テロリズムと 心理操作
東邦大学助教授・東邦大学大橋病院精神科医
高橋 紳吾
1米国における同時多発テロ事件の発生
2001年9月11日、米国本土で史上最悪の同時多発テロが発生しました。航空機を世界貿易センタービルやペンタゴンへ突入させ、崩壊させるというショッキングな映像が何度も流され続けましたが、影響の大きさを配慮して、米国ではその映像の使用がいち早く中止されました。米国人にとっては、文字どおり青天の霹靂で、真珠湾攻撃になぞらえるコメントがいち早く出ましたし、米国大統領は「これは戦争だ」と言い放ったのです。
大方の推測通り、このテロがイスラム原理主義勢力・タリバンやビンラディンのテロ組織「アル・カイーダ」らによって引き起こされたのだとすれば、しばしば歴史が繰り返されてきたように、ここでも宗教の名の下に、大量殺戮が行われたことになります。
もともと聖地エルサレムをめぐる争いは、国連決議を無視したイスラエルによる聖地占拠と、これをめぐる周辺イスラム国とのきな臭い局地戦でした。いわば先進国にとっては、そこが油田地帯であること以外は、対岸の火事だったのです。湾岸戦争の時のピンポイント爆撃でさえ、われわれにとって、それは遠くの映像的な出来事に過ぎなかったといってもよいでしょう。しかし、米国での大規模テロによって、問題は一気に世界的課題へと発展しました。
もちろんテロは断じて許されるものではありません。徹底的に犯人及び首謀者は追及され、法廷の場に引きずり出さなければなりません。と同時に、イスラムの中でも原理主義者はごく一部の過激な信条を持った者たちであり、大多数のイスラム教徒や復興運動派とは区別されなければならないのです。穏健派を原理主義へと駆り立てないという明確な戦略こそが、いま求められています。そのためには、なぜ彼らが過激な信条を持つに至ったのかの検証が是非とも必要となります。複雑な中東問題をここで述べることは出来ませんが、一般にテロリストたちは、複雑に思考する能力が低下し、単純化した思考と昂揚した気分に支配されています。
2地下鉄サリン事件の実行犯たち
テロといえば、1995年3月、地下鉄サリン事件もまさに宗教の名の下に行われた大量殺人でした。狂信者集団は、カルトと呼ばれます。これについて当局は無知でした。サリン事件以前に、カルト問題の専門家が、当時のオウム真理教の危険性を知らせる文書を関係各機関に発してもまったく無視され続けました。ある弁護士は、全部で90通以上の警告文を発していたのです。テロを未然に防げなかったのは完全な失政でした。にもかかわらず、政府はいまだにサリン被害者の救済に具体的な処方を見出していません。それはさておくとしても、ではなぜ、こういう未曾有のテロが起きたのでしょう。なぜ高学歴の、本来はこころ優しく、求道心あふれる青年達が、教祖の指令どおり最悪の事件をひきおこしたのでしょうか。
カルト犯罪は、二重に被害者を作り出します。サリンの直接被害を受けた、カルトとは無縁だった無辜の人々と、いわゆるマインドコントロール(心理操作)を受けて犯罪に手を染めざるを得なかった「加害者」たちです。もちろん同じ被害者として扱うことに異論が噴出することは承知の上です、
私は、これまでにも精神鑑定で多くの殺人事件に関わってきました。被告人との面接で、しばしば小菅の東京拘置所へも出向き、様々な検査を施行して、長文の鑑定書を作成しました。その作業は、何度おこなっても慣れるということがなく負担は大きいのですが、それでも犯罪心理へのさらなる学術的関心を呼び起こしてくれ、ある種の達成感があります。ところが1998年の晩秋から始めた小菅通いは、翌春までの15回でしたが、面接に通うごとに著しい疲労感がつのり、面接を終えて高い塀の外に出るたびに、体が地面に吸い込まれそうになるほどの虚無感に襲われたことを記憶しています。被告は、地下鉄サリンの実行犯三名でしたが、この犯罪心理のメカニズムを司法が納得できるように説明するのがとても困難に思え、極刑が免れないことを予感したからです。彼らは、カルトに引き込まれる若者の特徴をそれぞれ有していました。
心理操作の基本は、ターゲットの需要に応じて偽りの情報を与え、最終的に相手を意のままに操る説得術です。需要には、病気治し・能力開発・こころの充実・理想追求などさまざまあります。
彼らの一人、Tは名門高校から東大進学、大学院で理論物理を学びました。Tは、心身ともに健康でしたが繊細なところがあり、小学校二年で学習辞典の平均余命表を見て、自分の命が有限であることに驚愕したと言います。勉強も運動も万能でクラスの人気者でしたが、中学の頃から死後世界に関心を持ち、図書館で本を借りては読み耽るようになります。高校を卒業するまでには、研究者が手にするような本までも読破していました。東大へ入学手続きしたその日、東京駅の書店で、麻原の超能力の本と遭遇。死後世界の具体的描写に大変驚き、後に道場通いを始めます。六年間は勉強、クラブ活動、家庭教師などで充実していました。道場で修行もしましたが、目立った神秘体験はなく、効果は上がりませんでした。会得したことは、世界が破滅に向かっているという実感。グルが自分の心の状態を読むことができ、グルを疑ってはならないという教えでした。疑うことは最大のカルマ(業)なので、大学院を卒業してすぐにグルの指示で出家。集中修行と数学、専門知識を生かした業務を繰り返すうち、ますます「指令への疑念」を打ち消す「能力」が肥大したのです。
教祖は信者の状態をよく観察していて、イエスマンを高く評価し、サリン散布の指示を与えたようです。
しかしTは、散布の際に一般乗客に憎しみの感情を持っていたわけではなく、まして聖戦などという意識もありませんでした。とにかくグルの指示は絶対で、疑うことは無間地獄へ落ちることであると信じていたのです。教祖から指示を出された全員が一人も欠けることなく、同時多発テロに手を染めました。逮捕され公判が始まるころになって、Tらは教祖に騙されていたことにようやく気づいたのです。サリン実行犯の中でも、特にTは死刑を覚悟しており、しかも死後世界に希望を持つこともかなわず、懺悔の毎日です。面接するたび虚無感に襲われたのは、この救いのなさでした。単に「騙されていた」では、あまりに空しいではありませんか。
3カルト問題の解消に向けて
二度とこのような事件を起こさせてはならない、教祖に出会わなければ有為な人物で一生を終えたはずのTのような「被害者」を出さないためにも、そう願い続けています。サリン事件のあと、弁護士、聖職者、教員、心理学者、精神科医らが集まって、日本脱カルト研究会(
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc)を立ち上げました。カルト問題には予防が一番なので啓発運動に取り組んでいます。書籍やビデオの製作と配付、公開の講演会の開催、さらに、不幸にもカルトメンバーになった若者たちがそこから離脱し、社会復帰するための技術の開発と援助活動、そして、カルト情報の収集と事件化です。ねばり強く活動を続けるしか方法はありません。
同じく、現在のイスラム世界の政治の混迷や貧困と差別問題など、若者たちが宗教の名の下に、過激な行動をとる諸要因を他国がどう支えられるかがいま試されています。
力によってカルト的団体を滅ぼしても根本の問題が解決されなければ、より過激な集団が形成されるだけで、世界はこれからも絶えずテロの恐怖におびえなければなりません。
もともとイスラムの聖戦(ジハード)とは「神のために努力する」という宗教的な意味であって、殺戮思想やテロとはまったく無縁のものです。今回のテロの首謀者が捕らえられ、その犯罪心理の解明がなされることを私は願っています。