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'02剣詩舞の研究(八)   一般の部
石川健次郎
剣舞
「和歌・返らじと」の研究
楠木正行作
(前奏17秒)
返らじとかねて思へば梓弓
なき数にいる名をぞとどむる
返らじとかねて思へば梓弓
なき数にいる名をぞとどむる
(後奏14秒)
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楠木正行像
 
◎詩文解釈
 桜井の駅で楠木正成は、息子の正行との同行を拒み、「今度の合戦では無事に帰れるとは思わない、自分が討死したら天下は足利将軍の世になるだろう。そうした世になっても、正行は天皇方の立場を守って、立派な臣として忠義を尽くせ」とさとし、正成は延元元年五月二十五日に湊川に出陣し、激戦の末覚悟の如く弟正季と刺し違えて死んだ。
 さて此の和歌の作者楠木正行(一三二六〜一三四八)は父のことばを忘れず二十五歳の折に、父の十三回忌をすますと、住吉・天王寺に出て兵を挙げ、幕府軍を破っては気をはいた。これを知った将軍尊氏は驚いて執事の高師直らを差し向けると、正行は討死を覚悟して戦いにのぞんだ。まず戦に先だって後村上天皇に別れを告げ、一四三名が先帝後醍醐の御廟に参拝してから如意輪堂の板壁を過去帳にして、それぞれ名を書き連ね、最後に「返らじと・・・」の和歌を一首書きつけて、全員が髪の髪を切って仏殿に投げ入れ、四條畷の戦場へと向つた。
 この辞世の歌の意味は「矢はひとたび弓から放たれると再び帰ってこないように、正行はこの合戦で二度と生きては帰れないと覚悟をしていたので、ここ(如意輪堂)に死ぬ者の仲間入りする人達の名を記して永久にとどめようと思う」というもの。なお梓弓とは、昔は梓の木で弓を作ったことからこの名がある。
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如意輪堂
 
◎構成振付のポイント
 さて、この作品を構成する場合に、前項で述べた様な楠木正行が成人してから、父の志を継いで挙兵し、先帝の廟に参り、如意輪堂に名を書き連ね、辞世の和歌を矢尻(矢の先のとがった部分)で板戸に書きつけて、いよいよ戦場に赴かんとする迄を順次剣舞構成するA案と、B案としては後醍醐天皇陵に参るところに始まり、名を如意輪堂に書き連らね辞世の一首を書きつける迄を和歌の前段までに構成し、歌返しから四條畷の合戦振りを剣技中心に展開する。
 四條畷の合戦については「太平記」では次の様に記しているので参考にしたい。
 貞和四年(一三四八)正月五日、勇み立つ楠木勢は全軍を三手に分け縦横無尽に戦った。しかしもともと小勢な楠木勢は、生き残った三百余騎を一団として、如意輪堂に名を連ねた一四三人を中心に、敵將高師直の姿を求めて突き進んで行った。この激しい攻撃に足利勢はくずれ立った。正行は師直の陣までわずか半町(約五十五メートル)までに追いつめたとき、師直を名乗った替玉が討死して正行に油断を与えた。正行は身代わりとわかると最後の気力を奮って師直の陣中に攻め入り満身に矢を浴びて、これ迄と弟正時と刺しちがえて討死を遂げた。
 さて剣舞構成としてB案を詰めてみよう。前奏から和歌前段の前半は、正行が扇を笏に見立てて陵を参拝、笏を筆にして数人が署名する振り。前段の後半は正行が靫から矢を抜いて、辞世の一首を書く。歌返しの前半からは合戦振りで弓矢の振りから抜刀して縦横無尽に斬り付け、師直の身代りの首(扇)を刎ねるが、確認して投げすて、後半では再び激しく斬り込むが、矢を受けて倒れ(首の扇を矢に見立てる)、正時と刺しちがえのポーズで終り後奏で退場する。
 
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堂の扉に書いた辞世の歌
 
◎衣装・持ち道具
 決死の武人だから黒紋付白衿、合戦から白鉢巻の使用も可。扇は白(鳥の子)無地がよい。
 








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