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私はあの戦争をこう考える
宮本 敏夫(みやもととしお 一九二五年生)
第一章 グース(雌鵞鳥)用のソースはガンダー(雄鵞鳥)用のソースにもなる
 別名―目くそ鼻くそを嗤う―
 (一) この一文を書くに当たって大いに参考にした本として、ヘレン・ミアーズ (Heren Mears)というアメリカ女性の本がある。書名は「アメリカの鏡・日本」(伊藤延司訳一九九五年アイネックスメディアファクトリー刊)。これは日本語訳発行の際、「一九四九年マッカーサーが翻訳出版を禁じた衝撃の書」という帯封で大分売れた本である。彼女はアメリカの大学で日本社会の講義をしていたが、終戦にGHQの諮問機関の一人として来日、労働基本法の策定にたずさわった。多分意図的と思われる天皇制や、軍閥に対する認識過誤などあるが、とにかくアメリカ人の書いた多分唯一の日本擁護の本であり、上記のグース云々というのは、この本の一章の題名である。訳注によれば、西洋人に許されるなら、日本人にだって許される、という意味である。
 (二)“傍観主義“―この言葉は結局あと知恵(hindsight)という意味と同じだ。―
 チャーチルの「第二次大戦回顧録」を読むと、ドイツに怪物ヒトラーが出て来て、着々と軍備を整えつつあった時に、ベルサイユ条約違反を、口には出しても実は十年近くも傍観していた他のヨーロッパ諸国の不作為の罪を強く指摘し、反省し、批判している。私はこれは「なさざるの罪」だと思うと同時に、東洋でも同じ事があったのだと思っている。
 
 以下は上述のミアーズ女史の著書よりの引用が多いが、「もし日本が一九三一年に世界征服を開始したとしたら、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスは征服事業の協力者と言わなければならない。これら各国が支配する地域からの物資供給がなければ、日本は満州事変と日華事変を遂行出来なかったし、パールハーバー、シンガポールも攻撃出来なかったろう。そればかりでなく、多くの日本人が食べていけなくなったろう。アメリカ、イギリス、オランダ三国は、日本の軍事必需品の八五パーセントを供給していた。一九三八年には、アメリカだけで五七パーセントを供給しているのだ。――日本が日華事変を継続させることが出来たのは、三国から買っていた綿、工作機械、石油、くず鉄など戦略物資のおかげなのだ。」(同書一三四ページ)
 (三)何十年か前に、アメリカはニューヨークに赴任していた時、郊外の家から車で通勤していた。当時アメリカ人の仲間から「ハイウエイでスピード違反でパトカーに追われた時には、必ず、そのスピード違反している車の群れの内、一番後の車が捕まるのだ」と言われた。それは不公平ではないか、と言うと、違反して先頭を走っている車は捕まえようもなく先を走っているので、間抜けな群の一番最後の車が捕まるのだ、ということだった。
 悪いことは悪いことなのだが、捕まるかどうかは時間的問題だ、遅くてモタモタしているからだヨ(それに乗っているのが東洋人)と言われれば、それまでなのだが。
 この章の副題に「目くそ鼻くそを嗤う」としたのは、この意味である。
第二章 戦争
 ―その非人間性と、日本軍の非科学性―
 (一)“傍観主義“は相手が技を仕掛けた時にこちらがかけること。アメリカに柔道の極意を盗まれた日本!
 昭和十六年(一九四一)のハワイ空襲について、アメリカが怒っている、そして騙し討ちだ! と言っていると教わったのは、中学だった。英語の先生は先方の新聞に載ったtreachery attackという言葉を教えてくれたので、未だにTreacheryという彼らもあまり使わない言葉を覚えている次第。
 ところがハワイ空襲の始まる前に手渡される筈の日本の宣戦布告が遅れたのは、ナント日本の大使館員の怠慢であり、しかもその怠慢の処分はしていないという。ナントモ外務省のやることは判らないの一言につきる。この怠慢さは平成六年(一九九四)外交文書の公開で明らかになったのである。各新聞(十一月二十一日付け)で怠慢のことは大きく取り上げたが、処分しなかったことについては、何の批評もなかったと記憶している。日本人の忘れっぽさであろうか。
 しかし、天皇とマッカーサーとの会談でたった一人で通訳にあたった某氏は、あれは明らかに大使館員のサボタージュであったと、当時のアメリカ側に働いている人として明言した。怠慢とサボタージュとは日本語では同じ意味にも取れるし、また後者の方がひどい意図的な意味にも取れるが、英語では妨害とか破壊的行為とかで意図的と取れることを申しそえる。そうならば、大使館の中にスパイがいたことになり、外務省が処分しなかったのは誠に不可解である。
 (二)またルーズベルト大統領は一九四一年五月二十八日(勿論開戦前)の演説で「攻撃という言葉をつかうときは、現実的でなければならない。敵が我々の海岸に上陸するまでは、自衛のための戦争はしないというのは愚かな考えである。……」さらに同年九月二十一日には「われわれが自衛上死活の重要性をもつと考える水域に枢軸国の潜水艦ないし爆撃機が存在すれば、そのこと自体が攻撃である」と言い、進んで十月二十七日には「存亡にかかわる利益が脅かされたと判断したら、大統領は世界の何処であれ、その国あるいは国々を攻撃する権利を持つ」。ミアーズ女史は「誰が脅かしているかを決める権利がアメリカにあるなら、日本にも同じ権利がある筈だ。もしないなら、なぜないのか」と聞いている(八六ページ)。
 (三)最も非難さるべきは、原子爆弾であろう。アメリカ軍の本土上陸に対する死傷者を減らすため、戦争を早期にやめさせるため、というのが現在の公式的な見解になっているようだが、「しかし、米戦略爆撃機調査の公式報告(Bombing Survey p.11)は、そのような独裁体勢に確実なショックを与えることの必要はなかった」という(一四八ぺージ)。同調査の総括報告(二六ページ)によれば、「原爆はポツダム宣言を早めるようにさらにせかせただけだった。原子爆弾が投下されなくても、あるいはソ連が参戦しなくても、また上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は一九四五年十一月一日までに無条件降伏していただろう」と言う意見をつけている(一四八ぺージ)。
 さらに、ミアーズ女史は、「私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名のもとに犯した罪は自動的に免責されると思っているのだろうか」と問いかけ(一五〇ページ)、「原爆使用の正当性に固執するのは、私たち自身の価値観を否定するものだ。私たちがいつまでも倫理の二重基準にしがみついているならば、私たちより力の弱い、私たちのように安全が保障されていない国の人々に向かって、私たち以上に良心的になれとはいえないのである」(一五〇ページ)としている。
 (四)侵略について言えば、第一章で述べたごとく、日本は遅れて出発し、しかも有色人種の国であった。それでミアーズ女史は「私たちが神道の告発に使っている論理を証拠に使えば、キリスト教を侵略的で好戦的な宗教として裁くほうがやさしい。西欧諸国が勢力拡大に最も力を入れていた時期には、剣と十字架は相携えて進んでいた。キリスト教徒の多くが剣を否定し、征服はキリスト教の教義に反する行為であると否定していたことは事実だが、ヨーロッパの征服者たちが他国を直接、間接に侵略する際、キリスト教の助けを借りたことも事実だ」(一八○ページ)。さらに、決して好戦的国家ではないという証拠として彼女は「日本人は何世紀にもわたって孤立の中で平和に生きてこられたのだ」(一八一ぺージ)とする。
 私は「侵略」という言葉の定義が国際的に具体的に出来ているかどうか、不勉強で知らない。しかし、すべての侵略戦争が自衛の為と称するか、傀儡政権の要望に応える形で行われるかのいずれかであることは、全く誰も否定できない事実である。
 (五)「当時の現実状況から、アジアの政治活動家たちが、対日カイロ宣言(一九四三年十二月一日―日本の奪った領土はすべて取り上げると合意)を解釈するなら、日本の罪状は、彼らが植民地住民に対して暴虐を振るったことではなく、日本の暴虐が、同じような暴虐によってヨーロッパ諸国が確立した植民地体制の現状(status quo)を揺すぶったことなのだ」(三六七ページ)としている。私はこの解釈が一番大東亜戦争の本質をとらえていると思っている。
 したがって、「目くそ鼻くそを嗤う」という言葉が出てくるのだ。
 (六)私は終戦時に江田島の海軍兵学校に在籍していた。いろいろな情報(例えば、軍極秘暗号の沢山の軍艦の呼び出し符号―五桁の数字―が赤ペンで消されていて、日本には空母は一隻もなく、戦艦は三隻いるが皆呉の軍港に油切れで停泊していること、など)で日本が勝てるとは思っていなかった。
 八月十五日の終戦の詔勅は良く聞こえなかったが、友人が「太平を開く」と言ったから、負けたのだというので、納得した。皆平静であった。
 詔勅を聞いた後、数時間して又全員集合があった。当時の副校長の大西中将が次のことを皆に伝えた。すばらしいことだと思う。それは、あの詔勅の数時間後のこれだけのことを言う海軍将官がいたということである。
 それは、「日本が負けたのは、三つの原因がある。一つは物資の不足である。もう一つは科学の力の不足である。(三つ目は忘れたが、多分国際協力的なことの不足だったと思う。)日本は電探(レーダー)技術はとても遅れていたし、B29どころか、B19にも対抗できる防空戦闘機はなかった。それで、ここの生徒はすみやかに実家にかえすが、事情が許せば大学に進学して日本の再建に尽くしてくれ、貴様らの進学については海軍挙げて応援するから心配するな」そしてフヒィテの言葉を引用した。
第三章 占領と極東裁判
―民主主義という名の茶番劇と復讐―
 (一)手元にGHQの出した占領政策の内、とても大事な報道に関する制限条項がある。それは、一九四六年(昭和二十一年)十一月二十五日付けのもので、日本の放送・新聞に対する規制である。全部で三十項目あるが、私が甚だ怒っているものが数点ある。一番目は勿論SCAP(連合国最高司令官)の批判の禁止だが、二番目は東京裁判への批判の禁止、それからいろいろ続くが、私が指摘したいのは、第四番目の、検閲していることを知らせてはならないという条項である。(原文:Indirect or direct references to censorship of press, movies, newspapers, or magazines fall into this category.)これは彼らの唱える民主主義の全くの反対の事ではないか。非常に卑劣なイヤラシイ規制である。
 さらに、戦犯の正当化または弁護(原文:Any justification or defense of war criminal will fall into this category)正当化の禁止は或る程度判るにしても、弁護まで禁止されたのである。言語同断である。その他女性との懇交の物がたりを報道してはならない、などなど。
 (二)極東裁判については、何よりもその不公平さ(unfairness)を問題にしたい。しかし、私が多言を弄するよりも、一九九五年にやっと発行された小堀桂一郎氏編纂の「東京裁判・日本の弁明」(講談社学術文庫)を読むべきである。清瀬弁護人の他、ブレイクニー弁護人の活躍がみるべきものである。小堀氏は本書の解説の中で、ブレイクニー弁護人が、「広島・長崎への原爆投下という空前の残虐(これこそ起訴状に言う「人道に対する罪」だった)を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格はない」と言ったと述べている。又同弁護人は曰く「国家の行為である戦争の個人責任を問う事は法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであって、個人に対してではない。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。」
 法が遡及的に適用出来ないのは法律にたずさわるものの常識であり、「事後立法は裁判の仮面をかぶったリンチに他ならない」との痛烈な警句をはいた清瀬弁護人の弁護は却下になった。極東裁判は全くの事後立法に基づく、非合法的裁判である。とにかく、弁護側は文書を提出することすら禁じられ、朗読することも禁じられていた。そして清瀬弁護人他の血のにじむ努力も水泡に帰した。私たちには決して悪事を働かない保障はない。しかし、このような正義の仮面を被った偽善だけは、私はしたくないと思っている。これは占領政策が民主、民主といいながら、検閲をしていること自体を報道させないという行為と軸を一にするものである。いわんや、マッカーサーが大戦当初、フィリピンから追い落とされた当の将軍山下奉文への銃殺刑は、訴因からして非該当であり、復讐としか考えられない。
 (三)日本人は人が良いので、国連尊重などといっているが、国連とはUnited Nationであり、我々が戦争で戦ったのは連合国であり、これを英語ではUnited Nationという。その国連の常任理事国になるというのは、どういう皮肉かマゾヒズムなのか、と思う。
第四章 天皇制 ―Paradigm Lost(パラダイム・ロースト)
 (一)マッカーサーが世界でこんなに完全なそして早い武装解除の歴史はない、と自らを誇ったが、それは一にかかって天皇の命令であったからで、彼の軍隊の優秀性のゆえではない。彼は天皇の神秘に近いその力を利用しようと、初めの天皇戦犯論をやめて、天皇をむしろ擁護し始めた。このことは一般の人も判っていることである。だから、裁判に掛けられるか、どうかということと、天皇に戦争責任がないかどうかとは、全く関係がない。つまりは政治的な天皇の解き放しだからだ。私はGHQのこの戦略は彼らにとって大成功であったと思う。だが、日本に彼らの言うところの民主主義がいまだ根付かないのは、そのせいでもあるのだ。
 (二)しかし、マッカーサーが政治的に天皇を利用したお蔭で、日本はドイツが戦後徹底的な自己批判をしたのと裏腹に、中途半端な自己批判に終わっている。これが韓国や中国に教科書問題として取り上げられている根本的な理由である。規範としての天皇は、人間宣言をした。だからといって、日本人にはそれに取って代わる規範は出来なかった。何故なら天皇が退位もしないでそこにいるからである。いるどころか、国中を回ってPRに努めたので、日本人はデモクラシィはこんなものか、と新しい規範をつくることなく、というか、つくる必要を感じなくてそのままヅルヅルと来てしまったのである。
 (三)私は天皇の戦争責任論には前から興味があったので、「天皇の戦争責任」という厚い本が出版された時、早速買った(三人の学者の鼎談形式・桂書房、二〇〇〇年十一月刊)しかし、理論的な部分はともかく、何か異物を噛んでいる感じがしてならなかった。それはこの学者さんが皆終戦後の生まれた子だったからである。
 彼らは、私たち当時の都立中学の男子生徒が、毎年明治節(十一月三日)に早朝、代々木の練兵場に集まって待つこと数時間で白い馬に乗った天皇が査閲したことをご存じあるまい。たしか中学四年か五年生になると、学校の教練に使う小銃を前日に持ち帰って良いことになっていた(翌日の朝が早いので)。彼らはまた、都電が二重橋前を通るときには、皇居の方に帽子を取って、頭を下げないといけなかったことも、ご存じあるまい。戦争が始まってからは、毎月八日は「大詔奉戴日」といって町内会で国旗をあげたりしたこともご存じあるまい。「大詔」とは天皇の発した宣戦布告のことである。有名な「木戸日記」に天皇が戦況が悪いと聞かされて、「陸軍は何をしておるのか」と怒ったということがどこかに書いてあった。
 兵士が皆戦死するときに「天皇陛下万歳」と叫んだとは勿論限らないが、同時にそういって死んで行った兵士も沢山いたであろうに。
 (四)日本はマッカーサーの戦術の為に残しておいた天皇を、そのまま受け入れても良いと言う誠にいい加減な自己批判をしたので、それがもう一つマッカーサーが便宜的に残した官僚制度と結びついて、いまだに物神性の犠牲となっているのである。
 偉い政治家とか財界人が亡くなると、天皇から位階勲等が授けられる。例えば勲三等とか正三位とかである。丁度千三百年前の大宝律令と全くといって良いほど変わらない。天皇に近い人たちが恩賞にあずかる。線香も焚かず、屁もひらず、といった官僚も、永年勤続となれば勲位をもらう。民間で汗水たらして働いても、勲位はもらえない。こんな制度が二十一世紀にあると他の国の人がちょっと研究して発表したら、どうなるのだろうか。日本を本当に愛しているなら、天皇制の問題を横に置いて話すことは出来ない筈である。
 (五)天皇家は残して良いが、憲法上の関連諸制度は全部削除すべきだと考える。
第五章 平和の配当―これから何処へ(クオ・バディス)
 (一)私たち(大正後期乃至昭和四、五年生まれ)の男の子にとって、少年時、東郷平八郎とか、広瀬中佐とか、奉天の大会戦とかは、とても遠い昔の話として聞いていた。しかし、計算してみると、日露戦争と我々世代の生まれた年との間は、昭和五年生まれとしても、たった三十年前のことであった。いまや二〇〇〇年を越え、昭和十六年(一九四一)のハワイ空襲のことが忘れられるのは、その意味では当然でもあり、もう六十年も前のことなのである。従って、若者の中には―勿論教育の問題もあろうが―日本がアメリカと戦ったことがあることを知らない者もあると聞くが、あながち嘘ではないことのようだ。
 でも、そのままでも良いのではないかという気が最近し始めた。
 (二)最近新聞紙面をにぎやかにさせている所謂十七歳犯罪とか、警官も恐れない暴走族とか、さらには二十代の妻の幼児殺しとかがあるし、近所では中国人によるピッキング犯罪の話が盛んだし、嫌な話ばかりである。
 しかし、私はこれは平和の配当だと思っているし、人にもそう言っている。戦争のような国民のベクトルが一方向にむかなければならないような時には、日本に限らず、世界中犯罪は減るのである。ベクトルが一方向でない、特にパラダイス・ローストならぬパラダイム・ローストの日本ではいろいろのことが起こって当たり前だと考える。日本に限らず、今アメリカでも、ヨーロッパでもむしろ日本よりひどい状態である。これは我々年寄りが甘受しなければならないマイナスの配当だと思えば良いではないか。私は世の中が乱れるよりも、戦争が起こることの方が余程こわい。現在の日本の状況は「平和」そのものであり、その中で起こることはあの空襲で逃げ惑ったり、機銃射撃に追っかけられたりするよりは余程小さなことだと思う。
 この平和が新しい文化を生み出してくれるのを期待している。








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