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4 丸クギと角クギそしてしめなわと仏間
 上記のとおり、編年の指標には、[1]その地域に特有なもの、[2]その地域の周辺さらに広い範囲に広がりを持つもの、[3]全国的に通じるものがある。使用しているクギが、丸クギか角クギか、この指標は全国的に通じる指標の一つである。まず、これについて説明する。
 
〈丸クギと角クギ〉
 島原の家々は、古いもので江戸時代末期か明治期の建築であり、多くはそれ以降に建てられたことがわかってきた。民家史の時代区分は、江戸時代を近世、明治以降を近代としている。江戸時代と明治時代とで世の中は大きく変わるのであるが、一般の民家がこの時代区分にしたがって急に変わるわけではない。政治や経済にくらべれば変わり方は緩やかである。江戸時代末期の建築か明治初期の建築か、その年代判定は難しい。ただこの時期の建物では、そこに使用しているクギが年代判定の有効な指標となる。つまり、使っているクギが丸クギか角クギかが役立つのである。
 読者のみなさん方は、丸クギは洋クギともいわれ、現在一般的に使われているクギであるから、その形はおわかりであろう。この丸クギ・洋クギに対して、角クギは和クギとも呼ばれ、わが国で古くから用いられていた。角・丸、和・洋の文字がつくクギの名称は、釘の胴の断面形が角形か円形か、また、どこの産であったかをあらわしている。
 わが国では、古代から明治初期まで角クギが使われていた。長い鎖国から開放され、欧米との貿易が盛んになると、当時、欧米で使われていた、いわゆる洋クギつまり丸クギが輸入されるようになった。この洋クギが民家建築に普及するのはいつか。これまでの調査の経験によると、明治10年代(1877〜86)にほぼ全国的に普及し使われるようになった。輸入品である洋クギは意外に速く全国に普及したのである。
 最初は輸入品であった洋クギも、明治34年(1901)に官営八幡製鉄所が創業し、製鉄の近代化が始まる。この前31年には安田製釘所が洋クギの生産を始めている。この後、公害問題など多少の混乱はあるが、大正に入ると洋クギはほとんど輸入品でなく国産品に変わる。洋クギを使うことについて、最初は抜けやすいのではないかなどと批判もあった。しかし、洋クギの値段は和クギにくらべて格段に安かった。和クギは鋼材であり、一本一本を焼いて打って作った。江戸時代の普請帳をみると、クギ代が建築費の数パーセントに及ぶ例がある。これに対して、洋クギは機械を用いて針金から大量に作れるから安くできる。われわれは、江戸末期・明治初期の建築にみえる建物に出会ったときには、和クギを使っているか、洋クギを使っているか調べ、明治10年代以前か以後かを判断するのである。ただ、この時代の建築はすぐ見えるようなところにクギを使っていないから注意深く調べなければならない。
 
〈しめなわ〉
 つぎに、しめなわについて説明したい。これらは島原の調査地区に特有なもの、またこの地域の周辺にも及ぶ指標である。
 前に記した通り、島原の家々の入口上のまぐさにしめなわを正月の期間だけでなく一年中飾っている。地元の方々はこの慣習を普通のことだと思っている。しかし、これは普通のことではない。年がら年中しめなわを飾っているのは、一般的には神主さんの家とか特殊な場合である。しめなわはどの家でも飾っているから年代判定の指標にはならない。ただ、島原の家々で一年中しめなわを飾っているのは、その家がキリシタンでなく神道であることを表現するものだった。
 
〈仏間〉
 島原の規模の大きな家々では、家の前面の壁線を前面の道路にあわせて一直線にせずに、主屋主体部のもっとも上手前面、つまり、客座敷の前に張りだして小部屋を設け、ここから道路に沿って下手に塀を建て、塀と建物の間に小さな坪庭を造り、この塀に門を作る。この門を不浄門などと呼ぶという。この張りだした小部屋は仏間である。仏間を上記のように張りだしてはいないが、家内のもっとも目立ちやすい位置に仏壇を安置している家もある。ともに仏間を特別扱いして仏教徒であることを建物の造りに表しているのである。
 客座敷の前面に仏間を張りだす形式の家は、現在では建てられることはない。この形式の家はいつまで建てられていたのだろうか。編年の結果によると、弾圧されていたキリスト教が解禁される明治6年(1873)以前までであるようだ。








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