生き方・自分流
自ら選んだ「日本人」
自分のことをギャンブラーだと思う。ぼくは自分の人生を賭けているから
琉球大学医学部附属病院
救急部助手
武永 賢さん(36歳)
ベトナム・サイゴン生まれの少年が来日して19年の月日が流れた。13歳の時から繰り返し国外脱出を試みること7回。命を賭けた危険な旅路の果てに、ついに合法難民として家族とともに日本に到着した時、17歳になっていた。待っていたのはまた別の試練。文字通り漂い、もまれ、いくつもの波濤を乗り越えて来た。そして94年、大学卒業と同時に日本人に帰化、医師国家試験に合格。「特別な生き方を貫いてきたわけじゃない。ただ流されるままに生きてきた」という武永さんが、救急外科医として見つめる、今の日本、過去のベトナム、二つのふるさと。
(取材・文/森山 恵美)
ぼくは風に吹かれて漂っている
沖縄県の琉球大学医学部附属病院は、市内から離れた緑多い丘陵の中腹にある。キャンパス移転に伴って病院も移ってきたので周囲に建築物はまばらだ。うららかな天気の休日など、人気もなくひっそりとしていて国立病院の病棟とも思われない長閑さ。ここの救急部が武永医師の現在の職場である。当直の夜の嵐のような救急外来の様子を「まるで無法地帯のような、戦争が終わったばかりの廃墟のような、すさまじい光景」と表現する。ベトナム出身の人の言葉だけにインパクトがある。昨年出版した半生記の中の一節である。本は「それでも日本人になった理由」(ポプラ社)。この刊行がきっかけでテレビや新聞の取材を受ける機会が増えて、少々困惑気味。執筆の経緯は本の中に書いてあるのだが、何も知らない人から「すっかり有名人ですね」などと声を掛けられると戸惑う。
「将来のことで悩んでいたころ、やはり難民だったベトナム女性が医大に進学した新聞記事を読んだことがきっかけで、ぼくも、と発奮することになったのです。ぼくの本や記事を読んで、どこかで誰かが希望を持ってくれるなら、という思いがあるから敢えて取材を受けるのです」
白衣を脱いだ素顔の武永さんは、物静かでシャイな青年である。優しい顔立ちのせいか年齢より若く見えるが、「36歳まで生きてきて、さほど驚かないし、今さらがっかりもしない。医学の世界に飛び込んで、良くも悪くも大人になったと思います。こだわるものは何もなく風に吹かれて生きています。純粋な少年の面影はもうありませんよ」と笑う。
「それでも」に込められた思いモットーは偽善者にならないこと
本のタイトルの「それでも」に、武永さんの複雑な思いが込められている。命を賭けて脱出を試みる息子に「どんな国にたどり着いても、まともに生きていきなさい」と送り出したお母さん。どんな国でも、どんなことがあろうと、それでも生きていきなさい、という窮極の励まし。
「10代後半から20代にかけての感受性の豊かな傷つきやすい時期を、いわば社会の根底に身を置く立場として過ごしてきました。苦い思い出もあります。良い面悪い面もみんな含めて、それでも結局日本が好きだったということです。ベトナムは18歳から選挙権があるのですが、17歳で国を出てきたぼくには国民という意識もなかった。日本の国籍を取るのはぼくには自然なことでした」
無国籍という、義務も権利もない宙ぶらりんは具合が悪い、日本に帰化して税金を払い、きちんと生きていくことが日本への恩返しにもつながると、下した決断だった。そのようにして成長した青年が、実際に医師として社会に飛び込んでいって、どうなったか。救急医としての日々は、患者さんのため人のため、などというきれいごとではない。もちろん当直の日は緊張して治療にあたるし、重篤な患者さんがいると泊まり込みで看護する。が、力を尽くしても達成感を得ることはない。自己満足はあっても、患者さんに喜ばれることは稀。ただ、今まで経験してきた辛いことを思うと、ほとんどの修羅場は平気だという。「ぼくは譲歩に譲歩したうえで、せめて偽善者にならないで生きろ、と自分に課しています」「明日は明日の風が吹く。明日できることは明日にとっておこう、と思っているのです」。淡々とした口振りが、かえって激務を彷彿とさせる。
与える方も受ける方もありがとうと言えるチャンス
在籍した杏林大学や難民支援団体から奨学金を受け、またたくさんの見知らぬ人々の支援もあって、思う存分勉強することができた。勤務医となった現在、立場は受ける側から与える側へ逆転した。6年前インド・カルカッタの「マザーテレサの家」へのボランティアツアーに参加。このときのことを本の中で「ボランティア活動をした自分をえらいと思い込んだり、自分自身を見失って勘違いするのは困るけれど、いいことをしたという自己満足感は、至って人間的な当たり前の感情ではないかと思うのです」と記している。自分が一方的に支援を受ける立場だったとき、それがプレッシャーになることもあったが、できることをできる人がすればいい、と思えるようになった。
寄付や献金もできるときはする。そして、自分にそういった機会があることを感謝するのだという。学費が捻出できずピンチに立った武永さんのことを新聞記事にして応援した作家の曾野綾子さんの影響だそうだ。ボランティア活動というのは、支援する方も受ける方も、ともに「ありがとう」と言える滅多にないチャンスなのだという考え方。ここ数年愛媛大学医学部で勉強している甥の学費を出している。申し出を受けるかどうか迷っていた姉に、「ぼくは今できることをする。もしできなくなったら、また別の道があるだろうけど、とにかく学費を出せることを感謝していると伝えました。ぼくだって、一人の青年の将来を左右したくはなかった。責任は確かに重い。ただ、できることに感謝している。姉も甥も感謝していると思います、ぼくにではなく」。
さらりと語られる感謝という言葉が、ごく自然に響いて説得力がある。家族に愛され、大勢の人に守られ、苦労はしたけれど幸運な人生をたどってきた人の率直な本音だからだろう。
勤務する琉球大学附属病院。救急外来にて
ふるさとはふるさとベトナム出身の新しいタイプの日本人として
「求められているのは、自分のバックグラウンドではなく医師としての腕」と明言する武永さんは、チャンスがあれば留学して勉強したいという気持ちもあれば、ベトナム語、フランス語、英語などを生かした職場もいいと思うし、場所や地位に拘泥せず将来のことを漠然と考えている。患者さんの中でも、戦前の教育を受けた人とは話が合うことが多いが、同世代や、やや上の世代の人とは違和感があるという。高学歴の医師でも「どんな教育を受けてきたんだろう」と首をひねりたくなることも。そんなときは、恵まれた環境で、教養や文化のある教育を受けてきたことをありがたいと思う。
「ぼくは新しいタイプの日本人だと思ってもらえばいいんです。ベトナムは祖国ではあっても、懐かしい思い出はなく、あるのは幼いころの心豊かだった家庭生活の記憶なので、ふるさとはやはり日本です」「本当はね、医師でなくてもよかった。何でもよかった、ガードマンでもよかった」
南国のまぶしすぎる太陽にちょっと眉をひそめて、かみしめるように話す。家庭環境のせいでプラス思考だったといっても、出世や名声を目指したことはない。どこででも、どんなことでも責任を持って仕事ができれば、それでよかった。
「だってぼくには、失うものは何もないんですもん。ぼくは今も漂流中。賭け事はきらいだしパチンコすらしないけど、自分のことをギャンブラーだと思うことがあります。自分の人生を賭けているから」
昨年4月に発行された「それでも日本人になった理由」
「失われた10年」の中で自信喪失気味といわれるニッポン。確かに企業はバブル経済の後遺症からいまだに抜け出せていない。しかしバブル時期に我々が失っていたのは、「自ら生きる」という気概ではなかったのか。この10年で私たちはそのことに気がつき始めた。経済指標で測る失われた10年は、人間再生に向けた10年であったともいえる。懸命に生き抜くことだけを見つめてきたこの若い青年が選んだ日本を、我々も、もう一度、見つめ直してみてはどうだろうか。
別れ際、
「ぼくにとって、ホントに日本はチョーイイ」と彼はつぶやいてほほえんだ。本の中で、歌手になりたかったという告白があったが、小さなホールで聴く武永賢のジャズのスタンダードナンバーは「チョーイイかも」と、こちらもふとほほえみそうになった。