の公募作品なんかも、ほんとに筑紫さんのおっしゃる通り、3メートル半以内ですね。一坪展ていうのですね(笑)。それでね、やはり自己憐憫みたいなのがあるんですけどね、とにかく臆病です。人並みであればいいというのが表現なんですね。ですから、たまたまやっているのが多くて表現ということに対して別に興味を持っていないんでしょうね。その中から何かを見いだそうというのはもう無意味かなとこのごろ思うようなこともあります。
勇崎………外側との関係持つというのが、写真は作りやすい。対象と関係性を持つというのが、写真のすごい武器というか、得意とするところなんだけども。その関係性を持つことが、若い人の中には出来なくて、飛弾野さんは撮り、その方にあげて喜ばれるということで、その関係性を持つということが違うのでしょうね。
平木………今、写真の表現を、内引きこもりの理由っていうか、言い訳にしているようなのが多いです。ですからほんとに自分のまなざしというのは、自分のプライバシーであり、もろにあんたが出ているんだよと言うと、ドキッとするとかね。荒木さんの荒木経惟の写真が「私のことを語っていればいいんでしょ」と、「それと同じようにやればいいんでしょ」と生徒は言います。しかし荒木さんは「私」といっているけど、あの「私」の裏にはもっともっといっぱいあって、あの人の「私」というのは公開上の「私」だからねといったら、「ああ、そうなの」ってなもんですね。だからほんとに正体を知らないというか、写真を教えていることというのは、どういうことなんだろうなと自問自答に苛まれる日々ですね。








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