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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 7
文学博士 榊原静山
近体詩が確立された唐代(前半)
 
唐代
 (西紀六一八−九〇七)は中国の歴史上もっとも安定した時代で、国威が世界中にひびき、長安の都は当時世界一の都市といわれた。政治上だけでなく文学、芸術、宗教、すべてにわたって最盛期の時代であった。
 特に詩については漢−文、唐−詩 宋−詞 元−曲という言葉があるように、漢代では文章が発達し、宋代は詞、元代は音楽、唐代は詩が最も発達した時期である。発達というよりも、現在われわれが吟じ、創作している大部分の詩体は今まで述べてきたような古詩形式のものは少なく、唐代に完成された新しい詩体、いわゆる近体詩である。漢代以来、発達して来た楽府も唐詩(近体詩)に押されて、ごく少数の作者が近体詩の片手間に楽府を作る程度になり、近体詩の時代になるわけである。
 さて、唐詩の歴史的発達過程は、明の高廷礼にならって、初・盛・中・晩の四期に分けることが普通となっているので、この順序で唐代の詩を見ていくことにする。
 
初唐
 唐の初め武徳年間西紀六一七年より睿宗大極年間七一二年までの九十六年間にあたる。
 詩人としてはまず初唐の四傑といわれる王勃、揚燗、盧照鄰、駱賓王の四人をあげなければなるまい。
 
王勃
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王勃
 (六四八−六七八)字を子安といい、隋末の大儒王通の孫。六歳で立派に文字を書き、九歳の時、顔師古の註を書いた漢書を読んで、その欠点を指摘したといわれるほどの、幼年時代から秀才ぶりを発揮した天才詩人である。五、七言句の詩を得意とし、二十九歳で南海で溺死しているが、王子安集十六巻がある。滕王閣という詩がとくに有名である。
 
揚烱
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揚烱
 (六五〇−六九五)揚烱も幼い時から聰敏で、長じて崇文館学士から盈川の令となった人である。著書としては盈川集三十巻がある。
 
蘆照鄰
 (六三七−六九〇)幽州范陽に生まれ、博学で新都尉という役についたが、不治の病になってしまい、大白山の中に入って療養生活をした。けれども病はますます重くなるばかりなので、自分の墓を作りその中で生活し、五悲文の詞を作ったり、多くの厭世的な詩を残し、親戚知人に別れを告げて穎水に投身して四十歳で死んだ。盧昇子集を残し、なかでも"長安古意"という詩が有名である。
 
駱賓王
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駱賓王
 (六五〇−六八四)浙江の人で五言詩を得意とした。長安の豪華な貴族の日常生活ぶりを華麗な筆で描写し、則天武后に抗して唐室に忠節をつくしたが、後年は行方不明になってしまった。彼の詩で最も有名なのは、則天武后が唐の天下を奪ったことを憤り、秦の始皇帝の刺客、荊軻の故事に感じて作った次の詩である。
 
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 (語釈)易水・・・中国の戦国時代に燕の西境を流れていた川で、燕の太子、丹の命令を受けて、秦の始皇帝を暗殺するために荊軻がここ迄きて、易水のほとりで丹と別れたところ。燕丹・・・燕の太子で丹という名前。壮士・・・意気盛んな男子荊軻のこと。
 (通釈)ここ易水の地は昔、生命をかけて始皇帝を暗殺するために向かう荊軻が、燕の太子”丹”と別れたところである。意気盛んな荊軻は悲憤慷慨のあまり髪が逆立って、冠をつき上げんばかりの勢いであった。しかし、もうそれらの人達も今はなく、ただ易水の流れだけが冷ややかに流れている。
 つぎに七言律詩の開祖と云われる沈、宋二家をあげなければならない。沈とは、沈期、とは宋之問である。
 この二人が輩出して、詩の声律を最も精密に研究し、在来の古体と今体との区別をはっきりさせたことは特筆しておかなければならない。
 
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 (六五六−七一三)字は雲郷といった。相州黄(現今の河南省)の生まれであることはわかっているが、はっきりした生年月日は不明である。則天武后のとき修文館直学士という役になってはいるが、役人としてはあまり用いられていない。しかし近代詩としての七言絶句、七言律詩の音韻を調和させ、非常に美しいものとした。詩の形式を完成した近代詩の功労者といえよう。沈期の詩集四巻がある。
 
宋之問
 (六五六−七一二)字は延清といった。扮州(現今の山西省)の人で、やはり生年月日は明確でない。官にはついたが左遷され、そのときに作った”新年作”という詩がよく知られている。宋之問も沈栓期と同じように七言の近代詩の基礎を作った人である。
 また「年々歳々花相同、歳々年々人不同」の詩句で有名な劉廷芝、その他陳子昂、魏徴、張若虚、杜審言、張九齢、賀知章、蘇張説、王翰などがこの時代に出ている。
 
劉廷芝
 (六五一−六八○)字は希夷、汝州穎川(河南省)の人で美男子だった。琵琶の名手である。”白頭吟”とか”公子行”という長詩を作っている。特にこの人は対句を読むのに妙を得ている。
 
陳子昂
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陳子昴
 (六六一−七〇二)字は伯玉、四川省の人で大地主の豪華の家に生まれ、官につとめ公明正大で、武攸官が契丹を討伐するときの参謀として従軍して後、官を辞して帰郷した。が、悪い県令のために財産をとられ、無実の罪におとしいれられて獄死してしまう。”感遇””登幽州台歌〃などの代表作がある。盛唐の先駆をなした詩人で、陳伯玉文集十巻を残している。
 
杜審言
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杜審言
 (六四七−七〇八)字は必簡・襄陽の人で、社甫の祖父にあたる人である。官につき隰陽の尉から洛陽の丞になったが、張易士の事件に連座して峯州に流されている。この人は自分の才がたけているのを傲っていたといわれ、五言詩が得意であった。
 
魏徴
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魏徴
 (五八○−六四三)字は玄、成、魏州曲城の人で、若いときに両親に死に別れ苦難をなめて育った。のちに唐の高祖に仕えて各地に転戦し、唐の建国につくした。後年、大宗に仕え信任厚く、秘書監宰相に昇進し、六十四歳で没している。「人生意気に感ず功名誰か復論せん」はこの人の詩句で今も名言として残っている。
 
張若虚
 (七一一年頃)姓も氏もつまびらかでないが、”春江花月の夜”の詩で名が残っている人である。
 
張九齢
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張九齢
 (六七三−七四〇)字は子寿・俗称を博物といわれるほどの記憶力の持主であったらしい。韶州曲江(広東省)の人で、一時、玄宗に仕えて中書舎人から中書令になったが、のち荊州長史に左遷され悠々と詩作を楽しみ六十八歳で病死している。五言古詩をよくし曲江文集二十巻がある。
 
賀知章
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賀知章
 (六五九−七四四)字は季真・会稽永興(浙江省)の人で文才に秀で、国子監の四門博士から大常博士を歴任し、礼部待郎とう高い役についた。晩年は左遷され放縦な生活に入り、官を辞して郷里に帰り、悠々自適の生活を送っている。賀秘監集一巻がある。
 
王翰
 (六八七−七二六)字は子羽、井州(山東省大原)の人。豪放な性格で若いときから酒を好み、進士に及第して昌楽県の尉から秘書正字、さらに通事舎人、駕部員外部に抜擢されたが、家に名馬や美女を集めて酒宴にふけったため失脚して、汝州の刺史に左遷された。
 のちに道州の司馬に流されて没している。いまに残っている詩は十四首ある。わが国の吟界でしばしば吟じられている”涼州詞”はなかでも有名である。
 
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 (語釈)涼州・・・唐の西北の国境にあった街で、いまの甘粛省武威県に”涼州官詞曲”という曲節があるが、これはその曲節からとった題である。夜光の杯・・・西域から産する白珠の杯。すきとおった石で、夜は光を発するので夜光杯という。沙場・・・砂漠地帯。
 (通釈)おいしい葡萄酒を白珠の杯で飲もうとすると、馬上で琵琶をならしてくれる者がいる。酒に酔って砂の上に酔いつぶれても、君笑うなかれ。昔から戦に出陣した者がいったい幾人帰ることができたろうか。
 
 (六七〇−七二七)字は廷碩、雍州武功(陝西省)の人。名門の出で千言を一覧にして暗誦したといわれる。進士に及第して則天武后に認められて監察御史になり、さらに中書舎人になる。父の死後は父の爵位をつぎ、工部侍郎から宰相になり、玄宗を輔佐した。張説とならんで燕許の大平筆といわれ、九十九首の詩が残っている。
 
張説
 (六六七−七三〇)字は道済、あるいは説之ともいい、洛陽の人。官に入り中宗に仕えて、工部侍郎になり、睿宗の中部侍郎、玄宗の太子時代の侍読をし、玄宗が即位すると中書令宰相にまでなった。最後は専断すぎて百官からにくまれ、辞職するが、ふたたび返り咲き左丞相になり、燕国の王に封ぜられて六十四歳で没している。張説文集二十五巻があり、三百余首の詩も残している。








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