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[新連載]厦門福建省の建築・都市文化 戸外にあふれだす人々の生活空間
 恩田 重直
 
◎海賊の跋扈した交易都市◎
 二〇〇〇年、「アモイ」という中国福建省の一都市が新聞紙上をにぎわした。厦門副市長をはじめ、複数の党幹部が密輸に関与した汚職事件である。百名以上にも及ぶ逮捕者を出したこの事件は、日本でも大々的に報道された。中国国内も震憾させたが、同時に福建省の良くないイメージの一端であった。
 そもそも厦門は海賊のまちであった。一四世紀の明代初頭、厦門に城塞が築かれた要因は中国近海に倭寇が出没していたことによる。沿海地域の海防強化のため、軍事拠点が置かれたのだ。以後、中国は鎖国政策をとるが、厦門周辺は密貿易で栄えた。なかでも、一七世紀中葉の明末清初に長崎の平戸にも出入りしていた鄭芝龍、鄭成功父子は厦門を根城とし、交易を行っていた海賊であった。(図[1][2]写[1])
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写真[1]厦門市街に建ち並ぶ騎楼の街並み
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図[1]厦門位置図
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図[2]一九〇八年の厦門復元図
厦門は福建省の東南沿海部に位置する。台湾海峡に面して浮かぶ島であり、厦門市街は島の南西にある。花崗岩からなる地質により、起伏に富んだ地形になっている。かつての城塞は、比較的なだらかな地形の厦門市街の中でも最も高い場所に築かれた。厦門市街の対岸にはかつて、共同の外国人居留地となった鼓浪嶼がある。
 海賊が跋扈するぐらいだから、厦門は天然の良港を備えていた。その上、丘陵に恵まれた地形は防備の面からも適した場所であったに違いない。打倒清朝を目論んだ鄭成功が、清朝に鎮められてまもなくの一七世紀末に税関が設置される。正式な交易都市としての幕開けである。しかし、厦門は府や県といった当時の行政単位に名を連ねることはなかった。その影響は都市形成にも及んでいる。城塞の外側に形成された市街地は堅固な城壁に囲まれることなく発展し、街路も丘陵地形に沿った曲がりくねった街路になっている。計画性は皆無に等しい都市であった。
 さらに、天然の良港の存在は諸外国も魅了した。一八四二年に中国とイギリスとの間で勃発した阿片戦争の後に、外国人居留地が置かれた開港場となった。そして、様々な海外の文化をもたらしたのである。(写[2])
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写真[2]鼓浪嶼からみた厦門市街
かつての外国人居留地であった鼓浪嶼には赤レンガの洋館が静かな佇まいを見せながら建っている。一方、厦門市街は高密度に市街地が形成されている。現在、経済特区に指定されており、近年では高層ビルが建ち並ぶ。
 また、多くの福建省南部を出身とする中国人が厦門から海外へと渡っていった。東南アジアをはじめ世界各国に散らばり、華僑・華人となって厦門に舞い戻る。彼らの資本は無秩序に形成した厦門の都市改造に寄与することになる。一九三〇年前後のことである。
 このような歴史的な背景をもつ厦門には様々な建築や都市空間が混在している。無秩序に形成された狭い路地に建ち並ぶ古色蒼然とした中庭型の四合院や店舗併用住居の街屋。所々に見られる西欧風の外観をもつ近代住宅。(写[3])さらに、近代都市改造により開発された通りにはアーケード(柱廊)をもつ街並みが連なる。そして、これらの建物は多様な都市空間を演出しているのである。(写[4])
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写真[3] 騎楼の屋上から見た四合院…
一九三〇年代前後の都市改造によって、厦門市街には縦横無尽に近代的な街路が通された。この街路に沿って、一階部分が柱廊となった騎楼が建ち並んだ。しかし、その裏側には依然として都市改造以前の街路が存在し、伝統的な四合院や街屋などが建っているのである。
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写真[4] 一階部分に柱廊をもつ騎楼…
騎楼の、一階部分が店舗となっており、二階以上が居室である。個々の騎楼のデザインを見ると、それぞれ異なっている。
 こうした渾然一体となった都市空間を背景に、人々が様々な営みを演じる。人々の営みは都市の活力ともなり、都市空間の質が高められていることは歪めない。厦門は、いわゆる正統的な中国都市ではない。しかし、様々な要素が絡み合い構成される都市空間の様相は中国都市のそして、アジアの都市の縮図であるといえまいか。本号では、厦門の成り立ちと人々の生活空間に着目したい。








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