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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 10
文学博士 榊原静山
韓愈、白居易に代表される中唐
 代宗広徳年間西紀七六三年―敬宗宝歴年間西紀八二六年の約七十年間をいう。
 盛唐時代では大活躍をした李杜の二大詩人をあげることができるのと同じように、この時代には韓愈と白居易の二人が出て、李杜韓白が唐代詩人の代表とされている。
 
韓愈
 (七六八―八二四)字は退之、?州の南陽(河南省)の人。文章の方でも、孟子、荘子、韓非子に比すべき唐代の第一人者である。三歳のとき孤児になり、兄嫁に養われ、二十五歳で進士になる。それからいろいろの役について、官に勤務していたが、五十二歳の憲宗が仏舎利を宮中に厚く迎えたとき、儒教を信奉している彼の立場から、偶像崇拝であるといって“論仏骨長”を書いて憲宗を諌めたのが、かえって逆鱗にふれて、潮州に左遷される。穆宗が位につくと翌年には再び召し戻されて、吏部侍郎になり、さらに京兆尹兼御史大夫という高い位にまでなったが、長慶四年五十七歳で世を去る。
 
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李適之
 
 韓愈は非常に強い信念の人で、権力にも威武にも屈せず節操に堅く、時の流れに棹さして、身の栄達をする人の多い世の中に批判的だった。怒涛を蹴って進むといった性格を持っているので、詩も実に雄大で、自然詩でも人間に恐怖の観念や驚異の感情を起こさしめるような豪放的な厚みのある格調をただよわす独自の一派を開いた。昌黎集四十巻があり、“鴻溝を過ぐ”はその特色の出た秀作である。
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(語釈) 鴻溝…河南省開封の地名で、昔、項羽と劉邦が約束をしてここの鴻溝から西を劉邦、東を項羽の領地として講和した。龍疲虎困…楚王項羽と漢王劉邦を竜と虎にたとえ、両方とも戦いに疲労困憊してしまったこと。
(通釈) 漢楚両軍とも永い戦いに疲れて鴻溝を境として土地を分け、人民も分かれて一応戦いを終えて、劉邦は西方に帰ろうとした時に、張良や陳平が劉邦に「漢は天下の大半を取り諸公も多勢此方についている。それに対して楚の方は食糧もなく困っている。今は天が楚を亡ぼす時であるのに西方に引き上げてしまっては虎を養って自ら禍根を残すようなものである」と諫めたので、漢王劉邦は楚を撃って亡ぼし、天下をとったのでる―と詠じているのであるが、これを“真成一擲乾坤を賭す”などというのは、いかにもこの人らしい表現である。
 
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若き日の韓愈
 
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韓愈
 
白居易
 (七七二―八四六)字は楽天といった。大原(山西省)の人で五、六歳のときから詩を作ったといわれ、十七歳の頃には“王昭君”という名詩を作っている。三十九歳で進士に及第し、官についたが、皇帝に直諫したり、時の政治を諷刺した作品を作ったりして高官の怨みを買って幾度も役職をかえられた。それでも最後には刑部尚書までなったが、晩年、官を辞して詩と酒と琴を友とし、酔吟先生と自ら名乗った。
 また仏門に入り、家を香山寺と称して香山居士ともいい、七十五歳で没している。
 白居易の詩風は平易で世を諷刺した面白いものが多いので、その時代の人々に広く愛誦されたばかりでなく、彼の生存中に早くもわが国にももたらされ、平安時代の文学に大きな影響を与えた。特に“長恨歌”は源氏物語の母胎になっているとさえいわれている。「香炉峰の雪撥簾看」の詩句を清少納言も知っていて、雪の朝簾を巻いたという逸話も残っている。
 白居易の作として最も入口に膾炙しているのは“琵琶行”と“長恨歌”であるが、この二つを入れておよそ三千八百余首の詩を作り、唐の詩人として詩の数では白居易が第一位で、これらの詩を集めた白氏文集七十一巻を残している。これらに続いて王、孟、韋、柳といわれる盛唐時代の王維と孟浩然の流れを継承した韋応物と柳宗元がいる。
 
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白居易
 
韋応物
 (七三六−八三五)長安の人で、若い時分は玄宗の親衛隊に入って働いていたが、のちに学問に励み、役人になった。高潔で気品高い自然を題材とした詩を作り、幽幻な感じの“洲西澗”という詩が知られている。韋江集十巻もある。
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(語釈) 洲…安徽省の県の谷川。西澗…この城の西を流れる上馬河という河。幽草…深い谷間の草。黄…うぐいす。晩来…来は助辞。野渡…野の渡り場。
(通釈) 洲城外の谷川のほとりには、幽草が生えている。上を見ると繁った木々には鶯が鳴いている。雨があったので春の水の流れも水かさが増して、急に流れている。野辺の渡り場には人影もなく、孤舟が淋しく川面に横たわっている。
 
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洲西澗」
柳宗元
 (七七三―八一九)字は子厚といい河東(山西省)の人。
 進士に合格して役人になったが、三十三歳のとき王叔文の失敗の影響を受けて左遷され、永州の未開の土地で、もっぱら詩を友として不遇な生活を送り、四十七歳で生涯を閉じている。
 それだけに孤独にたえ、寂寞の味をもった詩や自然の描写にすぐれた詩を作っており、文集四十三巻がある。
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柳宗元
(語釈) 万径…すべての小道。人蹤…人の足跡。蓑笠…みのと笠。
(通釈) あちらこちらの山々に鳥の飛ぶ姿も絶えて、すべての道に人の足跡も消えた。その静かな中で一そうの小舟の中に、みのかさをつけた老人がひとりぽっちで雪の川に釣糸を垂れている―。
 いかにも中国の絵のような情景を自然に描写している作品である。推敲という言葉で知られている賈島もまた、この時代の人である。
 
賈島
 (七七一―八四一)字は浪仙・范陽の人で、僧になって無本と名乗っていたが、のちに韓愈に認められて進士になることのできた人であるが、韓愈との間に逸話がある。
 
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賈島
 長安で「鳥は宿す池辺の樹、僧は推す月下の門」という詩を作って、この“推す”とするか、“敲く”とするか、どちらがよいだろうかと道を歩きながら手まねで推す敲くとやっているうちに、韓愈の行列にぶつかってしまい、韓愈から敲くとした方がよいといわれてそれにきめ、それ以来韓愈と友達になることができたという。
 推敲という熟語がここからできたといわれるほど賈島は細かな神経で詩を作ったといわれ、特に五言律詩が得意で長江集十巻がある。“楓橋夜泊”の詩で有名な張継も、この時代に出ている。戴叔倫、孟郊、王建、劉禹錫、盧綸、耿、元、張継、顧況、李益、張籍、銭起なども出ている。








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